そのうはべは哀しむ 1/4 


「大丈夫?」


 タイムアウトが明けて再び僕をマークしにやってきた津川くんは心乱れた様子もなく、口もとには微笑すら浮かんでいた。しかしそれも儚く、そんな一言を掛けてやれば瞬く間に彼の表情は余裕を失った。太い眉は不機嫌そうに寄せられている。


「大丈夫、だあ……? どの面下げてんなことを言ってんの? その厚顔さには感服するね」
「……どうやら僕は相変わらず日本語が苦手らしい。僕が訊いたのはさ――その守備の甘さだよ」
「は」


 走り出して伊月先輩が持っていたボールを半ばひったくるように手中に収める。津川くんのようにどれだけディフェンスに長けた選手でも所詮は未熟な高校生、嫌悪の対象が眼前にいれば守備だけに注がなければいけない意識が嫌悪へと流されて隙が生まれる。
 これまでの試合態度を見ていても感じてはいたが、やはり彼は公私を分けるのが苦手な人間なのだろう。
 すぐに走り出すも、伊月先輩からボールを受け取るために回り道をしたからだろうか、すでに進行方向には一度振り切ったはずの津川くんが立っていた。このまま進めばきっと彼は巧く接触してきて火神くんがやられたように僕もチャージングを取られそうだ。
 さァ、どうしたものか……。なんて思ってはいないけれど。することはもう決まっている。
 ドリブルの速度を落として彼との距離にも余りを持たせる。しかし彼の出方をうかがうそぶりを一瞬見せてから右斜め前方へ急発進をした。ついてこれなかったらそれまでだ、そうは思ったものの、流石さすがとでも言うべきか彼は無駄の少ない動きで僕の動きについてきて、守備能力の高さを身をもって実感した。
 それでもやはり甘いのだ。彼の出方をうかがったのがそぶりであれば、急発進での切り込みもそぶりである。
 彼との距離が詰まった二、三歩ほどでショットへとすぐさま切り替えて真上へと飛べば、僕を追うように彼も飛んだ。距離が詰まっていた両者の体が空中で接触する。審判の短い笛の音を聞きながら、接触によって崩れた体勢からとりあえず放っただけのボールはリングとは異なる方向へと向かっていった。


「残念」
「オマエっ……!」


 床へと打ち付けられた体が地味な痛みを訴えるのを無視して見上げた津川くんの瞳には、嫌悪を通り越して憎悪が宿っていた。笑い出してしまいそうになるのを抑えて、僕のもとへとやってきてくれた伊月先輩の手をとって立ち上がりほかの三人のもとへと合流する。タイマーはタイムアウト明けからほとんど変わらない時間で止まっている。


「お前凄いな……あの津川にファウルゲームを仕掛けるなんて。度胸あるよ」
「度胸の有無など関係なく、試合の流れを誠凛へと持ってくるために必要なことでしたから」
「ディフェンスの要がファウルに誘われるのはマジでキッツいからな……」


 主将キャプテンの言葉に、水戸部先輩がこくりと頷いた。「津川にスゲー睨まれてたしやり返されないように気をつけろよ」なんて伊月先輩の忠告もそこそこに受け止めて、近寄ってくる審判を一瞥いちべつする。
 バスケットボールという競技にはどれだけディフェンスに長けた素晴らしいチームでも、指をくわえて見ていることしかできない時間がある。スロワーへの絶対的不可侵、それこそがフリースローだ。
 流れをチームに持ってくる? たしかにその効果も見込めるが、そんなことはあくまで上向きだ。勝利のために必要なのは圧倒的な実力でも守備力でもなく、得点である。シューティングファウルにつくフリースローこそが目的だった。
 フリースローは一本の成功につき1点が入る。たかが1点、されど1点だ。逆転のための時間が惜しい今、タイマーを止めた状態で得点を重ねられるのは大きいだろう。


「これで2点入れば……」
「いえ、3点貢献してみせます」
「3点? って、色無まさか……!」
「ええ、僕がシューティングファウルを被ったのはスリーポイントラインよりも外ですから。与えられたフリースローは三本のはずですよ」


 すぐそばまで来ていた審判に「でしょう?」と尋ねれば、審判は「スリーショットです」と事務的な返事を寄越した。ゴール下で控えているもう一人の審判が出している指も三本だ。
 フリースローラインを踏まないように立って審判から投げられたボールを受け取り、すぐさま第一投を放る。続けて第二投、第三投、誰にも邪魔されないショットはすべて危なげなく得点へと消化された。
 フリースローには慣れている。今さら緊張などするものでもない。
 ゲームは正邦高校のスローインによって再開されたが、正邦高校が攻撃に転じきらないうちに彼らのパスをカットしたのは主将キャプテンだった。
 主将キャプテンから貰ったボールの進行方向を変えて水戸部先輩へと流せばフックシュートが決まった。前半と比べて明らかにチームの動きが良くなっている。
 いや、前半が悪かったわけではない。古武術の動きを応用したという正邦高校のに慣れるだけの時間はどうしても必要だった。現代のスポーツ科学とは考え方がまるで異なるプレーをしてくる正邦高校にこれだけ適応したチームなど、今までいなかっただろう。
 彼らの焦燥の表情がそれを物語っている。「おかげさまでDVDデッキ一個オシャカにしたんで」と言った主将キャプテンに苦笑を溢した。
 人間の執念とは、恐ろしい。


「オマエ、何で駒波辞めたの?」


 1点差まで詰め寄ったこの状況で津川くんが不意に放った一言に、温まっていた体が氷漬けにされたように固まるのを感じた。この男はつくづく僕を落としたいらしい。
 答えてやる義理は無いだろうと返答の代わりに彼からチャージングを奪えば、隠す気もない舌打ちが返された。誠凛高校のスローインでゲームが再開される。
 ドリブルをしながら進軍していると、突然キセキの世代と呼ばれた彼らがどれだけ凄かったのかが理解できた。焦燥を帯びた背中など見たことがあっただろうか。誰が何と言おうと、服のしわ、流れる汗、走り方、すべてにおいて余裕があって、やはり彼らは同世代よりも一段も二段も高みにいたのだ。
 隣のコートのベンチで体力を温存しているタローも、観客席で先輩と談笑している涼も、ここにはいない者たちも、それぞれ多少形は違えど一騎当千の力を持っていた。
 今までも嫌というほどに理解はしていたはずなのに、彼らと共にプレーしていない今、それが急に身に染みた。
 しかし焦燥の背中を見せているのはチームメイトだけではない。1点差とはいえ誠凛高校がまだ負けているにもかかわらず、むしろ王者であるはずの正邦高校の選手のほうがより追い込まれているように僕の目に映った。
 この時、試合時間は残り四分を切っていた。


「……この人殺しが」
「……人殺し、だって?」


 津川くんのマークを次はどう外そうか悩んでいる最中さなか、わけのわからない言葉を掛けられて眉根を寄せた。喉を通った声は自分が思っていたものよりもずっと低く、地を這っていた。
 いや、わけがわからないわけではないのだ。
 彼の言う通り、僕には確かに一度人を殺した経験がある。


(P.70)



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