きみが悪い 1/1 


「数日ぶりに登校してきたかと思えば……」


 中庭が隣接する廊下で黒子テツヤは溜め息をついた。
 ここに来たのは、移動教室に備えて教科書類をまとめていた最中さなか、クラスメイト同士の会話に友人の名前が挙がるのを聞いたからであった。
 どうせまた奇天烈きてれつな言動で周囲を戸惑わせているのだろうと決めつけた黒子は、慣れた様子で道行く生徒たちの後ろ髪が引かれている方向へと歩を進め、そしてここまで辿り着いた。


「今度は何をしでかしているんですか……色無君」


 その声は大きなものではなかったが、色無と呼ばれた男は一度で問い掛けに気がついた。
 しかし赤司からの言いつけがなければ色無が黒子の細い声を記憶する気がなかったであろうことを黒子は気づいている。


「ヤギュケン!」


 色無は対峙するほとんど裸の男に向けていた悪どい顔をそのままに、カタコトの言葉を薄い唇から発した。
 きっと意味までは理解せず耳で聞いた言葉を口にしているのだろうと察してやるのも、黒子にとっては噂の場所に来るのと同様に慣れたことであった。


「野球拳ですか」
「そォーそ! それだ!」


 パチンと小気味好い音が神経質そうな指先ではじける。
 本来の野球拳とは伝統芸能であるが、バラエティー番組の影響により今日こんにちではジャンケンに負けるたびに服を一枚ずつ脱いでいくゲームとして広く知られている。
 色無が脱いだ制服のジャケットやパーカーを掛けられて人間コートハンガーになっている女子生徒を横目で見た黒子は内心で同情を送った。
 見るからにただの通りすがりの者である。棒立ちの全身からは少しとはいえ怯えの色もうかがえた。
 黒子は色無を友人だと考えているが、そもそも友人関係をおいそれと築くような人格が備わっていないことは一目瞭然の男であった。
 現に、離れた場所にいた黒子の耳にまで噂が届いたわりにこの場に足を止めている生徒は一握りしかいない。通り掛かる者たちはこの光景に強く興味を引かれてえにしを欲しても、同じ人間かもよくわからない存在を自ら突っつくほど命知らずではなかった。
 ――怖い人ではないんでしょうけど。
 黒子はぼんやりと、野球拳を続ける色無を眺める。
 水に浮かんでいると、時々どうしようもなく恐ろしく感じることがある。異形の魚が足もとで泳いでいるのではないか。自分を今にも引きずり込もうとするのではないか――。
 目に見える危険性はおよそ無いのに、得体の知れない浮遊感と冷たさが心を絡めとっていく様が似ていると黒子はかねてより思っていた。
 グループ分けをした際にいつも余ってしまうにもかかわらず、一言「ここに入れてよ」とあればそれが喜ばれるような人間だとも同時に考えていた。


「ハイ、お前の死〜!」


 色無の明るい声で、黒子はハッと目の前に意識を戻した。
 パーを出している男子生徒――灰崎祥吾に対峙した色無の手は、ジャンケンに使われる三種ではなく中指だけが立って向けられている。
 ポカンと呆れるほかをよそに、勝ちを主張する本人は「これぞ最強の手!」などとゲラゲラ笑うだけだ。


「ンな手はジャンケンにねェ!」
「あっはーっ! 馬鹿め!! 僕がアリと言ったらアリだしぃ〜」
「んだとォ!?」
「常識でしょお? 君のその針山みたいな髪型は足りない脳をサバ読むためのデコレーションのようだねェ!」
「……あ゛? ぜってェ殺す」
「へへん、ざーこざーこ! 下着姿で凄まれても怖くないったら、やーい!」


 狭い廊下でぴょんぴょこと跳び回る、およそ中学生とは思えない知人たちに黒子は溜め息をついた。
 人間コートハンガーとなっていた女子生徒から服を取り、二人の代わりに謝罪をする黒子は紛れもない苦労人の姿であったが、いかんせんカゲが薄い。それを労る者はこの場にはいなかった。
 小学生未満の争いは、「今のはです」「ム……」黒子が何も羽織れていない色無の背中へと服を力強く投げつけたことでようやく収まりを見せた。


「しょーごくんってば、そうカンカンと燃えなくてもいいじゃないか。どうせ僕を全裸にするには皮膚を剥がしても足りなかったんだしねぇ」
「こっから連勝する予定だったんだよ」
「はいはい。んアー、大きな声出したら喉が渇いちゃっ……」


 いそいそと服を着直していた二人のうち、ワイシャツに袖を通した色無の手がピタリと止まる。
 ベルトを締め終えた灰崎がそれに気がついて尋ねると、「じゃあさ」色無はニンマリと深い笑顔を見せた。


「再戦しよ? しょーごくんが僕のシャツのボタンをチャイムが鳴り終わるまでに全部掛けられたら僕の負け! 一週間、サボタージュの言い訳をにじむー先輩にしてやろう」
「あぁ? んだよその勝負……。テメーが勝ったら?」
「飲み物買ってきてっ」
「パシりかよ。けどまあ……いいぜ。邪魔はすんなよ」
「もちろんだとも。僕はただ突っ立っているよ」


 灰崎の視線が、色無が着ているワイシャツのボタンを滑る。たった七つだけ。バスケのプレイスタイルからもわかる通り、灰崎は人よりも器用な男であった。
 しかし、向かい合った二人を見てこの勝負は色無の勝利で終わるであろうことを黒子は予想できた。
 なぜなら、対面でボタンを掛けるということはすなわちボタンの前後が自身で着衣する時とは逆になってしまうからだ。特に、ボタンを掛けるという日常的に染み付いた行為においてすぐさま反転に対応することは難しい。
 今日こんにち、ボタンの前後関係は男女で異なる。
 右利きが多い社会にて一人で着衣することが多い男性は本人から見て右利きに易しい構造になっているが、貴族の女性は使用人の手で着衣することが多かったために、対面の者にとっての右利き構造になっているというのが有力な説である。
 もし色無が女であったのなら灰崎にとっては日常と何も変わらぬ作業だったが、哀れなことに色無は男である。
 そして廊下に授業開始のチャイムが鳴り始めると同時に始まったリベンジマッチは、まごついた指先の努力も虚しく黒子の予想通りの結果に終わった。


「おやァ……? しょーごくんはボタンもまともに掛けられない不器用さんですかァ〜?」
「てんめェ……」
「そんなんじゃあ僕の召し使いになれないよォ〜。べろべろばァ〜」
「こうなることがわかっててこの勝負にしたな!」
「あっはは! ようく考えない! さて、飲み物を買ってくるくらいの使い走りなら穀潰しの畜生にもできると信じている僕を裏切らないでおくれよ」


 背を押された灰崎は、長い脚を使った不満げな態度を隠すことのない歩幅で廊下の奥へと消える。
 それをヒラヒラと送り出している手は力のある灰崎が握り込めばたちまち壊れてしまうだろうに、喧嘩っ早い灰崎が侮辱を浴びてもなおそれに至らなかったことは、黒子を驚かせるには十分だった。
 表情の変化に乏しい人間であるためにそれが表に出ることはなかったのだが。
 時折今日のように二人でいる姿を見ることもあるがほとんどは単独でフラついていることが多い。両者を知る者たちは二人の関係性を常に量りかねている。
 野球拳を持ち掛けたのは灰崎だろうと黒子は推測している。色無は音でしか名称を覚えていなかったためだ。
 男子中学生の馬鹿な遊び。
 興が乗る限りそれがどんな事であろうと気まぐれに始め、線香花火のように遊ぶ男たちである。今回のゲームにも意味を見出だしていないに違いない。
 悪ふざけに興じながらも何だかんだ仲が良さそうに思えるのに、空色の瞳には灰崎が色無を嫌っているように見えて仕方がなかった。
 ――灰崎君は何か弱味を握られている?
 影響されたのか、急激な喉の渇きが黒子を襲う。
 ――
 酷い危害を加えられたことなどないのに、液体化したグロテスクを胃酸に利用していそうな人だ、なんて失礼な思考に陥ってしまう理由を解明できずにいた。
 大喰らいが目の前で笑う。


「ところでさ、テツくん」


 すっかり服を着込んだ色無が黒子へと視線を向ける。
 中庭へと通ずる扉が開け放たれると、「僕はこれから彼に昼寝番をさせる予定だけど……」静かな風が二人の髪を揺らした。
 心地好さに黒子は目を細める。
 しかし続いた言葉は日常を思い出させ、強風のようにその穏やかさをさらっていったのだった。


「授業が始まっているのにこんなところで油を売っているだなんて――君も悪い子だねェ?」


(P.13)



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