20話
夜、夕食を食べた後、勘右衛門は機嫌悪く自室で寝転がっている。
それに眉を寄せているのは、部屋に遊びに来ている竹谷。平然とした顔をしているが、不思議に思っているのは久々知だ。
放課後、久々知と二人きりになった勘右衛門は一言も話さず鬼ごっこを放棄した。
グダグダになって終わった鬼ごっこの後の夕食に良子は現れず、三郎は難しい面持ちでおばちゃんに二人分のお握りを頼み部屋に戻った。
勘右衛門は機嫌が悪く、久々知はいつもと変わりなく箸を進め、雷蔵は苦笑しながら食事を済ませた。竹谷だけが一人戸惑っていた。
一人でいるのも落ち着かなかったので、二人の部屋を訪ねたが、ここでも落ち着くことができなかった。
ずっとピリピリとした空気を纏った勘右衛門がいるからだ。
久々知は平然としているが、竹谷がそれを真似ることはできない。彼は元来、世話焼きなのだ。
刺激しないように座った状態から床に手をつき、ゆっくりと上半身を勘右衛門に近づける。
眉間に寄せている皺は不機嫌であることを表している。
少し距離を持った状態で、八左ヱ門は口を開いた。
「なあ、勘右衛門。何でそんなに機嫌悪いんだ?」
八左ヱ門に怒っているはずがないのに、勘右衛門の目つきは厳しい。
普段穏和な彼には似合わない目つきだ。
「言いたくない」
拒否するように勘右衛門は目を逸らしたが、八左ヱ門がそれに納得して引き下がるはずがなかった。
「怒ってるだろ?何でそんなに怒ってるのか言えよ。言えば力になるかもしれない」
距離を縮める。勘右衛門は視線を動かして、思案する。一度唇を噛んで、起き上がった。
それに合わせて竹谷は胡坐をかき、久々知は勘右衛門に体を向けた。
二人を交互に見て、勘右衛門は口を開いた。
「良子が虐められている所に出くわしたんだ」
今まで平然としていた久々知の眉間に皺が寄る。
良子は彼らの大事な仲間であり、良子が傷つけられることはこの上なく不快なことであった。
竹谷は膝の上で拳を握った。彼は幾度も良子に嫌がらせをする輩に声を荒げてきたのだ。
ふと竹谷の頭に花子の顔が浮かぶが、それを打ち消した。全面的に守ってほしいと言ったわけではないのだ。
今回、彼女は居合わせなかっただけだ。きっと気づいたのなら彼女は良子を守ってくれたに違いない。竹谷はそう思った。
「良子の声が聞こえたからそこに行ったんだ。そしたら」
体にグッと余計な力が入る。
勘右衛門の眉間の皺が一層濃くなった。
「田中が良子を虐めてたんだ」
久々知と竹谷は力が入ったまま固まった。
空気が抜けるように、段々と体の強張りが抜けて行く。
「・・・は?」
そう言葉を吐いたのは竹谷だった。
勘右衛門だけが憤りながら、話を続けた。
「あいつ、毎朝俺たちに顔見せながら、影では良子を虐めてたんだ。許せない」
正確には勘右衛門に顔を見せているのだが、訂正する状況ではない。もっと重要な誤解が生じている。
久々知と竹谷は顔を見合わせた。そして花子を不憫に思いながら、眉に先ほどとはまた違った意味の皺を寄せて勘右衛門を見た。
「あのさ、それ、何か勘違いだと思うけど」
「たぶん、な」
二人の発言に勘右衛門が驚く。しかしすぐに上半身を前のめりにして、抗議した。
「良子が泣いてたんだぞ!!そこに田中がいたんだ。あいつが泣かせた以外考えられるか」
確かに、それを聞けば納得できそうだが、二人には、特に竹谷には田中が良子を虐めるとは考えられない。あの日、しっかりと言葉にしたのだから。
そこでフッと竹谷の頭に自分の行動がそれに関わっているのではないかという考えが生まれた。一気に不安が押し寄せてくる。グルグルとそれが頭の中を回る。
竹谷は立ち上がった。
「悪い、俺帰る」
二人が返事をする間もなく、部屋から出て行った。
残された久々知に勘右衛門の目が向く。
「どうして田中が虐めてないって言えるんだ」
それにどう答えていいのか。彼はまだ花子の気持など少しも分かっていないどころか、反対の気持ちを持っていると考えているのだ。
そんな彼に久々知たちが持っている「たぶん違う」と思わせる根拠を言ったところで通じるはずがない。
久々知は悩んだ末に言った。
「なんとなく」
そしてそれで勘右衛門が納得するはずもなかった。
夜、くの一長屋に忍び込むのは昼よりも格段に危ないが、竹谷は今そこに入って行かなければならない使命感と責任感に囚われていた。
幸いにして彼は忍たま上級生。それなりの能力を持っているので、多少困難に会いながらも目的の場所に着くことが出来た。
明りが零れる障子の前に立つ。表札には「田中」の文字。スッと息を吸い込んだ。
「田中、いるか」
「どうぞ〜」
すぐさま返事が返ってくる。しかし「いるか」と尋ねて「どうぞ」とはどういうことか。
開けてもいいということか。竹谷は躊躇して確認することにした。
「俺、竹谷だけど」
「だからどうぞ〜。鍵なんてかかってないよ」
女の部屋を不躾に開けてしまうのは抵抗があるが、あちらが良いと言っているのだ。開けた先に何があっても俺に責任はない。
そう心に言い聞かせて竹谷は障子を開けた。
障子の向こうには男の夢を壊すものがあった。
寝て煎餅を食べる女と、よく分からない格好で首に足をかけている女。
ちなみに花子は良く分からない格好の方である。
「入って入って。先生に見つかると面倒でしょ」
花子がそう急かす。横になっている同室の友人は煎餅を銜えながら竹谷を見た。
「どうぞ。私のことはあんまり気にしないで」
竹谷はとりあえず、従って中に入るが、二人の姿が気になってしょうがない。
先ほどまで男の自分たちでさえ、座って話をしていたというのに。
少なくとも、誰も寝ながら食べ物を口にしていなかった。そして花子の態勢の意味が全く理解できない。
全く異空間のような女の園に来てしまった竹谷は戸惑うばかりだ。
「ごめんね、今美容体操中だから」
そう言って花子は首から足を下ろした。それを見て竹谷はホッとする。
「竹谷君が来るとは予想外。何か用?」
「あ、ああ」
あまりの衝撃に忘れそうになっていた。キリッと表情を引き締め、花子を見た。
「勘右衛門が、田中が良子を虐めていたと言った」
「え、もしかしてそれに対して文句を?」
花子の体がグッと引く。竹谷はそれに首を振った。
「田中がしないことはこの間確認した。それより、もしかして俺が頼んだことが今回の原因なんじゃないか?田中は俺が言ったことを守ろうとしてたまたま居合わせた所を見られたんじゃないか?」
花子は態勢を立て直すと、真っすぐ竹谷を見た。
「そうよ。でも、原因はそれじゃないの。それはきっかけ」
花子が自嘲気味に笑う。それが竹谷の不安をあおった。
「良子も竹谷君も勘違いしてる。竹谷君が良子を頼むように言ってきたのも、良子が泣いたのも、きっかけに過ぎない」
「きっかけがなければ起こらなかっただろ」
花子は困ったように頭を掻く。
「いや、また別の形で何か起こったんじゃないかな?」
頭から手を話し、花子は首を傾げた。
「原因は、私が勘右衛門にそういうことをする奴だって思われてたことだよ。悪い印象を払拭できていなかった。もし、そういう印象が無かったら勘右衛門は良子が泣いていたとしても、何があったんだって聞いてくれたはずだもの」
「良子が泣いていたなら、勘右衛門は誰でも怒ったはずだ」
そう言い終わって竹谷は驚いた。
花子の目が潤んでいた。
「勘右衛門は花子が泣いていたら、先に体を支えると思うの。良子が何より大切だから。でもね、今回は私と良子の間に立って良子を守ったの。私が良子を攻撃すると思ったからの行動でしょ?」
勘右衛門なら。竹谷は考えた。勘右衛門ならきっと、最初に良子を慰めに走る。
そう、容易に判断できた。勘右衛門は普段、怒らない。人を責めない。虐めている相手よりも先に、良子を見るに違いない。
「今回のことで、あいさつ運動ぐらいじゃ足りないと分かったから、また何か考えてみるよ」
我慢したように笑うそれは、相手の責任を駆り立てる。庇護欲というものだろうか。
竹谷の眉が情けないほど下がった。
「あとね、勘右衛門に何か言ったりしないで。誤解を解こうとしないで。何も聞かなかったふり、知らないふりをして」
「何で。誤解を解けば、印象を良くすることだって出来るだろうが」
彼女が通る道は遠回りだ。もっと簡単な道があるのに、それを選ばない理由が分からない。花子は息を一つ軽く吐いた。
「それじゃ、勘右衛門が罪悪感を持つでしょ」
「そりゃそうだろ」
花子は小さく首を振った。
「それじゃ駄目だもの。今回、勘右衛門は人を守ろうとしたんだよ?もしそれが勘違いで起きたって知ったら、今後、同じことがあったら足踏みするようになるよ。嫌じゃない、そんなの」
竹谷には理解ができない。罪悪感を抱かせるより、誤解を誤解のまま思わせておく方が残酷だ。
「俺は言うぞ、勘右衛門に」
花子が悲しそうに眉を顰めた。
「あのね、これから先、後悔なんていっぱいすると思うの。それならせめて、自分で選んだことで後悔したい。勘右衛門のことについては特にそう思うの。人のせいで、なんて思いたくない」
鋭い光を持った目が竹谷を射抜いた。
「ねえ、竹谷君。私に恨まれる覚悟、ある?」
ねえよ、そんなもの。口に出さないが、竹谷は思った。あるはずがない、彼は彼の良いと思うことに従って行動しようとしただけなのだ。
身じろぐ。何か分からないが、強く異質な感じを受けて、竹谷は怖くなった。
「竹谷」
呼ばれて、もう一人部屋にいたことを思い出した。
寝たままの女に目を向ける。
「尾浜のことに関しては、この子の言うとおりにしてやってよ。頼むから」
ジッと二人の目から見られて、竹谷は膝を立てて体を浮かせた。
「俺には理解できない。でも、田中がそう言うなら俺は黙っている」
立ちあがって「邪魔した」と言うと、竹谷は部屋の外に出た。
扉を閉めてすぐ、走りだした。
足元を窺うことさえ難しい闇の中で走って、運動場の中心で止まった。
息を吐く。少しだけ汗をかいた。
暫く息を止めて、また一度息を吐く。
花子の強い意志に触れた。それは自分にはないもので身が竦んだ。
花子の揺るがない目が、竹谷を恐怖させた。
竹谷は自分が花子の部屋に何をしにいたのか分からなくなっていた。
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