侵略が愛した劣情 1/3 


Side:Tetsuya Kuroko

「お手柔らかにお願いしますね」


 コートの中央に立つ雫君は手に持ったボールの感触を確かめるように何度かそれを床について口もとをゆるゆると歪ませた。まるで新しい玩具を手に入れたばかりの子供のような喜色あふれる顔と声。けれど先輩たちは彼のその言葉で顔をさらに強張らせた。
 それもそのはずだ。雫君を入れた一年生チームと二年生チームでミニゲームを始めようとしたカントクに、雫君が待ったをかけ、二年生相手に自分一人で戦うと言いだしたのだ。
 元帝光一軍とはいえ、キセキというわけでもない。ましてや怪我から復帰したばかりの練習不足のマネージャーで、背負った番号だって一番下だ。それなのに去年決勝リーグまで進んだ二年生を一人で十分だとは、侮辱にもほどがある。
 険悪な空気を和らげようとせめて三人に減らしてはどうかというカントクの提案もすっぱりと断った。まさか今日この瞬間をもって優等生の皮を脱ぎ捨てるつもりだろうか。……いや、それならとっくに口調は戻っているはずだ。
「代わりと言ってはなんですが」と唯一彼が出した条件は、自分ボールからというものだった。


「試合時間は一クォーターの半分、五分よ。それじゃあ――」


 カントクが吹いたホイッスルの音が体育館を貫き、響いた。その音のこだまが消えるよりも早く、雫君は誰よりも体をぐっと低く落とした。


「いろッ――」


 ダン、と重量のある物の落下音が鳴る。おそらく今のを目で追えたのはボクだけだ。スタートと同時に仕掛けるだろうと考えていたのはどうやら間違いではなかったらしい。……わかっていてもボクでは止められないですが。


「……は?」
「えっ、今のボールが落ちた音? シュート……されたの?」


 瞬きを繰り返す小金井先輩の横を雫君は小走りで通り抜けてディフェンスへ戻っていく。
 彼をマークしていた先輩二人を抜いた一瞬、とても善人には見えない笑みが浮かんだのをはたしてボク以外の誰かが目にすることはできたのだろうか。


「やってくれたな、色無」
「あはは……お先に失礼しました」


 雫君は困ったように笑った。
 しかし先輩たちの反撃が始まった途端、彼はまたすぐに背中を深く折り曲げた。指先がトン、と床に一度触れるまで身を屈めてからやや体を起こし、押し出すように助走なしに一気に走りだす。
 脇目も振らず一直線にボールへと向かう姿は獲物を見つけた肉食獣のようで、それは見る者にこちらが食物連鎖の下層にいるような気にさせる。
 きちんと止まれるのかも怪しい、コートの中にいるとは思えない勢いで向かってこられると怯んでしまうのは仕方のないことで。
 雫君は伊月先輩の手にあったボールを、以前ボクが海常高校との練習試合の開始直後に仕掛けたスティールとは比べものにならないほど荒々しく、横から拳槌けんついで思いっきり弾き飛ばした。


「あッ、いっけね」


 ピッ、とカントクのホイッスルが鳴る。ボールがコート外に出てしまったからだ。


「駄目ですね、力加減を間違えちゃいました」


 恥ずかしそうに笑う雫君に、先輩たちは胸を撫で下ろした。
 安堵あんどでボク以外気づいていないようだが、一瞬口調が崩れたのを聞く限り本気で間違えてしまったのだと思う。もしかしたら久しぶりのバスケで舞い上がっているのかもしれない。


「油断も隙もねーな」


 再び二年生ボールで試合が再開する。例の如く駆け寄ってきた雫君に、焦った先輩がパスを出す。しかしタイミングが早い。案の定パスが届く前に方向を変えた雫君によってそれはカットされた。
 もう少し引きつけないと、だなんて見ている側としては思うが、衝突事故でも起こしかねないスピードで迫ってこられるとそれだけで恐ろしいのだ。再び色無雫に点が入った。


「何て言うんだったっけか、アレ」
「アレ?」
「でん、電光……電光掲示板?」


 隣で唸る火神君に「それを言うなら電光石火でしょう」と答える。
 稲妻の光や火打ち石が発する火花のように動作が速いという例えだが、正直火神君の口からそれが出てくるとは思わなかった。……『スゲーはえーな』とかかと思いました。


「あー、それだそれ。体力あるようには見えなかったけどよ、ここまで機動力を重視した選手だったんだな」
「そう見えますか?」
「あ? だってそうだろ? でもプレースタイルはフツーだな。キセキの世代と一緒にいたっつーから黄瀬のコピーだとか緑間のスリーだとかみたいにもっとド派手な何かがあんのかと思ったけど」
「火神君らしい意見ですね」


 ボクがそう言うと、降旗君は「色無らしいなって思うよ、オレは」とコートに目を向けたまま口もとを緩めた。


「ええ、そうね。今のところツーポイントシュートとレイアップシュートが一本ずつ。まだスリーも出てないし、たしかにやってることは基本を突き詰めたものだわ。けれど、だからこそ無駄が無い。たしかにスピードも注目すべき点ではあるけれど、彼のスタイルで一つほかの選手と違うのはあの異様な姿勢の低さ、かしら」


 続けて「まるで稲穂みたいね」とカントクは目を細めた。その目はせわしなくコート内を追っている。なるほど、たしかにそう言われればそう見えなくもない。
 こうべを垂れた植物。それは探せばいくらでも見当たるだろう。
 けれどボクには、否、ボクらにはたった一つ。そう思い続けていたせいなのか、とある花のようにしか見えない。けれどあの頃とは違って真っ黒な頭は、何も知らない者にそれを連想させるのには不十分だ。
 コート上では雫君が先輩二人の檻からスルリと抜け出たところだった。


「誠実な彼の性格がよく表れたスタイルね。ドリブルもシュートも見ていて安心できるわ。極めて優秀な選手って感じがする」


 雫君がこの評価を聞いたら何と言うだろうか。たしかに彼が恐ろしく優秀な人物であることに異論は無い。
「1on1してくんねーかな」とギラギラと目を輝かせて呟いた火神君に「この試合が終わったら頼んでみたらどうですか」と提案すれば、「オウ」と笑みが深められた。


「ああっ、また点が入った! ドライブからのレイバック……あんの姿勢の低さは厄介ねー。二人体勢でマークしてるのに簡単に抜け出されるだなんて……。そろそろ三人に変えたほうがいいかしら」


 カントクは口もとに手を添えて眉を寄せた。しかしすぐに主将キャプテンのスリーポイントシュートによって二年生側に得点が入った。ボールを持った雫君に三人の先輩が貼りついたのを見るに、どうやらコート内でもカントクと同じ決断に至ったらしい。


「でもよ、たしかにスゲーはえーけどあのくらいの速さなら初めに飛ばすくらいできなくはないよな」
「少なくともボクはできませんが。……まあ、でもそうですね。やろうと思えば大抵の優秀な選手ならできるでしょう」


 伊月先輩がシュートを決める。「1点差か……」福田君が得点板をめくった。


「一人で二年生五人相手にこれって凄いことだよな……?」
「……凄いなんてもんじゃないわよ。一人ってことはつまり、バスケにおいてオフェンスでもディフェンスでも重要なパスという行為を丸々捨てているってことになるの。二、三人に貼りつかれている状況でドリブル一つでゲームをするのは相当な技術が必要よ。それに彼のシュートが決まれば自動的にボールは二年生からとなるから、パスが回し放題の二年生のボールをカットするのはかなり難しいわ」


 なぜ彼はキセキの一員とされなかったのだろう。いや、理由はわかっている。単に知名度が低いだけなのだ。
 実力だけでキセキとなれるのなら、辞めた灰崎君だって含まれていい。灰崎君が黄瀬君に敗北したところをボクは見たことがない。
 帝光時代、雫君は誰かと行動を共にすることもなく一人で校内をフラフラとしている時間が圧倒的だったが、誰かといる時、その多くは灰崎君とだった。
 ――「みっともなく傷を舐め合っているのさ」
 灰崎君の体に肘を押し付けてにたにたと笑う彼の顔が脳裏によみがえった。しかしまだ眼鏡を掛けていなくてよく見えたその鋭い眼球には哀色が混じっていて、どうしてか雫君から受けている行為よりもずっと痛がっているように見えた灰崎君も「そーいうこった」と口もとだけで笑っていた。
 その時ボクは友達に対して初めて気持ちの悪さを覚えてしまったのだ。彼らの関係は普通ではない。友達と呼んでいいものではない。そう思った。
 それなのに「いつまでヤってんだテメェ」と雫君を倒すなり彼の足首を掴んでズルズルと廊下を引きずっていった灰崎君と、「おわああ〜」なんて間の抜けた声を上げながら大人しく雑巾のようにされる雫君の馬鹿げた戯れは確かに年頃の友達同士のようで、僕に正解を与えなかったのだ。


「三人相手にボールを取られないためには一瞬たりとも気を抜けないし……ものすごい集中力ね」


 そう言ったカントクの頬に汗が伝った。
 それが熱気にあてられたのか、それとも冷や汗なのか、ボクにはわからない。
 いつの間にかボクの頬にも汗は伝っていた。


(P.60)



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