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「……疲れた」


 へたりと座りこみ、額に流れる汗を拭った。濡れた髪は()だる頬や首筋にぺたりと貼りついて不快感を与えてくる。面倒だが拭ってやらないと時折目の中に入ってきて激痛を与えてくるのだ。
 痩せぎすな手首までしたたっていた一滴を、薄っぺらい皮膚に青く透けた血管に沿って、蛇のようにちろりと出した舌の先でそっと慎重に舐めとる。手首が感じ取った舌の熱さと身を(よじ)るようなくすぐったさが、汗の塩辛さと混じってうら恥ずかしさを生んだ。
 もやを膨らませて保つというのは想像以上に難しい練習だった。しかしやる度に時間が延びていくのはとても嬉しい。
 それでも疲労と言うものは気持ちとは関係なく、俺の体力を嘲笑うかのように容赦なく襲ってくる。ごろりと仰向けに寝転がり、さわさわと髪を優しくくすぐる風を心地好く感じながら睡魔に逆らうことなく目を閉じた。


◆ ◇ ◆



 目が覚めると辺りは薄暗くなり始めていた。少しだけ休息をとるつもりだったのだが、自覚以上に疲れていたらしい。
 汗が冷えたのか、小さなくしゃみがこぼれた。早く帰って暖かなベッドできちんと眠ろうと、重たい体でのっそり立ち上がる。
 脱ぎ捨てていた上着を取ろうとしたところで、ふと自分の腕の中に本が一冊収まっていることに気がついた。もともと持ってきていた本は寝る前と変わらない場所に置いてある。ここへやってきた誰かが俺にこれを渡したのだろうか。――いや、そんなはずは。


「何……?」


 分厚い上製本。傷一つないその真新しさは古書店ではなかなか見かけない。すん、と鼻を寄せて匂いを嗅いでも、案の定あの古書店を宿とした本たちが染みつかせる煙草独特の苦さと(かんば)しさは少しも感じられず、唯一紙と洋墨(インク)の清潔な匂いだけが覚醒しきっていない脳を爽やかに起こした。
 金色で細くツタの模様が書かれているだけの表紙に当然見覚えなどない。しっかりとした紙や腕に感じる重さ、夕焼けが終わる前の西日で輝く金に高級感こそ漂うものの、タイトルや作者名が書かれていない本はまるで絵画や物語に描かれていそうな、多くの人間のイメージする本という存在をそのまま形に落としこんだような外見で、良く言えば不思議、悪く言えば怪しい。


「……え?」


 どんな物語が広がっているのだろうとおそるおそる開いてみると、中は物語どころか詩の一行も書かれていない。予想もしていなかった白紙に思わず呆けた声が出てしまった。
 そうは言っても、完全なる真っ白というわけではなくうっすらと罫線(けいせん)が引かれているのだが。――これって、もしかしなくても。


「ノート……?」


 実際に所有したことはないが、十中八九ノートブックというものだろう。こんな見た目しておいてノートだなんて。
 これまで出会ったどれよりも素晴らしく心躍る物語に出会えるのではと、怪しみながらも確かに存在していた期待が裏切られ、肩を落とす。実用的じゃないな、と持ち運びに適していないそれに内心で文句をつけながら、何とはなしに中の紙に指の腹をそっと滑らせた。
 瞬間、貧血にも似たふらつきにひざをつく。しかし直接脳の内部に訪れた重みに不快感は無かった。むしろ、これまでにない高揚に五臓六腑(ごぞうろっぷ)が膨らみ、歓喜で窒息してしまいそうだ。
 期待外れだ――先ほどはそう思ったが、それは誤りだったと言える。どの物語よりも俺にとって素晴らしい物語がここには確かに存在していた。否、これから俺が物語を作っていくのだ。
 紙に触れた瞬間、俺の中で起こったのは、“理解”に尽きる。この本がどのようなものであるのか、何ができるのか。
 説明されたわけではない。言葉や狩りの時と同じように経験によって覚えたと言うのが一番近いだろう。経験なんて一度もしていないのにそれが一番しっくりくるのだから不思議だ。
 ――愉快な物語を紡いでいけるといいんだけど。


「んー……無理そうだな」


 俺は書き手にはなり得ない。「残念だ」なんてくすくす笑って、再度白紙を撫ぜる。するりとした上質な紙に美しく映える洋墨(インク)を想像して笑みを深めた。
 あっという間に暗くなっていく空を一瞥(いちべつ)し、使い方の解った秘密のノート(シークレットブック)を消して村への帰路を急いだ。

(P.8)



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