6話
「おはよう、勘右衛門」
いつも通り放たれた言葉に足を一歩下げるのはすでに条件反射と言っていい。
田中の笑う顔と優しい口調が俺の中で怪しさを増幅させる。
田中はまるで作ったかのように毎朝満面の笑みを浮かべる。その顔を見ると、心臓を鷲掴みにされたような寒気を感じる。
一体何が怖いのだ、と問われてもただ彼女の存在が恐怖なのだとしか答えようがない。彼女が何をするかなど俺に推し量れるはずがないのだ。
当然、いつもと違い俺以外の人間に目を向けるなど予想できようはずがない。
田中は俺から目を離すと、隣にいた雷蔵を見た。
俺に向ける表情とは違う頬笑みで雷蔵に向かい合った。
「不破君、昨日はありがとうございました。借りた本がすごく分かりやすくてとても助かりました」
小さく田中は頭を下げる。
雷蔵を見れば、クスリと笑って頷いた。
「それ、僕じゃないんだ」
雷蔵はチラリと三郎を見やる。
すると田中は面白いほどうろたえだした。普段の堂々ぶりが嘘のようだ。
だが俺には全く状況が理解できていない。
「うそ、ごめんなさい。図書室にいたからてっきり不破君だと。うわ、私、なんて失礼な。わざとじゃないの。本当ごめんなさい。勘違いで」
そんな田中の様子に三郎が苦笑した。
「いや、よかったよ。私だとばれてなくて。雷蔵の真似をしていたんだ。もし田中にばれていたら一年からやり直すところだった」
「そっかぁ、鉢屋君が本気出してたら私が分かるはずないね」
ホッとした顔で田中が笑った。それにつられるように三郎も笑う。
雷蔵と三郎が田中と話すのを初めて見た。会話は和やかな感じである。
どこで親しくなったのか。興味がひかれないわけではない。
ただ俺に組み込まれた田中には極力関わるなという考えがそれを押し込んだ。
「課題だったから、本当に困ってたの。ありがとう」
田中は一度礼をすると、「じゃ」と言って食堂に入って行った。
姿が消えたところで俺はホッと息を吐いた。
「三郎、田中さんと仲良くなったのか?」
俺が聞くまいとしたことを八左ヱ門が言った。
三郎は笑った。
「別に仲良くなったわけじゃない。田中が言ってた通り、昨日課題の参考になる本を渡しただけだ」
「へ〜。だったら田中さんって律儀だな。普通その場だけの礼で済ますって」
感心して八左ヱ門はそう言う。確かにその行動はそう評価されるし、俺もそう思う。
ただやはり引っ掛かるのだ。俺と他の人への態度の違いが。
今の雷蔵、三郎に対する田中は礼儀正しさを持ち、明るく、優しかった。笑い方も作ったようではなかった。
そもそも、毎朝俺に挨拶に来るのが一体何の目論見なのか見当もついていないのだ。
俺と他の人間に何の違いがあり、田中が俺に対して何故嫌がらせをするのかが分からない。
「ほら、勘右衛門。田中、悪い奴じゃないだろ」
三郎が首を傾けて言ったが、俺には同意なんてできるはずもない。
「三郎に対しては良い奴だった。なんで田中は俺にだけ態度が違うのか全く分からない」
俺は正直に言うと、三郎は何も返さない。ただジッと俺を見返した。
しばらくそうした後、目線をはずして頬を人差し指で掻いた。
「なんて言うかさ、お前見てると「鈍感さは罪」ってのを実感させられるよ」
「は?」
意味が分からず聞き返そうとしたが、三郎に「いい、いい」と背中を押され食堂に促された。
蔑にされた気分だ。
鈍感さは罪?それが俺と何の関係があるのか俺に分かるはずもなかった。
「勘右衛門ってさ、本当に気づいてないんだね」
三郎と勘右衛門が食堂に消えてから、まだ廊下に残っている四人が、花子に対して同情した。
「好意が無かったら毎朝挨拶なんてしないよな」
「まあ、田中も自業自得なとこが有ったんだけど。もう罠が仕掛けられなくなって四年目なのにな」
「田中さん、良い人なんだけどね」
どうしても苦笑しか浮かばない。
勘右衛門に対する花子の態度は誰からどう見ても好意でしかないのだ。
しかしその好意が一方通行であることも、勘右衛門が受け取る気が無いのも火を見るより明らかである。
ほぼ学園公認の片思いと言えるそれは、想いを向けられる当の本人だけが知らないことだ。
誰かがため息を漏らした。
「せめてひと思いにふってやれば、田中も次に進めるんだろうな」
花子がそれを望んでいるわけではない。
それでもその言葉は、この恋が実らないと判断した多くの者の優しさを表していた。
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