爪先立ちのバンジージャンプ 1/4
火神くんからマーカーを投げ渡されてから体育館の温度が急激に下がったように感じるのは僕だけだろうか。正確には火神くんに名前を呼ばれてから、だけどぉ。
まっさかこんなにも敵視されているとは思わなかったよねぇ! 真ちゃんが昔話でもしたのかなァ。やぁだやだ、僕は何も危害加えていないしィ。過去に加えられましたって人はいそうだけれど。
「……もう、火神くんってば、そういうことは先に言ってほしかったな」
眉尻を下げつつも「次からは気をつけてね」なんて完璧な笑顔を貼りつけて声を掛ける。それだけで彼らは揃いも揃ってポカンと毒気を抜かれた表情になるのだから、秀徳高校バスケットボール部での色無雫は一体どんな下衆になっているのだろうか。
僕、ほかのすべてを対価にしたのかと思えるほどに容姿だけは最ッ高に恵まれたんだよぉ? それなのに一目惚れどころか顔を合わせた直後に嫌悪感剥き出しの表情をされたら堪ったものじゃないしぃ。自意識過剰なんて言葉は受け付けないよぉ、相応の評価はできているつもりさ。
「で、ええと……僕の顔に何か付いていますか……? 先ほどから――ああ、気のせいだったら申し訳ないんですけど――何か言いたいことでもあるように見えますから」
「……いーや? 一人だけきっちりジャージを着ているのが何でかなーってね。だってオマエ、帝光だろ?」
一歩前に出てきた軽薄そうな男がニィと口端を吊り上げた。しょーごくんとは異なり凶悪面には見えない。しょーごくんのあれはある種才能だ。
「僕は選手じゃない」
「……は?」
「ご挨拶が遅れました。僕は誠凛高校男子バスケットボール部マネージャーの色無雫です」
彼に近づき「よろしくね」と右手を差し出す。「……ヨロシク、色無雫クン」一拍置いてその手を取った彼は
高尾和成と名乗った。身長はどちらのほうが高いだろう。僕のほうが低いかもしれない。交わった視線の位置はほとんど変わらないが、握った手は彼のほうがやや小さかった。
「てか
雪辱戦とか言ってっけどセンパイから何も聞いてねーの?」
「何の事かな」
「誠凛は去年決勝リーグで三大王者すべてにトリプルスコアでズタズタにされたんだぜ?」
彼は僕たちを馬鹿にして言っているわけじゃない。その落ち着いた話しぶりは、あくまでそれらを事実として僕らに突き付けているだけだ。それが余計に残酷であり、また、少しもためらわずに彼はそれを言うものだから、先輩たちは苦虫を噛み潰したような渋い表情を浮かべて口をきつく閉じてしまった。
「息巻くのは勝手だが
彼我の差は圧倒的なのだよ。仮に決勝で当たっても歴史は繰り返されるだけだ」
……いいよぉ、いいよぉ。言ってくれるねェ! キセキって連中は実力もプライドも星付きだ。
ああ、たしかに勝てないものはどうやったって勝てない。それを僕もテツくんも真ちゃんも帝光中学校で嫌というほどに学んだ。圧倒的な実力差の前では永遠に弱者に勝利など巡ってはこないのだ。
けれど、それはあくまで“圧倒的な実力差があった場合”だ。当然のことながら去年とはメンバーが異なる。特に今年はキセキの世代が高校へと進学し、火神くんというダークホースも現れた。
構成員が変わればチームも変わる。強豪校だなんだと言ったところで、チームの名前などただの形に過ぎないからだ。あくまで去年の試合結果は去年の誠凛高校のものであって、それ以上でもそれ以下でもない。同じチームを相手に戦っていると思われるのは心外だ。
「どうやら愚者は経験からしか学べず、賢者は歴史からも学びそもそも失敗というものを
避けるらしい。三大王者と呼ばれる君たちは、王者と称されるだけあって歴史的にも大層強いのだろうね。敗北が失敗であるのなら誠凛高校は歴史、経験、そのどちらから学んだとしても試合を放棄するのが正しいのかもしれない。けれど悲しいかな、両校が勝ち進んだのなら嫌でも当たらなくてはならないんだ。嗚呼、なんて恐ろしいのだろうね。挑むしか道は無いんだってさ」
目の前の男二人に限らず、皆が僕の話を聞き入っている。「お前の語りは不思議な力を持っているね」いつか征くんに言われた言葉が思い起こされた。
誰かを誘惑するにも突き落とすにも、耳を傾けてくれなければ始まらない。どれだけ素晴らしい物語があろうとも、表紙を
捲らないことには、登場人物は一歩として歩くこともできない。
声質か、語調か、それとももっと別の何かだろうか。征くんが僕から感じたそれを僕自身が知れることはないだろうが、誰かがこの五臓六腑に詰まっているどろりとした汚いモノを聞いてくれるというのなら、僕は傲慢に身を任せて語るだけだ。
「何が言いたいのかさっぱりわかんねーんだけど?」
「まあそんなことはどうでもいいんだ」
「オイ……」
「誠凛高校が欲しいものは賢者という肩書きでもなければ、もちろん愚者という肩書きでもない」
「いやだから何が言いたいのか」
「うんうん、何も言わなくていいよ。君たちは誠凛高校の選手じゃなから知らなくて当然だよね。教えてあげよう、あのね、目の前の勝利――誠凛高校はただそれだけをいつも望んでいるんだよ」
高尾くんはすっかりと眉根を寄せてしまった。不機嫌にさせてしまったのかもしれない。しかしそれもすぐに解かれ、再びその顔には作られた軽薄な笑みが乗った。彼はふざけるという行為によって自分を覆うことに慣れた人間なのだろう。
この短い時間でも高尾和成という男が相当に器用だということは十二分に伝わった。そして時に非道にもなれる人間だ。しかし重要な場面で
脆さが出てしまいそうなところは、緑間真太郎という男に初めて出会った時に抱いた印象と重なって見えた。しかし、緑間真太郎に比べてずっと壊しやすそうだと思う。
彼は砕けても上手く継ぎ接いで何ともないように見せるのだろうが、少し意地悪にがりりと歯を立ててやれば簡単に散らばってしまう、そんな危うさがあった。
「ところでさ。歴史にはよく見られる事例なんだけれど……」
高尾くんの前から真ちゃんの前へと移動して、僕よりもずっと高い位置にある頬に手を伸ばす。彼に限って表情筋を働かせすぎているということも無いだろうに、小指から順に触れた彼の頬に柔らかさは無かった。
「――下剋上って、知っているかな?」
真ちゃんは灰吹きから
蛇でも出たかのように驚愕の色でその顔を塗り替えた。
彼から見た僕は勝敗など気にしない、ただ快楽に溺れる痴人にでも見えていた、とかその辺りかもしれない。うーん、自分で言っていて全く間違っていないような気がするぞお。
「あっ、そうでした。カントク」
少し離れた位置にいるカントクに声を掛ける。ベンチから立ち上がり、「どうしたの?」と訊いてきた彼女に「大変申し訳ありませんが」と前置きして要望を口にした。
「用事が入ってしまったので帰宅の許可を頂けませんか」
「へ!? ちょっ、今日まだあと一試合あんのよ!?」
「ええ。午後五時から
白稜高校とですよね。トーナメント表は把握しています」
そんなこと重々承知の上だ、という意味を込めてにっこりと笑えば、カントクは押し黙った。誠凛高校はたかだか五回戦で負けるようなチームではないはずだ。きちんと力を発揮できれば、だけどぉ。
「……わかったわ。でも後でちゃんと聞かせてよね」
「はい、ありがとうございます」
スマートフォンをポケットから取り出し、電話を掛ける。「灰崎……」画面に表示されていた名前を読み上げた真ちゃんの表情は、彼がしょーごくんをどう思っているのかをまるで隠さない苦いものだった。真ちゃんはしょーごくんや僕を軽蔑しているかもしれない。
征くんほどではないが、真ちゃんとも付き合いは長いほうだ。彼は将来、家を継いで医者になるのだろうか。
僕だけが落ちていく。それは時に心を苦しめ、時に心を癒した。もうどうしようもない、色無雫という人間の
性だ。
「真ちゃん、高尾くん、次会うときは試合でね」
呼び出し音を聞きながら、ヒラヒラと軽く手を振って彼らの横を通り過ぎる。「マネージャーに何ができる!」真ちゃんにしては珍しく、荒げた声が背中から刺さった。
勘違いするな、と振り向きそうになったのを寸でのところで制止し、体育館を後にする。
君に影響するような何かなど、何もできなくたっていい。俺は俺のためにこのジャージを
纏い、俺の未来に必要な人間を待っているのだ。
「はろー祥吾」
電話が繋がった。随分と長く待たされてしまったが、この前応答拒否をした仕返しだろうか。待ったところで『はろー、シズク』などと返してくれるわけでもないのだから、「今からお前の所へ行くよ」とすぐに本題へと切り替える。
「はァ? 今オレ女と」
「はァ? はこっちの言葉なんだけどぉ。冗談だろ? お前が恋しがった僕がお前の所に行ってやるって言っているのにぃ? 残念だ、次会えるのは何箇月後になるだろう。じゅらーい、おーがすと、せぷてんばーに、おくと」
「……待っててやる」
「あっは! それでいいんだよォ!」
嫌がらせも含めて、声量を上げてからからと笑う。しょーごくんの言う通り、電話口からは女の声もした。なるほど、女も聞いているな?
「ヘイ、ベイビー! さっさとマミーのもとへ帰りな! 次は僕があやしてあげるからさ!」
「……テメェ、相変わらずイイ性格してんなァ」
しょーごくんに言われたくはない。「ホラ帰れ帰れ」と気だるげな彼の声を最後に、怒りを
露わにしていた女の声は聞こえなくなったのだった。
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