Sirリザの開演
――呑気なもんだな。
フォーマルな格好で背筋を伸ばす大人たちの社交場で、江戸川コナンはグラスを傾けた。
つい先日、一般客をも巻き込んだ黒の組織と警察関係組織との大規模な対立があったばかりだというのに、観覧車が転がろうとも、大人たちは胃にアルコールと平和の上澄みを流し込んでいる。姿形こそ幼いものの、頭には膨大な知識と経験が詰まっているコナンにとってそれは冷笑に付すものがあった。
「安室さん?」
コナンは近頃すっかり見慣れてしまった明るい髪色を見つけ、迷わず話し掛けた。鈴木財閥の令嬢である鈴木園子から招待された金融庁主催の企業イベントは、少年にとっては――否、青年にとっても――酷く退屈であった。
「やあ、コナン君」
「どうしてここに? ……どの仕事?」
コナンは声を潜める。安室透という偽名を持つ男は警察庁の勤め人であり、黒の組織の幹部であり、ただのカフェ店員兼探偵見習いである。
先日垣間見た安室の愛国心は、コナンにとって安室の本当の立場を信用に足るものだと判断させた。だからこその質問に安室は口端を吊り上げて、それから「聞くものじゃあないよ」とほんのり笑う。「それもそうだね」コナンも同じように微笑んだ。
――どう暇を潰すっかな……。
融資を受けている、あるいはその予定のうちとして選ばれた企業の催し物やスピーチにコナンは興味を持てないでいた。企業から金融庁へのアピールであるからしてくだらない内容に仕上がっていることはなかったが、そのどれもを食い入って聞けるほど熱い内容でもない。
これはあの新聞社が好きそうな内容のスピーチだな、だとか、あれは聞こえが派手だからネットニュースのリンク稼ぎに使われそうだ、なんてひねくれた大人のようなことを考えながらも、曇り一つないシャンパングラスの中で泡を上げるアップルサイダーを口に含んでいると、「六階の非常階段で人死にだってよ」「物騒だなあ」まるで周波数を合わせたように、大勢の中から不意に鮮明に聞こえたボーイたちの噂話が、ぬるま湯に
揺蕩っている気分だったコナンの意識を震い起こした。
すぐさま歩幅の狭い脚で走る、走る。スーツの脚の林を出て非常階段まで向かうと見慣れた刑事たちの顔があり、コナンは耳に挟んだ噂が本当であることを知った。
そこにはしばらく姿が見えなくなっていたコナンの保護者――毛利小五郎がすでにいてコナンに気がつくとつまみ出そうとしたが、身軽な体でひょいとかわす。
踊り場は、何か液体が
溢れたのかコンクリートの一部が湿っているが、一角にスタンド灰皿が置いてあるだけの特筆することのない構造であった。
被害者の男性は記者であったらしい。成人男性の腹部程度まである柵を越えての落下死。自殺なり他殺なり、そこに何らかの意図があったと考えるのが自然な最期である。
容疑者は非常階段へと続く廊下に設置された防犯カメラの映像により、金融庁長官の高梨、大企業の社長の和田、その秘書である佐野の三人にまで絞られていた。
「お三方とも、記者とは縁のある職業ですなあ……」
警部としてこの場の取りまとめ役である目暮が、眉尻を下げた三人の前に立つ。
防犯カメラの映像――記者が非常階段へと向かい、しばらくして和田も非常階段へと向かった。その後、高梨、佐野の順で時間を空けて訪れたが、記者の戻る姿だけが映像に残っていない――を思い出して、目暮はまず高梨に質問をすることに決めた。
「高梨さん、貴方が非常階段に着いた時、そこに被害者はいましたか?」
「いなかった! 記者など見ていない!」
顔には脂汗が
滲んでいる。しかしそれは三人に共通して見られており、目暮はその緊張が嘘によるものなのか見極められずにいた。仮に見極めることができたとしても、証拠にはならないが。
「ホー……それは興味深いですね。貴方の証言が正しいものなら、先に被害者と出会っているはずの和田さんが落としたことになるのでは?」
別の声が重たい空間に割り込む。「安室さん!」振り返ったコナンに、「君が走っていくのが見えてね。探偵として気になったんだ」と汗一つ浮かんでいない褐色の肌が答えた。
近く、警察庁と金融庁の局長連絡会議が行われると公式ウェブサイトでスケジュール公開されていたことを思い出したコナンは、なるほどそのための様子見か、と安室が公安としてパーティーに出席していたことを悟る。
そうでなければ、わざわざ金融庁長官に疑いがかかった事件に足を突っ込んでこないだろう。
「ち、違う! 私じゃないぞ!」
目暮は部下である高木に目配せをする。「鑑識からの報告によりますと……」警察手帳に視線を落とした高木は、慌てて何度かページを行ったり戻ったりしてから口を開いた。
「ええと、目視での照合では被害者のスーツから三人の指紋は確認されてません」
「なに? ならばこれは事故かもしれんというわけか……」
「ええ、その可能性も……」
「これは事件だよ!」
風船が割れたようにコナンが声を上げる。「ねっ、ねっ、安室さん!」必死な姿に安室はくすりと笑った。コナンのほうが先に口を開きはしたが、安室にもこれが事故ではなく事件であることは被害者の写真を一目見た時からわかっていた。
「そう考える理由を訊いても?」
「ズボンに擦れや汚れがないからですよ」
「ズボンに……?」
「この柵の高さは百センチ程度でしょう。バランスを崩したのだとしても、相当な勢いで体が投げ出されないとジャケットの腹部だけでなく大腿辺りにも汚れや多少の擦れがつくほうが自然だ。それが無いということは、背後から脚を持ち上げられて落とされた……どうかな、コナン君?」
「う、うん! ボクも安室さんの言う通りだと思う!」
アスファルトに広がった血溜まりのもとまで非常階段を下りていったとしても遺体はすでに運ばれてしまっていて見ることはできないが、その代わりとして撮られていた何枚もの写真を見直した刑事たちは納得したように唸った。
中肉中背の成人男性。頭部から血を流している。
パーティーに合わせてかっちりと着込んだスーツは大して珍しくもないダークグレー。記者というだけあって忙殺され仕立て直していないのか、少しばかり袖丈が短いように思えた。
装飾の一つもないありきたりな色のそれは女性の着るドレスの鮮やかさと比べたら没個性と言える。
そのジャケットの上腹部だけに擦れた際のものと思われる汚れがついているのを改めて確認したコナンは違和感を覚えた。しかし出所がわからずに眉を寄せる。
「次に、秘書の佐野さん」
「はい……」
「貴方の前に来ていた高梨さんの証言によるとその時点で被害者はいなかったらしい。つまり貴方が来た時にも誰の姿もなかった……よろしいかな?」
「ええ、それで間違いありません。社長の姿が見えなかったので探しに来たのですが、誰もいなかったのですぐに引き返しました。まさか下で人が亡くなっていただなんて……」
佐野はハンカチを口に当てて床を見つめている。
おそらく二十代前半、しかしほか二人の中年に比べて彼女は冷静さを欠いてはいなかった。
特に怪しいところはない。防犯カメラの映像でも、その証言通り長居せずすぐに戻っている。
コナンはやはり男二人の顔色が気になって仕方がなかった。
嘘をついているかどうか、正しく見極めることはできない。しかしたとえ嘘でなかったとしても、知っている事の全部を話してくれていないだろうとは感じていた。
――共犯か? それにしては何もかもが
杜撰だ。
死因、容疑者と被害者の関係、そして何より防犯カメラの存在……計画性のあった殺人とは到底思えない。突発的な犯行。
共犯であるならば、それは殺人ではなく隠蔽でのことだろうとコナンはこの場を読んだ。隠し事に加担することで地位や金を得てきた人間の事件をコナンはいくつも見てきていた。
「ボクちょっと下に行ってくる!」
「あ!? コラ坊主大人しく――」
「僕がコナン君につきますよ。毛利先生は事件解明にご尽力ください」
「あ、あぁ……悪いな」
非常階段を駆け降りていったコナンの後を安室が追う。
事件現場では度々見られるこの二人の様子を
窺っている者が普段よりも多いことを、本人たちは気づいていない。
アスファルトに降り立った時、二人は上から見ていた時よりも血溜まりが存外大きく広がっていたことに面食らった。
「君は……ええっと……」
よれた紺色の襟を正しながら小学生の立ち入りに戸惑いの表情を浮かべた鑑識に、追い付いた安室は刑事たちが自分たちの立ち入りを認めていることを説明した。
正確に言うなれば黙認だが、実際に警視庁捜査一課は毛利小五郎やその周囲の人物の助力が事件解明の大きな手助けになっていることを感じている。
地面に顔を寄せて何か手掛かりの一つでも転がっていないかと目を凝らしていたコナンの視界に、キラリと強い光が通った。
「そうだ、鑑識さん」
「うん? 何だい坊や」
光は鑑識の男が首から提げられたカメラのレンズからの反射光であり、コナンが求めていたような不自然な落とし物の類いではなかった。
「刑事さんたちに渡してるやつで写真は全部? まだ現像していないだけのものってあったりする?」
遺体が回収されている現場では、手掛かりは不足しがちだ。
もう少し詳しく知れたなら、と考えていたことを思い出して訊くと、鑑識の男はよれた襟を繰り返し正しながら「一度目の撮影分は全部お渡ししていますよ……」と煮え切らない答えを返した。
「二度行われているんですね?」
「はい。遺体を運搬してからのものが……」
「つまりは現場のままだと見えにくかったところも撮ってるってことだよね!」
「細かなところを調査したいのであれば、遺体を洗浄した後にまた撮ってお渡ししますが……」
その視線は血溜まりの方へと向かっており、なるほど、とコナンと安室は納得をした。そのまま見るにはあまりに損傷が酷かったのだろう。
「それじゃ駄目なんだ! 重要な手掛かりまで流れてしまってるかもしれない」
「無茶言ってしまってすみません……。必ずや解明のお役に立ちますので少しだけでも見せてはいただけませんか?」
「……これならまだ見られる範囲だと思います」
人の良さそうな鑑識の男を気の毒だと思いながらも食い下がるコナンと安室を相手に、気まずそうに指先で襟を弄っていた鑑識の男が折れた。
胸ポケットにしまわれていた二枚の写真が差し出されたのを受け取ろうと一歩近寄った瞬間、秋でもないのに鼻先に金木犀の香りがふわりと掠めた。
ごく自然な香りだが、辺りを見回してもそれらしき植物はない。
口端を吊り上げて探偵たちを見ている者がいたことに気づかないまま、コナンは写真を受け取った。そのうち一枚は髪を掻き分けて頭部の傷を大きく写したもので、もう一枚は頭を抜かした仰向けの上半身を引きで写したものであった。
「安室さん!」
「ああ、これは……!」
顔を見合わせた二人は急いで上に戻る。
踊り場の一角にあったスタンド灰皿をまじまじと観察すると、壁に向いていた縁部分に真新しい傷がついていた。
――やっぱりこれは事故なんかじゃねぇ……!
コナンは確信した。
落下遺体はどこを下にして落ちようとも体のあちこちに怪我を負っている場合が多い。今回の事件においてもそれは例外でなかった。
脚の骨折が悲惨ではなかったことと頭蓋の損傷具合により頭から落下したと推測できたが、数多くの事件を経て養った二人の目は、打ち方が異なる傷が頭部の写真にあることに気がついた。
そしてもう一枚の写真では、大部分の血液によって発見が非常に困難ではあったがシャツの襟が薄茶色に濡れそぼっていた。雨など降っていないにも
拘わらず、だ。
それらを総合し、コナンと安室は踊り場の一角にあったスタンド灰皿に目をつけた。
血液反応の調査を依頼すると、しばらくしてから読み通りの報告が上がってきて、コナンは口端を不敵に吊り上げる。
特に事件調査において、ピースがはまっていく感覚が幼い頃からたまらなく好きであった。それを不謹慎だと目くじら立てる人間も探せばいるだろう。しかし天才的な頭脳を持つ少年、否、青年にとって、退屈は死と同義であった。本人がそれに気づいているかはまた別の話である。
一つ確かに言える幸いは、青年には人一倍正義感が備わっているということだ。
(P.3)