第一次チーズケーキクライシス 1/2
朝一番、決闘でも挑まれるのかと思った。
いや、仮にそうだったとしても受けやしないんだけどさァ……。
朝練を終え教室に入った僕を待っていたのは「色無君、おはよう!」という少し高い声だった。ちょうど何かをしていたというわけではなさそうで、果たし状がその手に握られていても僕は驚かなかったはずだ。
日本人らしからぬとてもはっきりとした喋り方は聞き取りやすくて好ましいが、同時に不自然に感じた。映画のタイトルでも読んだかのような独立さを持っていたからだ。
英語ではしばしば単語同士を連結させる発音現象――リンキングと呼ばれる――が起こるが、それを無視しているような印象に似ていた。
すぐにその理由を知る。意を決したような様子で挨拶をしてきた眼前の彼女の
表情は、そのたった一言を僕に言うなり満足げなものへと変わったのだ。
世間話をしようとか僕に特別な用事があるとかそんなことはなく、彼女の目的は本当に挨拶だけなのだとその表情と
佇まいで理解して、優等生らしい挨拶を返すよりも先に思わず小さな笑いが
溢れた。
別の言葉で表すなら『失笑』だ。笑いを失うと書くくせに、思わず笑ってしまうという意味なのだから日本語はやっぱり難しい。
「おはよう、
山南ちゃん」
僕が思わず笑ってしまったことがそんなに意外だったのか、挨拶を返しても彼女は少しの時間呆けて固まっていた。
記憶を辿っても彼女と今までに会話らしい会話をした覚えはない。それなのにどうしてご丁寧にも挨拶をしたがっていたのだろう。
経験で語るならば突拍子もない出来事の多くは罰ゲームの駒にされた場合に起こっているけれど……誠凛高校に入ってからはそんなものに利用されるような過ごし方はしていないはずだしぃ。
「そうそう。一時間目の保体がね、体育じゃなくて座学に変更だってさ」
少しばかり無理矢理思考を切り替えて、教室に来るまでに出会った体育教師から貰った伝言を朝のSHRで言うよりも早く彼女に伝える。
もし家に教科書を持ち帰ってしまっていたのなら、他クラスの生徒から借りるか隣席同士で共有するかを強いられるが、焦りを見せない彼女は大丈夫なのだろう。
「色無君は、嫌?」
「特にどうとも思っていないよ。葵くんは喜びそうだ」
「シフォンケーキ貰ってたよね」
「僕がお願いしたんだよ。彼は自信がないなんて言っていたのに不足なく作り上げてくれたんだ」
「シフォンケーキのどんなところが好き?」
「――君はメディアインタビュアーを目指しているのかい?」
まるでミルフィーユでも作っているかのように質問を重ねる彼女に制止を促す。先程その手に果たし状は握られていなかったが、改めて確認してもマイクも握られていなかった。
アンデルセン童話では愚者には見えない服というものがあったが、今回は愚者には見えないマイクなのかもしれない。困ったなァー。
彼女は「ケーキ屋でバイトしてるから、気になっちゃって」と誤魔化すようにはにかんだ。
「洋菓子屋のディスプレイケースは宝飾店のそれとよく似ていると思うんだ」
タルト・セゾン、モンブラン、サントノーレ、キルシュトルテ、フレジェール――多彩な輝きはいつも飽きさせることなく僕たち楽しませてくれる。
柔らかさを孕んでいるかどうか、それ以外に両者で異なる点はない。
「見た目だけで選ぶのならきっと僕はシフォンケーキに見向きもしなかったけれど、なんだか……不思議な味がしない?」
「不思議な味……?」
「
貴婦人の帽子に
修道女……美しく、それでいて本当に美味しいケーキなんて全部の指を使っても数えきれないほどあるさ。けれど……そうだなァ……それは幸せっぽい味がするんだよ」
幸せに味があるのかなんて僕にはわからないし、僕の想像する幸せと大衆の想像する幸せも異なるかもしれない。しかし、シフォンケーキを口にする度にそう感じていることは確かだった。
勉強熱心を着ている彼女にとってはおかしな答えに思えたかもしれない。
「フランスだとエンジェルケーキって名前らしいし……もしかしたら本当に幸福が運ばれてたりして!」
いたずらっぽく彼女が笑う。「そうだといいね」と返して、しかし内心では馬鹿らしく思った。
シフォンとは英語では柔らかな絹織物や装飾レースのことだが、フランス語では
ぼろ切れを意味する。
物語の土地とも言える洋紙は時に皮膚を切り裂く。薬は毒にもなる。
五芒星は逆転したら悪魔の象徴と化す。愛されるべき色無雫はとうにいない。
もしかしたら幸福はそんな表裏の残酷さをずっと知らないままでいることかもしれない。
苦い舌が口内でザラついて不快感が喉奥から腹の底へと滑り落ちていった。
「次、君が店に立つのはいつ?」
「
明日の午後だけど……」
「じゃあ僕を待っていて。遊びに行くよ」
気まぐれもいいところだ。部活だって休みではないし、仮に休みだったとしても暇な時間なんて一匙もないのに。
どうしてもケーキが食べたいわけではない。彼女に会いたいわけでもない。ほとんど衝動的に放った言葉は普段とは異なる行動を求めた結果だ。
――現実と距離を置きたい時くらい誰だってあるはずだよねぇ。
そう心の中だけで独り言ちていると、彼女はぎょっと目を開いて「だって二日会えないと思ったからっ……」と発作のように叫んだ。わけがわからない。
「あのー……店内で食べられるトコあるんだけど一人で来る……? ますかね……?」
「あぁ……誰かと一緒のほうがお店的に嬉しいかな? ちひろちゃんとか柿原ちゃんに訊いてみて、時間がとれそうな子がいたら……」
「いや、一人でいいです!」
葵くんはきっと家事や兄弟の世話で忙しいはずだ。帰りに差し入れにいこうかと考えていると、彼女は「チーズケーキがオススメだよ」とわずかに目を細めた。
「ベイクドにレア、それとスフレ!」
「あは、選ぶのに苦労しそうだ」
「美味しいものはハイカロリーって決まってるからね……」
オススメと言うだけあってきっとどれも幸福感を与えてくれるに違いない。しかし彼女の言う通り、三種とも食べてしまったら後々の調整が面倒なことになってしまう。
経済について悩み続ける政治家はこんな気持ちなのかもしれないと、この
難局を第一次とすることにした。
壁掛け時計へと目を向けるのとほぼ同時に「色無君、朝礼もうそろ始まるよー」と飛んできた声へと小さく手を降って応える。
第一次チーズケーキクライシス解決の先延ばしが決定した。
「後でお店の名前と場所、メッセージよろしくね。クラスのグループチャットで僕の連絡先わかると思うからさ」
彼女と別れてそれぞれの席へ着く。彼女にちらりと視線を向けるとスカートのポケットを漁っていた。
「あの子と仲良かったっけ?」という質問には「クラスメイトみんなと仲良くなりたいと思っているよ」と面白くもない返答をした。
「エッ、浮気ですか?」
「俺は誰かのものじゃないって」
ぼう、と窓の外を見ながら口だけを動かす。
一秒ずつ、朝の陽気が昼に向けて少しずつ強まっていっているような気がした。
明日はどんな理由をつけて部活を抜けようかなァ。
(P.52)