Sirリザの描き方 


「ええ。この階段を通った者は一人としていませんでした」


 事件の起きた最上階の一つ下、五階の廊下でコナンと安室は警備員に話を聞いていた。
 二人の頭には事件の流れがすでに組み立てられている。この聞き込みは、その推理を揺るぎないものにするための詰め作業であった。
 確かめたいのは単純なことだ。――ほかの階から非常階段を上ることで現場に向かった者はいないか。
 すべての階の非常階段へと通ずる廊下の、パーティー中の防犯カメラ映像はすでに確認している。パーティー会場となっている二階は喫煙者の通行が多々見られていた。
 そのため、五階のみに配置されていた非常階段前の警備員に五階以下から六階へと向かう人がいなかったか聞いておくのは必要なことであった。
 警備員の後ろにある非常階段へと通ずる防火のガラス扉は室内からでも非常階段の様子は見ることができる。


「ところで……なぜ五階の非常階段前にだけ警備員が?」
「ここは蝶番ちょうつがいの具合が悪いんです。一番上が腐っていましてね……」


 警備員が苦笑いを浮かべる。
 防犯や防災の面から見ても一人くらいは非常階段に警備員を配置していてもいいだろうし、どんな理由であれその通り非常階段への扉に警備員が配置されていたことは、二人にとって運が良かった。


「――それで、事件の真相は何なんだね?」


 再び探偵も刑事も集った六階、緊迫した空気の中で高梨が口を開いた。糊の効いた蝶ネクタイとは反対に、しわくちゃの顔が彼の動揺を表している。
 野心家で大胆な行動が目につくがその実、小心者――安室が金融長官である高梨に抱いた印象だ。
 マネーロンダリング――違法に入手した金の出所を分からなくし、正当に入手した金に見せかける事――の調査機能が金融庁から警察庁に移管されてからしばらく経つが、庁内に侵入者を許しただけでなく諜報員の情報を取られた先日の一件をダシに、高梨は再度権限を金融庁に戻そうとしているらしい。
 次回の局長連絡会議は穏やかに進まないだろう。
 今日はどんな狡猾な爺か近くで見てやろうと思っていたが、乾ききった肌から数滴の汗を絞り出すことが精一杯な小心者の一面を持ち合わせていたことは、安室にとっての小さな誤算だ。


「被害者は二回殺されていたんですよ」


 推理と言えど、つまらない言葉を並べて結論を先延ばしにするつもりなど安室にはなかった。
 このパーティーへは、次回の局長連絡会議で正式にマネーロンダリングの調査機能移管を取り決めたいと考える上の指示で金融庁長官である高梨の様子を軽く見に来た程度であったからだ。


「まだ手もとに証拠がないのでこれは推測ですが、殺された記者は大企業の社長である和田さん、金融庁長官である高梨さん両名のスキャンダルを掴んでいた。このパーティーに来たのは二人を脅迫するか……あるいは世間に公表することを伝える予定だったのでしょう」


 緊迫した空気がさらに張り詰めるのを、冬場の乾燥と少しばかり似ているなと考えながら、安室はコナンの代わりに一人で喋り続ける。


「しかし最初に待ち合わせていた和田社長は、それが許せなかった。だから、記者の注意があなたから逸れた瞬間に近くにあったスタンド灰皿で殴ってしまった……。被害者の襟と踊り場の床は濡れていました。灰皿内に張ってあった水が、殴る際にこぼれたものでしょう。スタンド灰皿の縁からは血液反応も出ています」


 推理を口にしながら、安室はなぜか言わされているような感覚を覚えていた。自らの手で解いたにもかかわらず、まるで台本を読まされているような気分だ。
 しかしそれが何によるものなのか、少なくとも今はわかりそうにない。


「しょ、証拠はあるのか?」
「そういう言葉は、せめてスタンド灰皿の指紋を拭き取ってから言うものですよ……。まぁ、気が動転するのも仕方がないですけどね」


 通常ならばつかない、スタンド灰皿の脚の部分に新しい指紋が付着していることはすでに確認してあった。それが和田のものなのか、この短時間では照合できなかったが、安室の口振りによって和田は照合されたと上手く勘違いしたらしい。
 洋紙のように蒼白い顔とはくはくと金魚を思わせる唇の動きで茫然自失に立ちすくむ和田は、しばらくの沈黙の後で小さく頷いた。


「……どこから嗅ぎ付けたのか、あの男は私の脱税を世間に公表すると迫ってきた。気がつけば男が倒れていたよ。急に怖くなって、慌てて灰皿の血を拭ったり、事故に見せかけるために死体を落として急いで逃げた。だが、後になって本当に殺してしまったのか不安になったんだ……」
「だから貴方は秘書である佐野さんに生死を確かめに行かせたんですね?」
「……その通りだ。佐野君が聞き取りで嘘をついたのは、私に逆らえなかったからだ。彼女のことは罪に問わないでくれ」


 和田の肩からはすっかり力が抜けている。
 厳重注意で留まるかはこの後の佐野次第だ。しかし彼女は何を言うわけでもなく沈没船のような静けさを保って立っていた。しかし目を凝らすとその口端はわずかに震えている。
 ――悲しむくらい許されるだろうに。
 安室は女の気丈な振る舞いに少しの感嘆と哀れみを覚えたが、それらの感情が同情という確かな輪郭を持つ前に頭から振り払う。
 警察官としても、探偵としても、人の感情に触れすぎるべきではない。気づかぬうちにそれらは足に絡まり、身動きができなくなってしまうからだ。
 ふと、安室は魔王の手先と囁かれる化け物たちのことを思い出した。
 頭ではわかっていても感情が先走りやすい一面のある安室が寸でのところで止まれたのはそれを自覚できている優秀さによるものだが、魔王と呼ばれる初老の男――結城によって集められた男たちには感情が無いという噂を耳にしたことがある。
 実際に彼らと言葉を交わしたことのある安室はそれが誤った噂だと知っているが、そのような噂が立つのも無理はないような冷たい連中であることは確かであった。
 感情に足を絡め取られる心配をしたことなどない奴らだろう、というのは安室のちょっとした偏見だ。
 ――「スパイとは、1パーセントの努力と99パーセントの自負心ですよ」
 それを聞いた時、かんに障る言葉だと思った。しかしそれを言った男の顔や声を安室は覚えていない。
 D課の連中は外国語やあらゆる勉学事項の習得は勿論のこと、一風変わったものでは歌舞伎座の女形を招いての変装技術や、プロのジゴロを招いて女の口説き方を学んでいるらしい。
 それどころか、スパイならだれしも一度は想像したことのある最悪の結末――拷問ですら彼らに言わせれば「心を叩き潰すのは苦痛そのものではなく苦痛への過大な恐怖心です。ならそれを克服すればいいンですよ」なんて、まるで雨が降ったのなら傘を差せばいいというような軽さで済んでしまう。
 そのような己に慣れてしまう日々のどこが1パーセントぽっちの努力だと言うのか! 本当に1パーセントでしかないのなら、彼らの自負心とやらの大きさは計り知れない。
 

「そ、それで、二回殺されているというのはどういう意味なのだね」


 脂汗を玉のように浮かべた高梨が安室に尋ねる。そういえば、と言うように刑事たちも安室を見た。


「……いや、僕の勘違いだったようです」


 はは、と安室は軽く笑って、それから自身を見上げるコナンと短い目配せをする。
 ほっと和田が息をついたのが視界の端に映った。
 安室とコナンの考えでは、灰皿の血を拭ったり死体を落としたのは秘書の佐野の仕業だった。実際、和田が死体を落としていたのなら、六階ではなく地上に佐野を生死確認に向かわせているはずだ。
 しかし殺人を犯した本人が一人で完結させたと言うのなら、それ以上を厳しく暴く気にはどうにもなれなかった。
 調査のためとはいえ違法行為に手を染めることもある安室だからこその裁量だ。コナンが主体となっていたのなら、話は変わっていたかもしれない。


「安室さんは忙しそうなのにスーツしっかりしてるよね」
「そうかな?」


 刑事に連れていかれた和田の背中を見送った後、二階のパーティー会場へと戻るエレベーター内の沈黙をコナンは破った。「よく仕立て直すの?」深い意味などない、ただの雑談のつもりであった。


「あはは、たしかにコナン君くらいの歳なら身長に合わせて何度も調整しないといけないだろうね。でも僕はもう大人だから、新しく仕立てることはあっても直してもらうことはあまりないよ。……コナン君?」


 訊いたっきり返答のないコナンの顔を覗き込む。そこには大きな眼球は揺れ、血の気の失せた顔があった。
 コナンが遺体の写真を見た時に感じた違和感。それは、ジャケットのサイズが合っていなかったことだったのだ。
 記者だから忙殺されて仕立て直していなかったのだろうと成長期の真っ只中にあるコナンは思っていたが、被害者はそんなものはとうに過ぎている成人男性だ。
 安室の言う通り、服の丈が合わなくなっていくことはないだろう。
 それに、写真を見る限り記者の男は中肉中背のいたって普通の体格である。だとすれば、およそ百センチの柵による擦れ痕は上腹部ではなくもう少し下にあるのが自然だ。
 そこから導き出される推理――それは、あのジャケットは記者の男よりもやや小柄な別人が着ており、その者こそが柵から落とされたという突拍子もないものであった。


「なんだって……?」


 真っ青な顔をしたコナンが打ち明けた推理に、安室は酷く動揺した。事件そのものが覆される重大な見落としであるからだ。
 犯人ではない者を犯人としてしまった可能性に酔いにも似た感覚が安室を襲ったが、和田が犯行を認めていたことを思い出して安堵あんどする。
 推理の過程が間違ってはいたが、きっと冤罪ではない。
 ――「被害者は二回殺されていたんですよ」
 自身の言葉が蘇る。
 推理の時、安室はそれを和田に撲殺され、佐野によって証拠隠滅のために落とされたという意味で口にした。
 しかし本当にあの非常階段で二回殺人が起こっていたとしたら?


「コナン君!」
「うん! 行こう、安室さん! 確かめなきゃ!」


 よくよく考えれば、女性の細腕で成人男性を落としたにしては記者の服の擦り傷は少ないように思えるし、佐野は三人の中で最後に非常階段に向かっている。
 和田は佐野の手によって証拠隠滅が行われたと考えて自らすべての罪を被ったが、それならば佐野よりも先に非常階段に行った金融庁長官の高梨が記者の死体を目にしているはずなのだ。
 なぜ高梨は、自らが行った時すでに死体があったことを言わなかったのか。
 和田に恩を売りたかった? 突き落としたのが自分ではないかと疑われたくなかった? おそらく、どれも否。
 ――高梨が記者との待ち合わせ時間に非常階段に着いた時、記者は何事もなく生きていた。
 思いつく中で最も嫌な可能性だが、おそらくそれが正しいだろう。


「高木刑事ー!」
「……コナン君? どうしたんだい、そんなに慌てて」
「さっきの事件……! 第一発見者って誰っ……!?」


 ビルから出ようとしていた高木を呼び止める。今は乱れた息を整える暇も惜しかった。


「ああ、それなら――」
「俺だ」


 高木が答え切る前に、芯の通った声が二人の背中にぶつかった。慎重に振り返る。
 コナンが持った第一印象は、誠実そうだというものだった。濃い色の瞳が反射する光には揺らぎがなかった。
 コナンのその感想に応えるように、しゃがんだ高木が「彼は信用できる人だよ」と耳打ちをした。


「どうしてわかるの?」
「少し前に人事異動になったんだけど……それまでは同じ一課の仲間だったんだ」
「それなら安心だね。今はどこにいるの?」
「それが誰も知らされてないんだよ……D課じゃないかって噂はあるんだけど」
「D課?」


 訊き返したコナンの口を、青くなった高木が慌てて塞ぐ。
 コナンは警察についてある程度知っているつもりでいたが、D課などという一風変わった名前の組織については今までただの一度も聞いたことがなかった。
 神経質にならないといけない話題だと察したコナンが頷くと、高木は安堵あんどしたように息を吐いてから手を引っ込めた。


「特殊な事件を担当する課だよ。同じ人間とは思えないほど優秀で、それを鼻にかけている……とか言われてるかな。って言っても実在するかもわからないから、本当にただの噂なんだけどね……はは」
「……組織図に載ってない課ってことだね」


 漠然とコナンはD課が存在することを確信した。
 例えば、警察内部の調査。他国での諜報活動。表沙汰にできない事件。
 公安課のテリトリーといえばそれまでだが、本来そういったことは組織図にない組織が最も相応ふさわしい。任務が失敗して公のものとなった場合、その組織名が組織図にあっては一大事だからだ。
 完全に透明になれるだけでなく、いつでも切り捨てられる駒でなければならない――それが潜むということである。


「ボクは江戸川コナン。お兄さんはどうしてこのビルに?」
「俺は佐久間だ。仕事で来ている。今はそれ以外に言えることはない」


 佐久間と名乗った男がぴしゃりと答える。しかし声色には優しさが垣間見えており、コナンが嫌な気分になることはなかった。現に、「用があるのなら話を聞こう」コナンを子供扱いせずに向き合ってくれている。
 高木が乗ったパトカーが曲がり角で見えなくなった後、最初に口を開いたのは佐久間だった。


「真相を知りたい。違いますか」
「やはり、真実は別にあるんですね?」
「奴らは貴方がたがどこまで辿り着けるか、賭けをしていました」
「……は?」


 反射的に言葉を漏らしたのは安室であったが、より混乱しているのはコナンのほうだ。
 試されたことへの怒りや困惑ではない。D課と呼ばれる謎の組織の遊戯に、なぜ江戸川コナンというただの小学生が使われたのか。
 正体を知っているぞという脅しか、それともこれまで解決してきた数々の事件によって目をつけられてしまったかのどちらかだろう。
 思い返すと、コナンはまるで誘導されるように事件現場にやってきた。
 ――「六階の非常階段で人死にだってよ」
 ――「物騒だなあ」
 雑多な音の数々の中から周波数を合わせたように耳に届いたボーイたちの会話――はたしてそれは偶然のものだろうか?
 周囲に聞こえない、指向性を絞った声というものがあるとコナンは聞いたことがあるが、ボーイに扮したD課の者がそれを実現して故意にコナンに届けたとしたらどうだろうか。
 そもそも死体は地上にあったのになぜ刑事たちは六階が現場だとわかったのか、なんて事まで考えてしまった後、防犯カメラで被害者を追えば当然わかることだったな、とすぐに思い直すほどに混乱しているコナンを気に留めることなく、佐久間は再び口を開いた。


「俺に賄賂を……ああ、賄賂というのはあくまでゲームでの話で、違法性はありません。それで、俺に賄賂を渡した男の予想が『全部』だったのです」
「つまり、勝たせてあげるためにボクたちに接触してきたってこと? ……色々置いといて、それってゲームとしてどうなの?」
「問題ない。奴らがしているのはそういった工作含めてのゲームだからな。むしろそちらが本命とも言える」


 ふうん、と淡白な、しかし興味を隠しきれてはいない声が漏れる。「“奴ら”って、ちょっと他人行儀だね」「役職こそ貰っているが、俺は一課との橋渡し役に過ぎない。佐久間というのも本名だ」安室の件でわかってはいたことだが、今後D課の者に名乗られても本名と思ってはいけないということだろうとコナンは受け取った。


「じゃあ訊くけど……本物の記者を和田社長が殺してしまった後、D課の人が記者に成りすまして高梨長官と会った……ってことでいいんだよね?」
「そこからなのか?」


 パキ、と薄氷にヒビが入る音が聞こえたような気がした。真摯な人物だと思っていた佐久間の悪気ない一言に傷ついたコナンの幻聴である。
 橋渡し役に過ぎないと言っていたが、やはり佐久間の本質は、高木曰く「同じ人間とは思えないほど優秀」なD課側にあるのだろうと二人は気がついた。


「答えを教えるのは俺の仕事に含まれん」
「じゃあさ、佐久間さんはボクにもD課に入ることはできると思う?」


 突拍子もない質問にも、佐久間の穏やかな表情が崩れることはなかった。
 膝をついてコナンの双眸そうぼうの奥をじっと見つめたまま真剣に悩んでいる様子を見せると、程なくして「無理だろうな。少なくとも今のままなら」と立ち上がった。


「奴らは怪物人でなしだ。名誉や愛国心のために動いているわけではなく、一生誰も愛さず、何ものも信じない。連中を動かしているのは『自分ならこの程度のことはできなければならない』という恐ろしいまでの自負心だ」
「……それって本当に人間なの?」
「言ったろう、怪物人でなしだと」


 佐久間は前世からの付き合いとはいえ、連中の過去を知らない。
 しかしあのような黒い血を持つ男たちでも、少なくとも前世では生まれながらにそうではなかったはずだと、訓練中の未完成な姿を見ていた佐久間は知っていた。
 純粋な能力だけなら、訓練次第ではコナンにもチャンスはあるかもしれない。しかし昨日きのうまでの己を殺し、崩れそうな心を騙し続けてなお光を目に宿さねばならない連中と同じ生き方をほかの誰かにさせるのは佐久間にとって頷き難いことであった。
 そのような想いがあることは語らず、佐久間は「D課の奴に会えたのなら、今日の歩数でも訊いてみるといい」と薄く微笑む。


「歩数を?」
「途中の窓がいくつ開いていたかまでに答えるような小癪こしゃくな連中になりたいのなら、俺は止めん」
「や、止めておくよ……」


 ――っつーか無理だろ。
 コナンは呆れ混じりに口端をヒクつかせた。


「最後に一つ、解き明かすための手掛かりをくれませんか」


 腕時計に視線を落とした佐久間を見て、二人の会話を聞くに徹していた安室が口を開いた。
 自らヒントを求めることに屈辱感が無いわけではない。しかし、安室たちがすべてを解き明かすことにベットしているD課の者がいることが、一時のプライドを壊した。
 ――解き明かしてやりますよ。
 佐久間は、安室の顔に不敵な笑みが浮かんでいるのを見つけると、つられて小さく微笑んで答えた。


「――モナ・リザたちを、思い返されるのがよいかと」


(P.4)



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