Sirリザのつれづれ 


 ――盆暗どもめ。
 報告書を読み終えた桂月は人差し指と中指で挟んでいた紙巻煙草を口から離すと、肺に溜まった空気を吐いて、煙の充満した室内をさらに白くぼやかした。
 机上の白い皿に用済みの報告書を置き、吸いかけの煙草を放り込む。
 じわりじわりと焦げ茶色が広がり、やがて灰色の屑へと朽ちていくそこに、もう数枚の紙が追加されると炎の勢いは強まった。
 この一室には十一人の男たちが顔を突き合わせているが、その誰もが馬鹿げた内容の報告書が燃焼していくさまをぼうっと見下ろしているのは、とっくに思考を終えたからであった。
 ここ警視庁には表にはなっていない、“D課”と呼ばれる組織がある。
 そこでは作戦書や報告書といった紙類は読んだら返すか破棄するのが決まりだ。たかが数枚の報告書……時には数十ページにも渡る分厚い紙束だったりもするが、その程度覚えられない者はD課にはいない。
 今や彼らの頭の中にしか完全なデータが残っていないその報告書には、昨夜警察庁に何者かの侵入があり、機密データを盗読されたという内容がくどくどと綴られていた。


「それで、上は何と言っている」
「早期に侵入者を捜し出すことを期待しておられます」
「面倒な調査はさせておいて、確保の手柄は持っていくつもりか」


 課長である結城の問いに、捜査一課とD課の橋渡し役としてD課係長に人事異動となったばかりの佐久間が答えると、結城はフンと鼻を鳴らした。「馬鹿馬鹿しい」ぐっと低く抑えられた初老の声には、魔王と呼ばれるに相応ふさわしい威圧感がある。


「では、どのようにされますか」


 ――ほう。
 静観していた者たちが佐久間の言葉に反応を見せる。興味を引かれたように前のめりになる者もいた。
 佐久間が人事異動してきたのはつい先刻のことではあるが、D課の面々は以前より佐久間を知っていた。
 それはなぜか。
 佐久間含め、警視庁から別棟に分けられたこの場所にいる者は揃って“前世”と呼ばれる記憶を持っているからであった。
 警視庁特殊事件捜査部D課――その前身は通称D機関と呼ばれる陸軍諜報組織だ。
 己の自負心だけで世界大戦の火花が上がる国際政治の裏に身を潜め、全てを欺き続けていたスパイたち。そんな九人がまだ訓練生であった時、D機関と陸軍参謀本部の連絡係として陸軍中尉の佐久間が出向してきたことがあった。
 上官の命令は絶対。天皇陛下は現人神。見事に花と散ることこそ武人の誉れ。スパイは卑怯な存在……。
 九人に言わせてみれば“よく躾けられている”軍人佐久間を嘲笑したこともあった。
 だから彼らと同様に前世の記憶を持っている佐久間はここに足を運ばなければならないことが決まった時からキリリと胃が痛むのを感じていたが、どうにも以前と様子が違うことを疑問に思う。


「みーよしぃ、もう佐久間さんをイワシ頭だとからかえないンじゃないか〜?」


 桂月が下瞼を持ち上げて愉しげに三好を突っついた。
 佐久間はそれを見て気恥ずかしさを覚えたが、しかしそう言われるのも仕方がないと口をつぐむ。
 以前までの佐久間ならばここで結城がどんな文句を垂れようと、その素晴らしい躾によって「命令は命令です」と立ち向かっていたからだ。


「警察庁に侵入したとなれば内部に協力者がいたはずだ。そいつを洗え」


 結城が化物たちに命令を下す。
 それが然るべき行動だろう、と佐久間自身どんなことか命じられるか予想はついていた。
 データを盗み出されたのではなく盗読されたとなれば侵入者の確保以外に情報漏洩を防ぐ手立てはない。しかし警察庁は取り逃がしてしまっている。
 侵入者にとっての大誤算がない限り機密はすでに報告されていることだろう。今さら追う意味もないし、第一すでに警察庁の人間が汚名を返上せんと血眼で捜し回っているに違いない。
 ――目の前のことに一直線でその裏にまで考えが及んでいなかったことをダシにして、今後は警察庁にも口を挟むのだろうな。
 佐久間は前世で、結城中佐が武藤大佐に貸しを作って参謀本部からD機関に機密費を割かせていたことを思い出した。
 D課は主に表沙汰にできない事件や、諜報活動、潜入捜査を受け持つ。それゆえ、公安課に怪訝けげんな顔をされることがあった。
 スパイとは目立たない灰色の小さな男グレイ・リトル・マンであることが絶対条件だ。もし任務中の彼らが変装一つしていなくとも、彼らだと断定することはできないだろう。
 それどころか、D課構成員の選定は美男であることが条件ではないのかと疑いたくなるほど皆端正な顔立ちをしているのに、それに気づくことさえ難しい。
 経歴を偽るだけで諜報員の気分になっている者たちはD課に言わせてみれば“おままごと”に興じている連中であり、その連中に足を引っ張られては堪らないのだ。
 現に今、盗読されたデータはとある組織に潜入活動中または過去に潜入活動をしていた人物を警察庁の公安課が把握する限りでまとめたものだという。そのようなデータが存在することすら、資料の一枚も残さぬD課にとっては信じがたい愚行だった。


「身体能力や頭の回転だけなら、優秀な者はあっちにもいるンですがね」


 佐久間は自らの考えを読まれた気がして、息を飲んだ。
 気がつくと、部屋には佐久間と桂月の二人だけになっている。ほかの者たちはすでに調査に出たらしい。
 D課の一員である桂月が公安課を多少なりとも認める発言をしたことが佐久間には意外だったが、この男は前世でもほかの機関員と比べて寛容であったことを思い出して、詰まっていた息を吐き出した。
 それも桂月の皮を被った男の本来の性格ではなく、あくまで“桂月”としての性格でしかないことはわかっているが、この化物の巣窟においてそれだけでもありがたいことに変わりはない。


「おっと……もうこんな時間か」


 壁掛け時計に目を向けた桂月が立ち上がる。


「そうそう、下の階に私が焼いたばかりのフィナンシェがありましてね。甘いものは疲れを癒してくれますよ。それでも包んで佐久間さんも調査に出てください」


 ――俺が今日ここに来ることは奴らにはお見通しだったというわけか……。
 桂月が出ていってパタンと閉まった扉を振り返り見る。
 昨晩の騒ぎは非常に大きなものだった。報告書などなくとも、彼らの耳には入っていたのだろう。
 フィナンシェ。それはフランス語で金融家を意味し、金融街で広がった焼き菓子である。
 自分以外誰もいなくなった部屋で、今朝からストレスで痛んでいたはずの胃が空腹に鳴いた。
 ――金融庁を調べろ。
 それが桂月の言葉の裏にあった意図だ。
 佐久間は前世で結城にD機関の訓練を受けてみないかと誘われるだけのポテンシャルは持っているが、なぜ警察庁の問題と金融庁が繋がるのか、まだ佐久間の中に答えはない。
 しかし、あるはずのものを探す調査は、無いものを探して無いと結論付ける調査――無の証明よりもずっと簡単である。
 つまりポテンシャルはあるが現時点の実力ではD課に及ばない佐久間に与えられたのは、協力者へと繋がる一番太い糸である。
 ――俺は試されているのだな。
 ほかの九人は余りある実力を使い、可能性を完全に排除しきれない別の道で可能性を排除するために無の証明をしてみせるだろう。
 佐久間は小さく笑うと、紫煙のくゆる部屋を出た。
 紙がすっかり燃え尽きて、食い潰すものが無くなった炎はゆっくりとその勢いを衰えさせていっていた。


(P.2)



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