リリーサー・ドリップ 3/3
「ほい、シフォンケーキ。見た目は上手くできたぞ」
月曜日の昼休み。シンプルな白い紙箱が机の上に置かれた。わずかに香ってくるその甘い匂いは葵くんの言葉が無くとも箱の中身が何であるのかを雄弁に語っている。箱を開くとすでに包丁を入れてあるシフォンケーキが鎮座していた。綺麗に収まっているそれに、ゆるゆると頬が緩む。「やった」と
溢した声は常よりも幾分か弾んだものになった。
「美味しそうだ」
「部活の連中に取られないようにな」
「大丈夫。絶対にあげないよ」
テツくんならまだしも、ほかの人たちに見つかったらほとんど全部とられてしまうかもしれないしぃ……。意地汚いなんて悲しいことを言わないで? 守ることは大事だと思うんだよねえ。
「……というか、フォーク持ってきちゃった」
ランチバッグから「じゃん」とフォークの入ったケースを取り出してカシャカシャと振る。「まじか」と漏らした彼の目の前に僕自身の弁当箱と箸を置いた。
「えっ、これは?」
「僕の弁当。葵くん食べて?」
「だから
昨日『
明日は昼食持ってこないでね』ってメッセージ送ってきたのか……!」
「ケーキも持ってきて弁当もとなると荷物になっちゃうかな、って。僕自身、
明日は作らなくていいよってハウスメイドに言うのも面倒だったし……」
「待ってくれ。ハウスメイド?」
「うん。だから味は大丈夫だと思う。苦手な物があったら
除けてくれて構わないから」
「そういう話じゃないんだけど」と言いながら箸をケースから取り出す彼に首を傾げると、彼はため息を一つ
溢して自身の水筒の蓋をキュルキュルと回し開けた。
「生クリームもあります」
「ン゛ッ……!」
スクールバッグから取り出した未開封のスプレーホイップを片手に持ち、もう片手はピースを作る。
昨日の部活後に買ったものだ。水筒に口を付けていた葵くんは、変な声を出した後ゲホゲホと苦しそうな声で盛大にむせた。
「無表情でピースやめてくんね? てか準備万端すぎかよ」
「笑顔が良かったの? んー……ずっと楽しみに待っていたんだからこれくらいは許してほしいなぁ。あと今日の水筒の中身は紅茶です」
「あ〜……」
「もう何も言わないどく」と言って弁当の蓋を開けた彼は律儀に「いただきます」と手を合わせた。「召し上がれ」なんて言ってから僕も「いただきます」と手を合わせると彼も「召し上がれ」と返してきて、二人で小さくくすくすと笑う。
フォークを手に取り、箱の蓋の裏側を皿代わりにシフォンケーキを一切れ倒して取り分ける。一口大にフォークで切って
掬ったものをぱくりと口に含めば、食感は見た目を裏切らずにふわふわとしていた。
「ん……おいし」
あっさりとしているのに柔らかな甘さに目を細める。やっぱり好きだなあ、なんて思った頃には三切れ食べ終わっていた。見た目に反して軽いんだよねぇ……。
彼の右隣の席、つまりは僕の右斜め後ろの席の女の子、柿原ちゃんがぼそりと「私もケーキを作ろうか……」だなんて呟いたのが耳に入った。そしてその言葉に無言のまま何度も頷いたのが、僕と葵くんのように、柿原ちゃんの机を挟んで向かい合うようにしてお昼を食べているちひろちゃん。「名前で呼んで! ください!」なんて初日に面と向かって言ってくるような元気な子だ。
本来は僕の前の席だが、昼休みになるとほかの所へ移動する僕の隣の席の人の椅子を借りて女の子同士仲良くお昼を食べている。微笑ましいねぇ。どうでもいいけど。
うーん、次からは生クリームつけて食べようかな、なんてスプレーホイップを開封してカラカラと振る。四切れ目にしゅわ、とたっぷり出したホイップは真っ白で、教室の蛍光灯で色飛びしたように僕の目に映った。
「あ、大丈夫だった? ぼそぼそしてない?」
「全然問題無いよ、凄く美味しい」
「良かった……」
「はい」
「ん?」
「シフォンケーキは味見できないから不安だよね。はい、どうぞ?」
「え?」
「ほら、口開けて?」
掬った生クリームつきのシフォンケーキを彼の顔の前に差し出す。口ごもる彼に「食べないの?」なんて尋ねれば「食べる、けど……」なんて要領の得ない答えが返ってきた。
「どうしてもそうやって食べないと駄目か……?」
「……? あーん、ってやつだよ。やったことあるでしょ?」
「そういう問題か……?」
「何か問題があるの? 友達と交換するときによくこれしない?」
「少なくともオレはしなかった、かな……」
彼は乾いた笑いを漏らす。大くんもしょーごくんもこうでもしないと指で掴んで奪ってくからねぇ。こうしてやると大人しくしてくれるからよくやったものだけど。
あっくんに関しては何だか幼子を手懐けてる感覚がしたし、そんなことをしていると「オレもー!」なんてきゃんきゃん鳴く犬がいつも出てくる。「僕の分が無くなるでしょぉ」なんて足蹴にするのがいつものパターンだった。
分けてあげるとにっこにことだらしない笑みを浮かべるものだから、涼ちゃんはもっとモデルとしての自覚を持つべきだと思う。「酷いッスよー!」なんて言う暇があったらモデルの黄瀬涼太を守ってあげている僕に感謝してほしい。……いや、というかお前たちはもっと胃袋に見合ったお昼を持ってこいよなァ。
「そう、じゃあ僕としよう」
「へ」
「ほら、あーん」
「いろなっ……んっ」
「……ど? 美味しいでしょ」
もぐもぐと咀嚼する彼に笑いを
溢す。飲み込んだ後、「おう」と小さく言った彼は視線を泳がせた。先ほどからずっと隣の二人の方からガタガタと机が揺れる音がする。
「たしかに、んまい」
「ふふ、当然。このシフォンケーキを作ったのは僕が投資する有望株でして」
どうだ、とでも言うように自慢げに唇の端を吊り上げて片目をぱちりと閉じる。「サアサアもう一口いかがかな?」なんて物語によく出てくるような商人の真似をして、再びフォークにのせたシフォンケーキを差し出せば、彼は一瞬の迷いを見せたものの、今度は大人しく口に含んだ。震源地組がうるさい。
「……ほ、ほう」
「次回作ができ上がったら君にもまた食べさせてあげましょう」
「はあ……っておい。次回作って」
「あはは」
からころと笑って見せれば、彼は「まあいいけどさ」と片眉を上げて笑顔を浮かべた。どうやら少し自信はついたみたいだねぇ。
「次は紅茶のシフォンケーキをよろしくね」
「サラッと難しいこと言ってきた」
「難しいの?」
「今まで成功したことない」
眉間にしわを寄せて箸の頭で顎先をトントンとノックする彼を見る限り、普通のものよりも難易度は上がるらしい。でもこのシフォンケーキを作るときだって、前に失敗して苦手だって言っていたんだからねぇ。失敗しても怒るつもりは無いから安心しなよ。
「葵くんなら大丈夫だよ。できるさ」
「……おう」
くすぐったそうに笑う彼を見ながら、僕から
黒が抜け落ちても付き合うのもありだよねぇ、なんてこっそりと笑って控えめな甘さのシフォンケーキをぱくりと口に含んだ。午後の授業まで、あと少し。
(「これ、君にプレゼント」)
(「え、オレに?」)
(「ただフォークやスプレーホイップを持ってきただけじゃなかったんだよ?」)
(「嬉しい……開けてもいいか?」)
(「もちろん」)
(「おお……ハンドクリーム。オレ今までわざわざ買おうと思ったことなかった。……ん、この匂い、どっかで嗅いだことあるような……?」)
(「あはは、僕が使っているのと同じ。きっと僕の手かな?」)
(「……オレ今なんかすげー恥ずいこと言ったな」)
(「家事も大事だけど、自分も大切にしてね」)
(「……いつも思ってたことだけど優しいのな、色無。その……いろいろと」)
(「そう? 改まって言われると少し照れちゃうな」)
(「……っておい柿原たち! 地震起こすな!!」)
(「ンンンッ……!」)
(「むしろ二人に謝ってほしいわ……」)
(「二人のせいでまだろくにお昼ご飯食べれてないからね、私もちひろちゃんも」)
(「お腹すいた……最低限度の生活がしたい……」)
(「震源地が人権を求めるのか?」)
(「あっ……先生来たよ、三人とも」)
(「あれ? 非常勤の先生……? いつもの柚見先生は?」)
(「柚見先生は今日出張ですよー」)
(「ひえええ、もうそんな時間……! 二人を見てる場合じゃなかった! 色無君発展問題写させてください……!」)
(「柿原さんよく教師の前でそれ言えましたね……!? 柚見先生のときもそれしてるの!?」)
(「だいじょーぶ! いつもは写さずちゃんと教えてもらってるから!」)
(「ゆ、柚見先生に報告しちゃいますよ〜? ていうかそうしてる間にもちひろさん写し始めてるし……」)
(「ゆずちゃんせんせは許してくれる! はず!」)
(「はい写し終わった〜。疾風のちひろとは私のことよ。あ、色無君ありがとう!」)
(「先生、僕が食べるのに時間かかっちゃったんです。見逃してあげてくれると嬉しいな、なんて……。駄目、ですか……?」)
(「許します」)
(P.38)