29話
「茶がうめぇ」
ズズズと音を立てて熱いお茶をすする。ホッと心が落ち着く。
お茶請けの饅頭を一口。お茶の渋みが餡の甘みをより引き出す。
陽は温かいし、風はそよそよと穏やかだし、騒がしい問題も起きていないし、ああ、なんて優雅なひと時。
「今日は珍しく平和だな」
「そうだね。毒虫も逃げてないし、敵も侵入してないし、海賊さんも来てないし、一年は組が問題起こしてないし。呑気な日だ」
隣で寝ている友人の言葉に同意する。ちなみに彼女はいつも通り、寝ながら饅頭を頬張っている。
饅頭の最後の一口を口に入れて、私も床の上に寝転んだ。
すでに放課後、陽は西の方へ傾いているが、まだ夕日と呼ぶほど赤くない。
息を一つ大きく吸い、口から吐き出す。
先日あれほど声をあげて泣いたと言うのに、すっかり和やかな気持ちだ。自分の立ち直りの速さに脱帽。
今日、私は失恋したと確信した。勘右衛門は食堂には来なかった。
前日に覚悟を決めた、というかほぼ諦めていたせいか、それは私の心ですんなり落ち着いてしまった。
今はもう頑張ろうという気持は湧いてこない。
それでいいのだ。うん、良いのだ。四年とちょい、勘右衛門にのみ心血を注ぎこんだ私に今必要なのはきっと休息だ。
休んだらまた今度、頑張れることに出会うかもしれない。それまで力をため込むのだ。
私は寝たまま、お茶を一口含んだ。
「あ、良子じゃん」
隣にいる友人の言葉に反応して、辺りを見渡すと、こちらに走ってきている美少女がいた。
長い足を見せつけているように見えるのは、私の性格がやさぐれているせいだろうか。
「花子ちゃん、花子ちゃん」
どうも私のご用のようですね。
「帰ってきてたんだね」
良子は近くに来ると、ゆっくりと足を遅くし、前で止まった。
「うん、さっき。あのね、花子ちゃん。今時間ある?」
この寝転がっている状態で「ない」と答えても説得力のないことこの上ない。面倒事は避けたいのだが、状況が許してくれない。
「はいはい、暇ですよ?何の御用?」
放り投げるように言うと、良子はニッコリ笑った。
美人の武器だ。
「あのね、勘右衛門が花子ちゃんに会って謝りたいって」
「は?」
予想外の名詞に一瞬頭を殴られたように考えが抜け落ちる。
そして暫くして起こったことが繋がった。
「「あ〜」」
友人が私に合わせて声を出した。
「そう言えばすっかり忘れてた」
「最近あんた色々あり過ぎてるんだよ」
私たちが忘れていたこと。
それは良子が勘右衛門の誤解を解きに行ったこと。
そういえばそんなこと言ってたね。
まあいっか、って投げやりにしてすっかり頭の中から削除してたよ。
私はゴロゴロしていた体勢から起きあがった。
「それで、私はどうしたらいいの?」
「あ、勘右衛門が長屋の入り口で待ってるから今から行ってもらえる?」
「分かった」
人が待っているなら行かないといけない。
「良子、ありがとね」
「ううん、いいの」
ハニカム姿も絵になって本当に、憎らしい。
私は地面に降りると、友人に振りかえった。
「行ってきます」
「気をつけてね」
少し心配そうが視線が私の背中を押す。
背をシャンと伸ばして、私は勘右衛門が待つ所へ。
くの一の敷地から出ると、すぐに勘右衛門がいた。目が合う。何故か目を見開かれた。
私が挨拶をしようと口を開く前に勘右衛門が動いた。
「田中、ごめん!!」
ガバリと勢いよく頭が下がる。驚いてうっかり半歩下がってしまった。いつもと逆だ、逆。
「俺、勝手に勘違いして、田中を傷つけた。良子も、八左ヱ門も、兵助も、田中は虐めなんかしないって言うのに、勝手に思い込んで。酷いこといっぱい言って、睨んだりして、本当にごめん」
不思議だ。目の前に勘右衛門がいるのに、とても心が落ち着いている。
いつもだったら、すごく心が温かくなって高揚するのに、今は心の中から何か消えたようにすっきりとしている。
「本当は違うって、一昨日良子に言われて、でも俺弱くて、謝るのに今日までかかった。田中はすぐに謝ったのに、俺にはその勇気がなかった。情けないと思う」
じっくりと観察してみる。悪趣味なのは放っておいてほしい。
力の入った体。顔はもちろん下がっているから私からは見えない。ギュッと袴を握る手。
私、この人が好きだったんだ。
フッと頭に浮かんだ言葉。ああ、と実感する。何を今更だけど、心にジンと染み込んだ。
「許してくれなくて良い、なんて言えないけど、許されなくて当然だと思う。それでも仕方ない」
必死で謝る勘右衛門につい頬を緩めてしまう。
「やだなぁ、勘右衛門」
私が言葉を出したからか、勘右衛門は下げた頭を少し上げて私の顔を見た。
「許すなんてできるはずないじゃない」
クッと眉間に皺が寄った。この表情、昔よく見たな。罠にハマっているのを見つけた時と同じ顔だ。
「だって初めから怒ってないのに許すことがどうしてできるの?」
一度だって、私は勘右衛門に腹を立てたことがない。
なら許すことなどできるはずがないのだ。
「勘右衛門、頭なんて下げないで。おかしいよ」
言うと、勘右衛門は戸惑いながら頭を上げた。
情けない顔だ。それが可愛かったのだ。
自分でひっかけながら、守りたくて、笑わせたくて、好きになってほしかった。
泣いた顔も素敵だけど、微笑む顔が一番勘右衛門らしかった。
誰よりも勘右衛門を知っていたかった。
全部が思い出だ。
「田中、ごめんな」
それに私は息を吐いた。
「うん」
勘右衛門が真剣に言っている言葉を受け止める。
勘右衛門は安心したようで、体に入っていた力を抜いた。
本当に、おかしな気分だ。
全てがストンと落ち着いて、心の内が動かない。
もう勘右衛門は全部言い終わっただろうか。
もう口を開きそうにない。
「わざわざありがとうね、勘右衛門」
「いや、こっちこそ、来てくれてありがとう」
即座に返事がある。ドモらない。私と話しているのにドモっていない。
ここまで来ていたのだ。
「じゃあ、またね」
踵を返して、部屋に戻る。
しかし言わなければならないことを思いついて、また振りかえった。
「あのね、勘右衛門」
呼ぶと、ん?と私を見る。もう可愛い情けない表情ではない。
「今まで、ごめんね」
四年間とちょっと、あなたに向けた笑顔。
これがあなたに向ける最後の、最高の笑顔。
私の言葉が分からなくて、勘右衛門は首を傾げた。
謝ったのはほとんど私の自己満足だから知らなくても良い。ただ言いたかっただけ。
言うだけ言うと、私はまた体を返した。
足取り軽く友人が待つ部屋へ戻る。
後悔はない。未練はないとは言い切れないけど、それほど長引かないだろう。
もう心は完結してしまっている。涙は出ない。
初めて味わう心の爽快感が少しさみしい。
実感する。
あれは恋だったのだ。
もう私は恋をしていない。私の初めての恋は思い出になった。
息を吸い、吐いた。自然と笑みがこぼれる。
もしも今度があったなら、その時はきっと叶えてみせる。
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