まずは良識の範囲から教えてよ 1/3 


 東奔西走とはまさにこのことだろうか。何といっても部員数が誠凛とは桁違いに多い。その上、日頃マネージャーという役職に触れていないせいか選手の統括が甘く、切れたドリンクを個人で渡してきたりと二度手間な行為も見受けられた。
 ギャラリーに乱雑に干してあったタオルの回収や放られていた使用済みのビブスを洗濯するようなことまで受け持つとは思わなかったが、モップ掛けやトレーニングの補助、記録づけ、テーピングのみならず、誰もが面倒だと言うようなそれらの雑用まで嫌な顔一つ見せずに行う僕は素晴らしいマネージャーだと思う。
 忙しさは誠凛のそれとは比べ物にならないが、練習に比べれば疲労は可愛いものだ。動き回っているうちに熱がこもった長袖のジャージは今は腰で揺れている。


「色無ー! こっちドリンクとタオル頼む!」


 晴れた日くらいギャラリーじゃなく外で干しなよねぇ、なんて思いながら洗濯機から引き上げたビブスを太陽のもとで干していると聞こえた体育館内からの僕を呼ぶ声に、すぐに返事をして作業を中断する。僕もすっかり馴染んだものだねェ、と笑い半分呆れ半分。
 部員たちに呼び掛けて空になった一リットルサイズのスクイズボトルを籠に回収し、部室から必要数分のスポーツドリンクの粉末の小袋を取って足早に水道へ向かう。
 練習に励む声やバスケットボールが打ちつけられる音を聞きながらスクイズボトルを洗浄し、それぞれに一リットル用の小袋をそっくり流し入れて近くに設置されていた冷水器の水を辛抱強く注いでいると、隣に誰かが立った。


「すみません、すぐにどきますので」
「いや、スゲー頑張ってくれてっから様子を見に来ただけだ」


 注ぎ終えたものは数度振って粉末を溶かし、洗浄した際に表面に付着した水滴を籠の縁に掛けていたタオルで拭ってから籠に戻していく。涼ちゃんを剥がしてくれた先輩の声だった。「選手の方々が頑張っているのにマネージャーが頑張らないわけにはいきませんから」と同じ作業を繰り返しながら答える。手もとから目は離さずとも顔には人好きのする笑顔を貼り付けた。


「誠凛はこんな働き者のマネージャーがいるなんて羨ましい限りだ、マジな話。うちはマネージャーとかそういうのとらないから今まで全部個人だったしな」


 好きでやっているわけじゃないんだけどねェ……。流れる水をぼんやりと眺めながら考える。「ヘトヘトなときに自分の水筒を切らしたらドリンク作るのも面倒でただの水道水だ」なんて言う彼に「大変ですね」と苦笑した。


「けれど汗を流しているんですから、面倒でもスポーツドリンクできちんと栄養を補給しないといけませんよ。ただの水より補給効率も良いですし」
「……次から気をつける。誠凛の助けを借りてってのが少し皮肉だが練習に集中できてありがてぇ」
「それはよかったです」


 これで最後かな、と空のスクイズボトルが無いことを確認しながら冷水を注いでいると、不意に「色無っち」と背中から別の声が掛かった。「どうかしたの」振り向かずに答える。口に出してから、語末の上がりが常よりも薄いように感じられた。


「髪、染めたんスね」


 後頚部に涼ちゃんの手が当たる。伸ばした襟足の髪がすくわれて柔らかなくすぐったさが訪れた。ほかの人がいるこの場で話すつもりなの、涼ちゃん?


「うん、似合わないかな……?」
「似合ってるっスよ、凄く。オレ驚いちゃった。黒なんて絶対似合わないと思ってたのに。……でもオレらからしたら違和感は拭えないかな」
「それは残念」


 肩を小さくすくめて、最後のスクイズボトルを籠に入れる。黒のほうが誠実そうに見えると思ったんだけどなぁ、なんてことは口に出さないで、彼へと向き直った。先まで話していた先輩が僕を見て状況を掴めていないような表情を浮かべていた。


「何でそんなに変わったんスか」


 光にかざした琥珀アンバーのような目がじっと僕を見る。太陽が雲に隠されてちぐはぐな三者の立つ廊下が薄暗くなろうとも、その飴色の瞳は鋭さを欠かなかった。


「質問の意味がよくわからないんだけど……?」


 涼ちゃんは僕が素直に相談事の一つでも持ち掛けると思ったのだろうか。それとも僕の気持ちなんてどうでもよくてただ自分が知りたいだけ? あっは! どちらにせよ僕は随分と舐められたものだねェ。前者なんて特に最悪だ。


「いつかちゃんと聞かせてね! 色無っち」


 口もとに形のいい微笑を浮かべた涼ちゃんに、つっと目を細める。その作られたモデルとしての笑顔は僕を辟易へきえきさせるのに十分だった。隠すことなく怪訝けげんな表情をしたものの、すぐに気持ちを切り替えて柔らかく微笑む。


「僕はもう行くね」


 否定も肯定もせずドリンクが詰められた籠を持ち上げて、二人の間を通り抜ける。もっと追及してくるかと思えばころりと変わったあの綺麗な笑顔が頭の中にこびりついて警告を出していた。緩めた口もとに合うように機械的に細められていたあの目に嫌な予感を捨てきれず足を止める。


「――ねえ」


 口を開くと、涼ちゃんが不思議そうに僕の名前を呼んだ。やっぱり何でもない、と口から出そうになって一度口を閉ざす。少し悩んだ後で振り返った。


「その人さァ、主将キャプテンなんでしょォ?」


 ちらりと先まで僕を評価してくれていた先輩へ視線を向ける。「笠松って呼ばれていたよねぇ」と言えば、急に話し方を変えたせいか、彼は短い驚きの言葉を漏らして胸を突かれたような驚愕の表情を見せた。
 こんな真面目で献身的な、世間一般に優等生と言われるような奴が口を開けば粘っこい喋り方だなんて、僕でも驚くと思うよぉ?


「いいよ。言えばいい。言えばいいんだ」


 そう言うと涼ちゃんは笠松さんと同じような顔をした。続けて「ただしその人だけにね」と付け加えると、やっぱり話す気でいたらしい、素直に「わかったっス」と頷いた。
 最初に自分から不利になることを提示しておくことで、その後に出される条件はろくに考えもせず飲み込んでもらいやすくなる。正直な涼ちゃんのことだ。きっと彼以外には話さないだろう。


「……でも急にどうしてっスか?」


 不思議そうに「さっきまで隠す気満々だったのに」と言った涼ちゃんに、お前が広めてしまいそうだったからなんだけど、なんて思ったものの、それは心の内に留めておく。代わりに「このまま涼ちゃん一人に抱えさせるのは可哀想ってものかもしれないしィ?」と言えば、「ありがとう色無っち〜!」と犬みたいにわかりやすく喜んだ。やりやすいなぁとか思っていないよォ、決して。


「じゃあねぇ、涼ちゃん」


 今度こそ二人と別れて、悪い予感が消え去った脳内で干し途中のビブスのことを考えながら蒸し暑い体育館内に入る。
 二人が体育館に戻ってきたのはそれから十五分後のことだった。


(P.16)



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