Sirリザは一度死ぬ 


 吹雪は二人の姿を隠そうとしている。
 その日、ベルリン行きの列車は一瞬間のうちに大破した。後の調査で判明したことだが、配電盤の劣化で列車に進入を禁ずる信号が正しく点灯しなかったために列車同士が正面衝突したのだ。
 天井や壁が失せ、ひしゃげた座席の隙間で雪たちを煽る風がごうごうと音を立てるのを聞きながら、らくだ色の髪の男は自らの無事を確認した。折れた鉄枠によって貫かれた片脚は今後使い物にならない可能性が高いが、命に別状はない。
 抜くのは躊躇ためらわれたが、抜かない限りは立ち上がることすらできない現状に、脱いだジャケットの袖を大腿に巻き付けて簡易的な止血をし、白い息を吐きながらそれを引き抜いた。
 上司のように杖でも突くかと今後の己を想像して、しかしそんな余裕は同行者の姿に目を移したところであっという間に荒れる吹雪にさらわれていってしまった。


「待ってろ、すぐに止血してやる……!」


 気を抜けばたちまち裏返ってしまいそうな声の調子を抑えながら、男は近くに放り出されていた自身の鞄を引き寄せた。脚はいっそ痛覚が灰になって燃え尽きてしまいそうなほど痛むが、苦痛に顔を歪めている暇はない。
 彼が目にした同行者の姿は悲惨なものだった。折れた鉄枠が体を貫いていることは男と同様。しかし、同行者のそれは脇腹という致命的な部位だ。もしかしたら肺もやられているかもしれない。
 ――これは助からない。
 嫌な事実に気づきながらも改めた鞄の中身は財布や煙草、マッチ、折り畳んだ新聞などの日用品ばかりで、到底この状況を解決できそうなものはない。
 仮にこの吹雪の中でマッチに火が点いたとしても、辺りに散らばっている鉄屑を焼きごて代わりに――感染症のリスクはあるがここで死ぬよりはマシだ――熱するには不十分であろうし、そもそも焼き閉じるにはあまりにも傷が大きかった。
 為すすべなし。しかし失敗を許されない立場に身を置いてきた男たちは、死は最も避けるべきものだという共通認識を持っていた。その思考が、脚から血を流し続ける男の手動かし続ける。


「仕事は我々の無力を騙し、幸運への希望を与えてくれる……」


 鞄を漁る男の手を無駄とでも言うように止めてそう言ったのは、致命傷を負った本人の手であった。彼の黒檀こくたん色の前髪がはらりと一束落ちるのを目で追った後、男は後ろに撫で付けていた自身のらくだ色の髪を苛立ちで掻きむしってから鞄を置いた。
 二人は、着衣のままひたすら寒中水泳をした後に仮眠もなく夜通し移動し、前日に暗記していた難解な暗号をごく自然な言語のように使いこなすことを要求されるといった精神と肉体の能力の極限を要求される訓練を共に乗り越えてきた同僚ではあっても、仲良し小好しをする関係ではない。
 男たちが信じているのは己のみ。自分ならこの程度のことはできなければならないという恐ろしいまでの自負心だけで過酷な状況――彼らの上司の言葉を借りるならば“真っ黒な孤独”――に身を置いている。


「幸運になんてすがらないくせに」


 だからたとえ死に際の人間から言われようともアナトール・フランスの言葉が男の胸に響くことはなく、否定で返した。
 それはまさに死に際である黒檀こくたん色の髪の男にとってもそうで、「当然」ニヤリと口端を緩めた。
 男たちは昭和十二年秋に大日本帝国陸軍に秘密裏に結成された情報勤務要員養成所――すなわちスパイ養成学校から巣立った諜報員だ。
 帝国陸軍所属とはいっても、軍人とはまた異なる。周囲からは考え難いことに、彼らは士官学校ではなく一般の大学を出ていた。軍人でなければ、人に非ず――そのような考えを持っている陸軍内の反発は当然激しいものであった。
 それも仕方のないことだ。海軍であったなら多少はいざ知らず、愛国心や絆に凝り固まった陸軍人と、それら一切が無い者たちとでわかり合おうなどとは両者思っていない。
 死して尊ばれる軍人とは異なり、スパイにとって死はいかなるものも任務失敗を意味する。その後のスパイ活動が続けられなくなるのみでなく、死後調査されることによって懸命に隠してきたあらゆるものが白日のもとに曝されてしまうからだ。敵に情報を与えるだけでなく、それまであげてきた任務の成果がすべて水の泡となる。


「ここらではヒトラー青年団ユーゲントの一隊が訓練していることもあったはず。駆けつけてくる前に早く……」


 致命傷を負っている男はそこまで言って血を吐いた。
 神聖なる国家にとって、多数の死傷者が出ているであろうこの列車事故の原因が国にあってはならない。この戦時下における国民からの信頼の低下は命取りともなり得るからだ。
 他国によるテロあるいは反体制分子によるサボタージュということにしておきたい――そう考えていたとしたら、日本人である男たちは格好の餌として問答無用で国家秘密警察ゲシュタポにでも送りつけられる。
 日本はドイツと同盟国ではあるが、だからこそなすりつけられでもしたら堪ったものではないのだ。ただでさえ国際社会で孤立気味の日本は完全に救いがなくなってしまうだろう。重傷の怪我人とはいえ早くこの場を立ち去らなければいけない。
 ――いや、乗員名簿もあるからこの国自体から……か。
 片脚を負傷している男は憂鬱な気持ちで白い息を吐いた。
 つい先ほどまで順調に事が運んでいたというのに、こんなことで帰国を強いられるとは。しかし諜報活動において不測の事態とは嫌でもつきまとってくる。これも起こり得る誤算の範囲だ。
 ドイツ側は私を捕まえられないとなれば、国家の威厳を損ねないためにシナリオを反体制分子によるサボタージュによるものと書き換えて別の山羊を用意することだろう。
 そこまで考えたところで、男は目の前の同僚にいよいよ時間がなさそうなことに気がついた。
 これが不幸中の幸いというやつなのか、男たちは丁度引き継ぎを終えたところであった。ベルリンへ向かうこの列車は、上司であり情報の受け渡し相手である結城中佐と会った帰路だったのだ。アパートに押し入ってこようが証拠はない。すっかり渡した後なのだから。
 ぐったりとする茶髪の男のシャツの襟を爪で切り裂いて、そこに縫い付けられていたマイクロフィルムを回収する。そこにはスパイマスターにとって一番重要な情報――協力者名簿が記録されている。
 スパイマスターの死によって協力者たちに混乱が広がる前に、男はまず怪我をしている脚に鞭を打ってまだドイツにいるであろう結城中佐にマイクロフィルムを渡さなければならない。男にとっての最優先事項がドイツを出ることであるため、協力者への説明は結城中佐にしてもらうつもりだった。
 帰国後は次の偽の経歴カバーを得るまで、細々とした補助をしつつ療養に励むことになるだろう。


「もう行け、


 致命傷の男に体を押されて、早坂と呼ばれた脚を負傷した男は表情の読み取れない顔になった。
 早坂という名は、今回の任務のための偽の経歴カバーであり、同じ学舎で呼び合った第一の偽名ではない。
 早坂は二十五歳独身の美術商見習いだ。彼は二十八歳独身の美術商であった真木に実際に弟子入りしていた。美術商とは職業柄、多くの実物の作品に触れる経験が必要であるために、ほかの美術商のもとで経験を積んでから独立することが多い。
 しかし現在はおそらく両者とも陸軍に徴兵されて外部の接触を断たれた地で何らかの兵役についているだろう。
 脇腹を鉄枠で貫かれて命の灯火が消える男に経歴を使われている本物の真木は最前線に駆り出されるに違いない。――それはつまり、簡単に言ってしまえば「死んでこい」ということだ。


「……はい、真木先生」


 偽の早坂は、真木先生と呼んだ男の鞄からマッチと煙草を自分の鞄へと移し、そしてふらりと立ち上がる。
 マッチの軸頭にはキニーネと呼ばれる成分を付着させてあった。そのマッチで文字を書けば、一見何も見えないが、ある種の化学薬品を塗布することで緑色に文字が浮かび上がる仕組みになっている。
 真木はドイツ側にとってあくまで事故の犠牲となった哀れな日本人の青年でなければならず、日本のスパイとして調査されることは望ましくないから、マッチとついでに煙草を早坂は回収したのだ。
 ――我々は何ものにもとらわれない。とらわれてはいけない。
 早坂は頭ではわかっていてもやはり本当は立ち去りたくはなかった。彼らが所属する諜報組織“D機関”の掟は『死ぬな、殺すな、とらわれるな』というもので、自負心が強いからこそ、同じく自負心の強い死にかけの男にスパイを全うできない結末を与えたくなかったからだ。
 しかし、偽の真木は男のことを早坂と呼んだ。最期となる今ですら学舎で呼び合った第一の偽名である桂月と呼ばず、偽の経歴カバーとして死ぬことを選んだということだ。
 死は最悪の選択だ。しかし、その死が相手に何の情報ももたらさないのであれば、それはスパイにとって何よりも素晴らしい引き際とも言える。
 ――私が、真木先生を……否、三好という男を最高のスパイにしてやろう。
 早坂もとい桂月は帽子を深々と被ると、脚の痛みに気づかないふりをして雪の中を進み始めた。
 花も萎んでしまいそうな寒さが五臓六腑へと侵略してくるのを許しながら、彼の頭は冷静に三好の死が『Tod durch Blutverlust外傷性ショック及び出血多量による失血死』と記録されるのだろうと考える。
 ――元よりこの季節に美しい花など咲いてはいないがね……。


「まったく、嫌になるな……」


 桂月は雪を一握り口内に詰めてそのままじんわりと溶かし、飲み込む。それを歩きながら二度三度と繰り返して、息が名残惜しげに白く尾を引くのを断ち切った。
 吹雪は一人の姿を隠した。


(P.1)



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