せめて楽しいふりをしよう 1/2 


 午後の部も中盤を過ぎようとしている。いまだ頭上でギラギラと輝く太陽を鬱陶しく感じながら細めた目を競技得点の掲示板に向けると、ほかの三級団からは大きく離されてしまっていた。
 しかし首の皮一枚繋がっているのは女子種目の棒引きで一位の座に着けたからだろう。普段僕たちに見せるものとはまるで違う鋭い目つきは火花の一つでも散らしそうで、親のかたきでも眼前に立っているのではないかと思わせた。
 血が流れても怯むことなく戦争さながらに竹を奪い合うさまは、情けなく騎馬を崩していた男たちよりもはるかに立派だったと間違いなく言えるはずだ。
 男子種目の騎馬戦において少し不憫ふびんだったのは葵くんだろうか。彼は運動は苦手だと繰り返していたにもかかわらず、身長が一六七センチメートル――テツくんよりも一センチメートル低い――という少し小柄な体格のせいであれよあれよと騎手役になってしまっていた。多くの味方の騎馬が自滅していくなかで小柄な彼の騎馬が崩れることはなかったが、崩れなかったからこそ、隊が減った戦場では追いかけ回される羽目になっていたのだ。
 葵くんを勝手におとりとして、彼を狙う騎馬に回り込んで盗っていく方法はそれなりにハチマキも集まったが、やはり騎馬数の差は大きく、結局三位という結果になってしまった。彼に関してはトラウマになっていないことを願っておこう。


「本当にそれでいいのか?」


 もう何度目か、訊いてきた葵くんに「それがいいんだよ」と返す。これから行われる玉入れについて、対戦前に設けられる十分間のチームミーティングで僕が提案した作戦はそんなに皆を不安にさせるものだろうか。たしかに一発勝負なところはあるけれど、時間さえ気にかけていれば一番の安全策だと思う。
 この学校の玉入れは一風変わっていて、全級団一斉であることや高くに位置する籠にてのひらほどの玉を入れるところまでは同じだが、なんと他級団を妨害することができる。もちろん選手への直接の妨害行為は禁止だ。しかし逆に言えば選手を妨害対象とさえしなければ。それは審判役の教師にも確認済みだ。


「オッケー。信じる」


 葵くんの返答を聞きつつ、イヤープロテクターを装着したスターターがスターティングピストルを持つ右腕を空へと向けるのを視界に収める。続いて地面に散らばった無数の玉へと視線を移し、身をわずかに低くする。
 パパン。双発式のスターティングピストルの音が少しの静寂の後でグラウンドの土煙を貫いた。


「――サァ者共! かかれい!!」
「なッ……曲者くせものじゃ、出会え出会えー!!」


 巨人に指先で弾かれたようにチームメイトたちが他級団の陣地へと飛び込んでいった。始まって数秒にもかかわらずフィールドが混乱状態へと陥る。僕の声に乗るように返してきたのは日向先輩で、流石さすがと言うべきか対処が早い。
 しかし相撲部やアメリカンフットボール部、レスリング部の先輩たちを中心とした軍が一気に攻め込んでくるのはさぞ恐ろしいものだろう。僕としては闘牛を檻から放してやった気分だ。
 力に自信がある者は早速玉が入り始めていた籠を倒し、足が速い者たちは玉を奪って総数を減らしていく――級団Tシャツを騎馬戦の時のように脱ぎながら自陣から眺めた敵陣地はまさに阿鼻叫喚あびきょうかんだった。
 どの級団も守備に精一杯で、僕たちの陣地だけが過疎状態にある。数人くらいは気づいていそうだが、それでも僕たちの所へ責めてこないのは、残っているたった三人――僕と、葵くんと、風峰ちゃん――が玉を入れようとしていないからだろう。


「壮観壮観」
「だ、大丈夫でしょうか……」
「悪質なプレーはしていないさ。ルールに則っているよ」
「そろそろオレらも行動しないと駄目なんじゃ?」
「そうだね。はい、葵くん」


 脱いだTシャツを葵くんに投げ渡す。彼は「なるべくしわにならないようにする」と、僕から受け取ったそれの襟や袖口をハチマキで手際よく結びだした。出場者が故意にハチマキを外すことはルール違反であるからして、応援席の者から借りたものだ。
 玉入れのくせしてどの級団も得点はいまだゼロという素晴らしい出来で試合は進んでいる。「あめーじーんぐ」暇を持て余して、本来の発音とは程遠いのっぺりとした感嘆と共に数度拍手を送った。
 視界の隅では風峰ちゃんがジャン=フランソワ・ミレーの《Des glaneuses落穂拾い》のようにせっせと玉を拾って葵くんのもとへと集めている。
 僕も加わろうかと腰を折ると、「大、丈夫、です……! 色無君は力を温存してください!」と少し息が切れた風峰ちゃんが常よりも力の込もった声を出した。
 意見などできない子だと思っていたけれど――なんて少し見直しながら、与えられた暇を謳歌しようと応援席へと目を向ける。
 さらした上半身を焼く太陽の光は痛い。ハチマキだけでなくTシャツも応援席の誰かから借りたかったものの、砂が付くかもしれないのにそれは流石さすがに悪いだろうと結局言い出しっぺの責任という形で自分の物を使うことにしたが、やはり誰かから借りればよかったかもしれない。
 少しだけ後悔していると、最前列で見慣れたクラスメイト二人が海上で救助を求める者のように大きく手を降っているのが目に入った。応援されるというのはなかなか新鮮だ。
 どう反応するべきか悩んだものの、不慣れからか軽く手を振って「おー」「え」「ん」「し」「て」「て」なんてリップシンクをすることしかできなかった。
 彼女たちの視力がどれほどのものなのかなんて知らないから読み取れたかは怪しいところだが、それでも応えたことに喜ぶ様子が遠目でもはっきりとわかったのだから良しとしよう。
 ああ、こういう時に涼ちゃんの真似をすればいいんだ。そう気づいた時には、風峰ちゃんととっくに完成して玉集めに加わっていた葵くんの二人は玉をすべて集め終わって僕の肩を叩いていた。


「ほい、お手玉集まったぞ」
「お手玉……?」
「……うん?」
「……ビーンバッグ……のこと? けれど音的に中に入っているのは豆でも穀物でもなくてプラスチックペレットかな」
「ビーンバッグって……ジャグリングじゃねーんだから……。いや、まあお手玉はジャグリングだけど今はそういう……じゃなくて! 色無お前、お手玉を知らないとか言うなよ……!?」
「ご、ごめん、知らない……そんな名称が付いていたんだね」


 謝りながら彼の手から大きな玉一つを受けとる。彼らに作ってもらっていたのはTシャツを袋代わりにして玉を詰め込んだ、バスケットボールほどの物だ。


「隙間なく上手に埋めてくれたんだね。コントロールが利きやすそうだ」


 何度か小さく放って手に馴染ませながら「残り三十秒です」というアナウンスを耳に入れる。クラスメイトだからという理由ではなく運動が苦手だとミーティングで堂々と宣言した二人を僕側に残したが、葵くんは持ち前の器用さで玉を作ってくれたし、風峰ちゃんは少し抜けていて不器用なところはあるが、だからこそ単純作業に強い。
 チームプレーというものは、どれだけ各個人の得意分野を発揮できるかだ。苦手なことは、それを得意とする誰かにやらせればいい。個人プレーをしない限り、万能になる必要など無い。


「色無の作戦勝ちだな」
「あはは、まだ入れていないよ」
「でも、入るんですよね……?」
「もちろん。さっき柿原ちゃんとちひろちゃんが応援してくれたからね、尚更外すわけにはいかないな。僕たちの圧勝さ」


 残り十秒を知らせるアナウンスが入った。「行きます」といたって普通の声量で宣言して、慎重に籠へと狙いを定める。こんなに丁寧に狙ってやるなど、バスケットボールの試合でもなかなかない。
 バスケットボールよりも放った後の持ち上がりが悪いことなど始めからわかっている。外す気がしないな、なんて思いながら放ったそれは浅い軌道を描いて危なげもなく籠の中へと吸い込まれていった。


「ブザービーターのほうが格好良かったかな」


 振り返って肩をすくめる。その先にいた葵くんは「いや、今の色無十分格好いいから」と苦笑を漏らした。
 風峰ちゃんも何かを言おうとしたのか口を開いたものの、時間切れを告げるスターティングピストルの音に肩を跳ねさせて口を閉ざしてしまった。顔の赤さはTシャツの赤色が反射しているということにしておこう。


「騎馬戦の時と違って一人だけ半裸だと目立つなあ」
「あはは、改めてそう言われると恥ずかしくなるんだけどな。葵くんってばエロいなあ」
「んなッ……!?」


 玉の集計の声を聞きながら小声で言葉を交わす。他級団は数える玉など一つも無いのだから、どこの勝利かなど一目瞭然だ。


「ね、風峰ちゃん。君も葵くんがえっちだと思わな――……ちょっと、どうしてそんな遠くにいるの」


 しゃがんだまま一歩近づこうとすれば、「ひぃっ」と小さく悲鳴が上がった。顔とTシャツの境がわからなくなりそうなほどに顔が茹だっている。今までは貢献することに必死で意識していなかった、とかその辺だろう。純情は本当に生きにくそうだ。
 最後の一つが天高く放られると、歓声が爆発した。そわそわとしていた者たちが、都会の狭い空を突き破る勢いで一気に立ち上がる。「君もやァらし」それに紛れて近寄った彼女の耳もとでたっぷりと息をはらませて囁けば、彼女はあっさりと目を回してしまった。
 彼女を支えた葵くんの「おーい、担架ぁ〜」なんて面倒臭そうに間延びした声と、同時にじっとりと呆れ混じりに僕を見る目に笑いを誘われる。我慢することもなく肩を小刻みに震わせて笑っ「現行犯で逮捕する」なんてこったい、彼の言葉が僕を娑婆しゃばの日常から弾き出した。

 
冤罪えんざいです! あなたには聞こえていなかったはずなのに! 抗議抗議! 僕は抗議します!」
「あー、何言ってんのかわかんねー」
This is an unwarranted arrest!不当逮捕だ! What in the world have I done?一体俺が何をしたって? First of all you should hear her opinion.お前はまず彼女の話を聞くんだな
「言語を変えりゃいいってもんじゃないしさっぱりわからない」
Oh gosh...ああもう…… Typical dog!これだから警察ってヤツは! I can't make myself like you.お前たちとは仲良くなれる気がしねェよ


 口では慨嘆しながらも、へらへらと警察ごっこに戯れる。僕もこの前「きゃー、雫クンのえっちー」なんて下手な裏声で言われたばかりなのだ、まさか目を回すとは思わなかったが、これくらいはいいだろう。……まァ、悪くても構わないけどぉ。
 余談だが、警察が好きになれないのは事実だ。母親が宝飾店を営んでいるとなれば、顧客の中には当然のように徒党の破落戸ならずものだって見える。彼らは腕時計や女、車、まァ簡単に言うなれば自らの外側の価値を高めるモノを愛するのだ。
 そして一番の防犯はそういった無頼の者を味方につけることのほかに無い。この国に限らず彼らはしばしば高級車や美術品を盗むが、「白波しらなみに攫われぬためには白波しらなみが向かう場所に立っていなければいいのよ」と母は話していた。狙われる対象にならないことが最大の防犯だということだろう。
 過去には強盗が入ったこともあったが、わざわざほかではなく母の店を選ぶのは地下を渡世とせいした経験の無い、金欲しさの空者うつけものに限る。


「さ、応援席へ戻ろうか」
「はぁ……」
「ほらほら、どこに背の丸い英雄がいるというんだい。英雄の帰還なんだ、しゃんと胸を張りたまえよ葵くん」
「色無って人に振り回されるタイプだと思ってたけど、その分きっちり人を振り回す奴だよな……」


 優等生は人を振り回してはいけないのかい、そんなことを思いながら応援席へと足を向ける。疲労困憊こんぱいといった様子の彼にくすくすと笑いながら戻った席では、案の定素晴らしくもてはやされた。「みんなのお陰だよ」という定型文を繰り返し唇に乗せる。


「ていうか色無、何その格好!」
「僕、葵くんに逮捕されちゃったみたいでさ」


 ハチマキで厳重に縛られた手は自由が利かない。噛み千切りでもしたらすぐにこの両手はまた自由を取り戻せるだろうが、誰かのものであるこのハチマキをどうこうするわけにはいかずに被疑者という立場を甘受している。


「ええ? 一体全体何したんだ?」
「僕が風峰ちゃんに近寄ったタイミングで彼女が目を回しちゃったのを彼は誤解しているんだ。この暑さのなかで彼女は素晴らしい活躍をしてくれたから、きっとそれに体が耐えきれなかったのさ。後で保健委員に様子を見に行ってもらえるよう頼んでおかなくちゃ」
「そりゃお疲れ!」


 喉の奥を見せて笑うクラスメイトに手錠という名のハチマキを外してもらって、娑婆しゃばの空気を取り戻す。それは初夏の香りがした。
 日焼けに失敗したようにも見える薄ら赤くなった手首から葵くんへと視線を移すと、彼はいまだ収まることのない称賛の声に少しくすぐったそうにしていた。彼の頬も同じような色が付いている。
 称賛されるのは得意じゃない。その後には大概嫌な事が大口を開けて待っているからだ。
 そうだ。あの時称賛されるようなことさえしていなければ僕は帝光中学校の生徒にならずに済――いや、それは責任転嫁もいいところだよねェ……。
 悪いのは僕を捨てた彼で、違う、ごみになるような僕で、けれど、けれど帝光さえ引き抜きに来なければ僕はあの学校で


「色無!」
「……どうしたの?」
「どうしたの、って……。女子の棒引きを応援してる時も一回あったけど、やっぱ熱中症じゃないか? 風峰と一緒に休んでくれば?」
「大丈夫だよ。君に心配してもらうようなことは何も無い」
「ならいいけど……。無理は禁物な」


 葵くんの茶色い瞳が真っ直ぐ僕を映す。「……少し顔を洗ってくるよ」僕のように目が怖いと言われたことなど一度も無いような落ち着いたその色は、しかしぼんやりとした鬼胎きたいを確かに僕に抱かせて、普段ならば『肝に銘じておくよ』なんて簡単に返せただろうに、それが口から出てくることはない。
 上辺ではなく本気で心配してくれる者は今までだって多くいた。両親だって、ハウスメイドだって、征くんだって、にじむー先輩だって、僕が一言『調子が悪い』なんて言えば優先して身を案じてくれたし、十分すぎるほどに休息を与えてくれた。
 彼はその者たちと同様、純粋に身を案じただけで僕を怯ませる気など皆無だったに違いない。想定すらしていなかっただろう。
 僕を震わせたのは、その安定した瞳を通して視た、彼が僕に対して言葉を鋭い刃へと変える未来だった。
 どんな言葉で斬りつけられようとも、きっとそれは僕自身が仕組んだことであるからしてきっと受け入れられるだろう。しかしきっと言った彼は、否、言わされた彼は一生をかけて酷い後悔をし、それこそ腐った泥が五臓ごぞう六腑ろっぷに流し込まれたような美しくない絶望にさいなまれるのだ。
 彼は決して自ら首をくくるような人間ではない。それは彼にとって守らなければいけない者たち――会ったことはないが、彼は度々弟や妹の話をする。どうやら下に四人いるらしく、話を聞いただけで大切にしているということが嫌というほどに伝わってくる。一人っ子の僕にとって、その感覚は理解しがたい――がいるからだ。
 しかし近い未来までにまた人殺しになる覚悟はしておく必要があるだろう。人殺しの定義など知らない。生命活動を絶たせることだけが人殺しではないと唱える者が一人でもいる限り、僕はその覚悟を持つ必要がある。
 言ってしまえば、人間は誰かと触れあう限り誰もがその覚悟をしなくてはならない。しかしそれを忘れて生きるのが楽しさというものだろう。楽で楽しいのだ。楽と楽しさは明確に異なるものだが、忘れるという行為においてはしばしば似た存在と化す。


「……参ったな」


 一体どれくらいの時間が経っただろう。水が髪から絶え間なくしたたり落ちる。しばらくの間日陰で水を頭から被ったからか、体内にこもっていた熱の多くはすっかり逃げていた。
 誰に向けて発したわけでもないその言葉は、しかし「タオルを忘れたから? それともTシャツ?」と、よく聞いた声によって拾われた。
 そういえばタオルを持ってきていなかった、なんて彼女の言葉でようやく気がつく。説明が億劫おっくうで「そう」と返せば、彼女は「意外と抜けてるとこあるんだ」と片手でタオルを僕の首へと掛けた。彼女のもう片手には丁寧に畳まれた僕のTシャツがある。


「ありがとう、ちひろちゃん。……それで、君はどうしてここに?」
「次の次がリレーだからさ、そろそろ呼びに行くべきかーって眞井君が悩んでたの。だから私が来ちゃった」


 何が「だから」なのかはわからないが、「そうだったんだね。助かるよ」と当たり障りの無い返事をして、タオルを頭から被る。そのまま普段通りに拭こうとしたものの、先ほどの葵くんとはまた異なる真っ直ぐな瞳が僕を貫いて、手を動かすことを許さない。
 一体何がしたいわけぇ? なんて疑問に思って数秒。なるほど、と彼女の視線の意味に納得する。そういえば、この髪に仕上げてくれたのは彼女だった。
「何てったって今日は体育祭ですから!」そう言ってヘアスプレーまでしてくれた彼女を前にして、それを乱すのは失礼というものだろう。どうしたものか、と困った末に出た言葉は「拭いてくれる?」なんてハウスメイドにもめったに言うことはない頼みだった。


「いいの?」
「頼んでいるのは僕だよ」
「じゃあ失礼して……」


 コンクリートの段差に腰掛けて、彼女のタオル越しの手を受け入れる。擦らず、水分を吸収させていくように押し当てていく慎重なその手に、薄ぼんやりとした将来への不安が眠気とともに僕の心にぼうっと灯って、それは欠伸あくびを招いた。
 

「眠たい?」
「少し……」
「太陽の光って、浴びているだけでなんか体力吸われちゃうよね」
「とんだ大悪党さ」


 まァ、寝不足であることもこの睡魔の原因の一つだろう。日本なんて飛び出してとっとと飛び級で卒業してしまったほうが時間に余裕も生まれるだろうか。


「今ならいろいろ訊き出せるのでは?」
「心の声」
「……意外と謎が多いんだもん」
「僕から見たら君も、柿原ちゃんも、葵くんも、風峰ちゃんだってまるでわからないさ。好きな食べ物も、お気に入りの音楽も、好きになれない芸能人も。大なり小なりみんな何かしら誰かから傷を負って、誰かに傷を負わせているだろうに、それらは語られる機会がない限り……いや……語られたとしても完全にはわからないか……」


 僕たちは機械ではないのだ。文字列で構成された存在ではない。どんなに幼くとも、誰しもが自らの思考を地図として道を歩んでゆく。言いなりになっている者だって、言いなりになるという自らの選択がそこには存在している。


「一つだけ……」
「うん?」
「一つだけなら答えるよ」
「いいの!?」


 弾んだその声は、見ていなくとも彼女の表情が喜色にあふれていることを伝えてきた。
 僕の「タオルとTシャツのお礼だよ」という言葉はもうすっかり彼女の耳には届いていないのか、くぐもった声を出して質問を絞る彼女を、目を閉じて待つ。


「……決まった!」
「ああ、どうぞ」
「苦手なものは何ですか?」
「どうしてそれを選んだんだい? 質問なんてほかに山ほどあっただろうに」


 悩んでいた割には無難な質問だ。間違いなくいい質問だとは思うが、彼女ならきっと斜め上に投げてくると予想していた僕にとってそれは拍子抜けさせるものだった。


「相手の苦手を知るのは核に近づくことだと思う」


 その通りだ。僕からしたら嫌な質問だ。しかし同意は伝えぬまままぶたを持ち上げた。


「答えられない質問だったら変えるからね」
「大丈夫、答えるよ」


 しばらく目を閉じていたからか、景色はいやに明るく映った。遠くの応援の声は祭囃子のようで、楽しげなそれは僕をからかっているように感じた。


「狭い所が苦手なんだ」
「……閉所恐怖症?」
「そう、なのかな」


 曖昧な返答になってしまったが、きっとそうなのだろう。朝噛み切ってしまった下唇が鋭く痛んで脳を覚醒させた。


「閉所恐怖症の人って満員電車が怖いって聞いたことあるけど、どう?」
「特に意識したことはなかったよ」
「どんなのがつらいとか訊いても平気……?」
「うーん……エレベーターはけたいかな。もちろん使うけれど」
「使うんだ……」
「使うよ。高所恐怖症の人がエスカレーターや階段を苦手とするように、僕はエレベーターを苦手としているだけだ。余計な階で停まりやがった日には洋紙のように青めているかもしれないね」
「停まり……やがった……」


 とはいえ、それくらいでパニックにはならない。もし不具合で閉じ込められでもしたら冗談抜きで過呼吸にでも簡単になるだろうが。
 人形はしばしば硝子がらすのショーケースに飾られるが、それらを見るとぞくりとすることがある。物なら大丈夫だが、人形は自分が閉じ込められているような気分になってしまうのだ。高所恐怖症の者がテレビや写真で高所からの景色を見て冷えるのとおそらく同じようなものだろう。


「テレフォンボックスとか駄目?」
「ああ……テレフォンブースのことかな。エレベーター以上に嫌だね。外から見ているだけでも気分が悪いんだから。使う機会が無いことを祈るよ」


 テレフォンブースなど、それこそショーケースの中の人形のようだ。大雨に襲われたとき近くにそれがあったとしても、雨宿りにだって絶対に使いたくない。


「はい! あらかた乾いたよ!」
「ありがとう。……ん、時間的にもちょうどいいみたいだよ」


 タイミング良く入った学年リレーの整列が始まるアナウンスメントに、口角を上げて彼女と目を合わせる。「えっ、私流石さすが……」先ほどの彼女はどこへやら、すっかりいつも通りだ。
 Tシャツを着て、ハチマキを締め直す。「行こうか」と手を引いて駆け出せば、他人ひとに手を引かれてばかりだった僕の胸に新鮮な空気が流れ込んで、乾ききっていない髪に当たる風も、さらにその清涼感を後押ししたのだった。


(P.44)



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