静物のこころは怒り 1/7
早朝の空気を肺いっぱいに取り込む。
深夜、小学校の頃の夢を見て目が覚めてからというもの、再び僕の体が眠りに落ちることはなかった。ナイトウェアのままベランダから家を飛び出してからもう数時間も経っているらしい。
財布もスマートフォンも、腕時計の一つも持ってきていない。靴すら履かず、裸足のままで歩く夜のアスファルトは冷たくざらついていた。
誰一人として見当たらないこの場所で、今僕がシングルアクション方式の自動拳銃でありながら
安全装置が付いていないトカレフを手の中で回しながら堂々と歩いていたとしても、誰も僕を咎めないどころか、危険にすら気づかず人々は寝息を立てるのだ。
僕よりも背の高いコンクリートの塀に手を掛けて勢いのままに登りきる。立つと同時に吹いた風は、ナイトウェアの薄い生地を膨らませた。
一歩、二歩、三歩、細い塀の上を、四歩、五歩、六歩、足を入れ替えて進んでいく。
幸せは歩いてこないらしいから、きっと走ってきてくれるのだと信じて今日も僕は地道に前へと進むのだ。三歩進んで二歩下がっても、その三日のうちに幸せのほうは十歩も二十歩も近づいてきてくれているはず。
けれど一向に会えないのは僕も幸せも、地図を持ってもいなければ待ち合わせ場所を決めているわけでもなく、連絡を取っているわけでもないからだ。
帝光中学校の時、百貨店やイベント会場でのアナウンスメントよろしく「ぴんぽんぱんぽーん。本日も帝光中学校にご登校いただきまして誠にありがとうございます。授業中の皆様に迷子のお知らせを致します。東京都在住の色無雫の幸せさん、放送室でお連れ様がお待ちです。至急お越しくださいますようお願い申し上げます。ぴんぽんぱんぽーん」なんてことを校内放送したら血相を変えるほど大至急お越しくださったのは僕と会えない幸せなどではなく生活指導担当の教師たちだった。
幸せとやらはシャイなのだと思う。あの放送できっと遠ざかってしまったのだ。でなければ反省文を文字数や枚数単位ではなくキログラムで出されるはずがない。誰を傷つけたわけでもないただの出来心なのに思いの
外罰が精神的にも物理的にも重くて、あれは苦い思い出となった。
「おっと」
僕と同じく、塀の上を歩くものが向かいに現れた。このまま進み続けるにはどちらかが下りなくてはならない。通学時によく見かける顔だ。
「ぐっもーにん」
足が縦に並ぶ不安定な状態でしゃがみ込む。すぐ目の前までやってきた彼女も足を止めて、朝に似合う声で挨拶を返してきてくれた。
「君も早起きだね。まァ、それが普通なのだろうけど」
僕はまだ下りてやるつもりはない。彼女に跨いでもらおうと、椅子に座るのと同じように腰掛け手で通れと促す。「そうじゃないんだよなァ」
膝の上で丸まってしまった。
「こんなところでのんびりとしていていいのぉ? 早朝は君たちにとっては狩りの時間じゃないか」
顎の下へと伸ばした指を動かせば、だらしなく体が広がって目が細められる。多少くすんではいても野良にしては随分と綺麗な白い毛だが、病気の一つでも持っていたりはするのだろうか。
裸足で歩いていた僕があれこれ言えないけれど。まァ、このナイトウェアは今日限りで役目を終えてもらおう。
「喉を鳴らしてまで喜んでくれている君にイイコトを教えてあげようか」
しばらくぼんやりとしながら彼女を撫でていると、あることに気がついて撫でる手を止めた。
膝の上の彼女に背中を丸めて顔を寄せ、声を潜める。言語を理解しているとも思えない猫に対して話し掛けたりそんなことをする必要があるのか疑問は残るが、つまらない人間になるくらいならそうして笑われたほうがずっといい。
頬に彼女の前足の肉球がむにりと触れた。こら、歩き回った足で僕の綺麗な顔に触るんじゃない。声には出さずに彼女の前足を手で下ろす。
「銀鳩って知っているかい。
数珠掛鳩の白変種のことだ。主に手品で目にすることが多いんじゃないかな。けれど野生でも稀に見掛けることはある」
僕が声を潜めているのに合わせているのか、彼女の
相槌は小さかった。僕が覆いかぶさるように背中を丸めているせいで暗いのか、彼女の瞳孔は大きく開いている。きっと彼女から見る僕のそれも、普段の針など影も形もなく大きいに違いない。
「さァて、ここからがイイコトだ。しっかりと息を潜めて」
彼女の口に、ピンと立てた人差し指を当てる。「だからそうじゃないんだよなァ……」薄い舌が僕の指を舐めるものだから、思わず脱力してため息をついた。
「僕から見て右の路上にいるんだよ。
銀鳩が」
僕の指を舐める舌が止まった。仰向けに近い体勢になっていたくせに、もぞりと動いて元通り丸まったその背中をゆっくりと撫でる。
「野生の銀鳩は目立つせいでカラスの餌食になることが多いらしいから、とても運が良かったのだろうねェ。けれど可哀想に――もう運を使い果たしてしまったんだ」
彼女の背中をトンと軽く叩くと同時に、彼女は僕の
膝の上から飛び出した。
それは僕が1on5でスタート直後に点を入れたのと同じく、あっという間の出来事だった。
ぱちぱちという幼稚で柔らかい拍手の音と、細い骨が割れていく小枝を折ったような硬い音が閑静な住宅街の早朝を彩る。
有名な旧約聖書の『
Noah's Ark』では、大洪水の後放した鳩がオリーブの歯を加えて戻ってきたことでノアたちが水が引いたことを知ったという内容になぞらえて鳩やオリーブが平和の象徴となっているが、目の前のこの光景は平和と言えるのだろうか。
平和の象徴を喰い殺すなど、彼女も僕もとても背徳的なことをしてしまった。しかしただ空腹を慰めるどころか、肉食の彼女にとって鳩はご馳走だろう。
『平和になど興味が無い、私が良ければそれで良い』とでも言いたげに食事を進める彼女の背中に満足して、塀の上から飛び下りる。僕はそろそろ家へ戻るとしよう。
「夢中になるのはいいけれど、そこにいたら轢かれるかもしれないよ」
そんな忠告は、少しだけなら眠れそうな気分になれたことへの礼だ。
夕方から夜にかけて天気は一気に崩れるらしいが、「良い一日を」なんて言ってから見上げた空は、まだ高く澄んでいた。
(P.63)