SirリザのTACET
佐久間は最後に綺麗な会釈を一つしてビルを出ていった。
残された二人は顔を見合わせる。
レオナルド・ダ・ヴィンチによって描かれた《モナ・リザ》は、当初肖像画として依頼を請けて描かれたものの、ダ・ヴィンチの完璧主義が災いしていつまでも完成せず、契約を破棄されモデルがいなくなったという一説がある。
世界一の美女と言われることもあれば、世界中の顔を足して割ったような“ごく平均的”な顔とも言われる
貴婦人は、その絵画名すら、ダ・ヴィンチ本人がつけたものではなく、後世の人間が便宜上名付けた無題の絵画であった。
美術に特化して明るいわけではない安室とコナンも、世界一有名な絵画となればその程度の知識はある。
与えられたヒントが『“誰でもない者”を思い返せ』という意味だと気づくのに時間は掛からなかった。
実際、安室は以前出会ったことのあるD課の者の顔を覚えていない。
特段整っているわけでもなく、「この人があのD課に?」などと思ってしまうような、存在感の無い顔立ちであったように思う。
――しかしそれが狙って作られた印象だとしたら?
「聞いたことがある。瞬間ごとに表情を微細かつ不規則に変化させることで、顔つきを記憶に定着させない方法があるとね……。そんな芸当ができる人間がいるとは思わなかったが……」
「それも『この程度のことはできなければならない』ってやつなのかも」
「ああ。現に、聞き込みをした何人かの顔がすっぽりと抜け落ちているよ」
通常、人間は数分話した程度の相手の顔をしっかり覚えていることはないが、そう時間が経っていなければ再会した時に“前に会ったことがある”程度で思い出すことは可能だろう。
しかしそれすらできないと思わせるほど、顔に白くもやが掛かっている者たちがいた。
一人目。落下死ではなく撲殺と知る切っ掛けの写真を譲ってくれた鑑識の男。
二人目。五階の非常階段へ通ずる扉の前にいた警備員。
三人目。あろうことか、事件の中心にいた秘書の佐野。
コナンを事件に誘導したボーイたち以外にも、一般参加者あたりにおそらくまだ数人はいるだろう。
「D課ってさ、女の人もいるの?」
「……いなかったと思う。僕たちは佐野が女ではなかったことすら、見抜けなかったってことさ」
重たい疲労感が肩にのし掛かる。
あの時唇の端をわずかに震わせていた佐野がその実どんな感情でいたのか、想像もしたくなくて色素の薄い髪を掻きむしった。
被害妄想かもしれないが、もし笑いを堪えていたなんてことであったのなら、そいつはあまりにも性格が悪すぎる。
過去に安室が出会ったことのあるD課は桂月というただ一人だけだが、他人事のようにヘラヘラとD課の連中には気をつけたほうがいいと笑っていたことが不意に脳裏に蘇った。
――「いやぁお恥ずかしいな、性格に難のない奴がいないンですよ。特に身長が小さい奴らね! あれは栄養の代わりに悪知恵喰って育ったに違いない。関わったら火傷しますよ」
「コナン君……。佐野の身長って高かったっけ」
「えっ? うーん……日本人女性にしては高い部類かもしれないけど、普通の域は出なかったと思う。蘭姉ちゃんより少し高かったような気がするから165前後とかじゃないかな」
「引き当ててしまったか……」
「何が?」
「何でもないよ……。こっちの話だから」
忠告があったところでそれを避けられるわけではないことを桂月はわかっていたはずだ。むしろ、だからこそ忠告できたのだろう。
どうやら、桂月本人もなかなかにいい性格をしているらしい。
安室は握りすぎて血管が太く浮き出た手を緩く開いて、そのままコナンの丸い頭を撫でた。
「和田が記者の男を突発的に殺してしまったのは間違いないだろう」
「うん。……ねぇ安室さん、記者の人に和田社長や高梨長官の汚職をリークしたのはD課だと思う? 何か目的があって、わざと対峙するように仕向けた、とかはないかな」
「可能性としては否定はできないな……。けど、多分逆さ。記者の男が高梨長官の汚職をどこまで知っているか、奴らは調べに来たんだ」
安室の推理に根拠と呼べるものは『近く開かれる予定である金融庁長官と警察庁長官による局長連絡会議の雲行きが怪しいから』ということのほかにないが、誤っていない自信はあった。それを経験による勘と一言でまとめてしまうのは
相応しくないだろう。
もちろん経験も安室を大いに助けているが、その愛国に燃える心臓には、怪物という名の精鋭たちに「能力だけならあるいは」と思わせるポテンシャルが秘められている。
「高梨長官だけ? 和田社長の汚職については別にいいの?」
「和田社長は事件の加害者であるけれど、巻き込まれたにすぎないよ」
その通り、D課にとって和田の汚職は、記者の手荷物がたまたま一つ多かったという偶然に過ぎない。高梨のことさえ知れればそれでよかった。
「金融庁主催のパーティーに記者の男が参加すると知ったD課は、すぐにそこで高梨長官と記者の男が接触することに気づいただろう。待ち合わせ場所となった非常階段に潜んだまではよかったが、そこで最大の誤算が起こってしまった」
「高梨長官よりも先に会っていた和田社長が、記者の人を殺してしまった……だよね?」
「その通り」
両者、鏡合わせのように唇の端を吊り上げる。
どの時代の探偵にとっても、謎と同じくらい必要なのは己の理解者であった。そのうちの何人がそれを自覚できているかはさておき。
「それはそうと、D課が高梨長官の立場を脅かす者をマークしていたなんて、面倒なことになるかもしれないな……」
「どうして?」
「D課は警察庁じゃなくて警視庁の組織なのさ。それと、キュラソーの件で警察庁が後手に回るばかりだったのをいいことに、金融庁がマネーロンダリングの調査機能再移管を局長連絡会議で要求してくるんじゃないかって冷や汗をかいているのが今の警察庁さ」
「……そういうことか! 金融庁と警察庁が緊張状態の今、金融庁長官を補助したともとれるD課の行動は、警視庁と警察庁の衝突まで起こしかねないんだ……!」
本当に小学生かと言いたくなる気持ちを抑えて、安室はコナンに肯定の言葉を返した。
たとえそれが現実となってもD課は組織図に乗っていないため表立った対立は生まれないし、多くの警察官たちはそのような自体になっていることなど気づきもしないだろう。
しかし今でさえ良い顔はしていない組織同士であるのに、これ以上溝を作るのは得策ではない。
「……あれ? でもさ、安室さん」
「どうしたんだい?」
「多分だけど、D課は和田社長が逃げた後、死体を一旦隠して記者に成りすまして高梨長官と会ってるじゃない? そこで汚職について脅して、偽記者はわざと高梨長官に落とされるよう仕向けたんだ。直後に五階の偽警備員が適当に声でも出せば、人がいると焦った高梨長官は地上をろくに確認もせず離れる。人間離れしたD課の精鋭なら、落下を上手く免れることもできるよね」
「……その後、偽記者は落とされた時の擦り傷がついたスーツのジャケットを記者と交換して、記者の死体を落とした。高梨長官は偽記者の脚を持ち上げるように落としたのに誰の指紋もついていなかったのは、ズボンは交換していないからだ。数名いるD課のうち、記者と同じダークグレーのスーツを来た者を偽記者役に選べばいい。……だろう?」
安室は顎に手を当てて悩む小さな探偵を見下ろして「それがどうかしたのかい?」と続けて問い掛けた。
「つまりD課は、高梨長官に罪を犯させたかったんだよ。記者を警戒していたのは高梨長官の立場を落としかねないからじゃなくて、記者が持つ情報そのものが、高梨長官だけでなく奴らにとっても爆弾だったんだ!」
「……!! 高梨長官は結果的に守られているように見えただけというわけか……。高梨長官に罪を犯させたのに事件の犯人に仕立てなかったのは、金融庁のトップの席に高梨長官を座らせたまま、利用するため……」
「……もしかしたら、マネーロンダリングの調査機能再移管の話は局長連絡会議で出ないかもね?」
――D課は味方と捉えていいのか……?
心臓をチクチクと刺してくるようだった無数の棘が、突然綿菓子にでも変わったような心地を覚える。佐久間が去っていった方向を見る色素の薄い瞳に、戸惑いの色を浮かべずにはいられなかった。
鑑識、警備員、そして佐野――顔のない男たちを思い出していると、安室は背筋が凍る錯覚に見舞われた。
「本当に僕たちは自分の手で謎を解き明かしたのか……?」
言葉尻がわずかに震えていた言葉に、「……え?」殴られたような衝撃を受け、コナンの表情も凍った。
確信。ずっと抱えていた奇妙な違和感の正体はそれであったのだ。
遺体が回収された地上で手掛かりを探していた時、鑑識の男にほかの写真がないか尋ねようと思いついたきっかけは、カメラのレンズからの反射光が目に入ったからだ。
受け取った写真では、血液で非常に見にくかったのに被害者の襟が灰皿の水で薄茶色に濡れそぼっていることを見落とすことはなかった。傍らの鑑識の男は、よれた襟を繰り返し弄る癖があった。今思えば、妙にわざとらしく、コナンの頭の片隅に情景が残っている。
――「まだ手もとに証拠がないのでこれは推測ですが、殺された記者は大企業の社長である和田さん、金融庁長官である高梨さん両名のスキャンダルを掴んでいた」
――「ここは
蝶番の具合が悪いんです。
一番上が腐っていましてね……」
思い返せば、偽警備員の言葉もそうだった。
唯一、誘導らしい誘導をしていないのは秘書役の佐野だが、佐久間の言っていた“賭け”とやらで悪い結果のほうにベットしていたから、なんて裏話でもあるのかもしれない。
コナンが頭を抱えるのと同時に、安室も頭痛に
苛まれていた。
佐野が昨日今日雇われたわけではないだろうことを考えてしまったせいだ。怪物たちを統べる魔王は公安課が高梨に目をつけるよりもずっと前から網を張っていたのだ。金融庁の融資を受けられそうな企業に入り込むことで、高梨との接触を狙っていたのだろう。
「モナ・リザたちの言動が無意識に結び付いて、ボクたちにあの推理を思いつかせたのだとしたら……」
コナンの言葉を皮切りに、気がつけば二人はセキュリティルームを目指していた。
監視カメラの映像は、パーティー中のものしか確認されていなかった。しかし非常階段に潜んでいたのだとしたら、それより前の時間帯には映っているだろう。
エレベーターから降り、光沢のある床に二つの踵の音を響かせて走る。セキュリティルームが設置された階なだけあって
人気は少ない。
――金木犀の、香り?
「止まれ!!」
二人のうち、先に叫んだのは安室であった。
広い廊下で何気なくすれ違ったばかりの男が、その言葉通りにピタリと足を止める。
秋でもないこの日に金木犀の香りが鼻先を掠めるのは二度目のことだった。一度目は、鑑識の男と話していた時である。
「D課……だな?」
仄甘い香りは本物に近く、一度目の時にはそれが芳香品によるものだとは気づけなかったが、二度目となれば話は別だ。
その香りが鍵であったかのように、白く抜け落ちていた鑑識の男の顔まで今は思い出せる。
「目印があるってンのに、あのまま話し掛けてもらえなかったらどうしようかと」
ウィンドウペン柄のダークブラウンスーツで身を固めたシナモンベージュヘアーの男は振り返ると、三白眼の瞳を細めた気取った微笑を浮かべた。
「二千と三百三秒ぶりだよ、ごきげんよう」
(P.5)