どうせ悲しい人の世ならば 1/4 


 フォークの先端、どろりとチーズがはみ出したモンティクリストの最後の一切れを口に運ぶ。黄金こがね色のそれは、サクリとした軽い食感の後でふわりと柔らかい。別皿の温野菜とフルーツもすっかり食べ切って、皿の上に残るのはフルーツのヘタや皮のみとなった。
 ニュースはメキシコで六十名以上の死者を出し、アメリカやカナダ、イギリスでも感染が確認された新型の豚インフルエンザの話題で持ちきりだ。日本にやってくるのも時間の問題だろう。現在はパンデミック警戒レベルフェーズ4――新型インフルエンザは発生したものの、感染集団が小さく限られている状態――で止まっているが、WHO世界保健機関は今日明日あすにでもフェーズ5――感染の大きな集団が見られ、大流行パンデミック発生のリスクが高まった状態――に引き上げるに違いない。
 仕事ですでに家を空けている両親の席をぼんやりと眺めながらナイフとフォークを皿の上に置いて代わりにマグを手に取れば、口に含む前からコーヒーの苦い香りが鼻先をかすめ、しかしそれを楽しむ前に胃の中へと流し込む。薄すぎるとも感じてしまうこの味は、鈍い赤と白のイメージが強いドーナツチェーン店のものだろう。
 なるほど、モンティクリストといい、その社のコーヒーといい、今日の朝食はカナダで揃えたらしい。
 実際はドーナツのチェーン店だが、カナダではドーナツを含めここのコーヒーは日常に不可欠とも言えるほど国民に広く愛されている。それこそ、マジバーガーも相手にならないほどに。
 でも日本には出店していなかったと思うんだけどなァ、なんて数秒ほど頭を悩ませたものの、たしか土産みやげ品として豆は売っていたはずだと思い当たった。
 ああ、母さんも父さんも海の外に知り合いが多いから、きっと日本に来たカナダの知り合いにでもその缶を頂戴したのかもねぇ。現地でそのコーヒーを飲んだ日本人がわざわざ土産みやげにそれを選ぶとは考えづらいしぃ。
 けれど、それならなおさらもう少し濃く入れてくれてもいいと思う。わざわざ店の通りにする必要は無いのにぃ。慣れれば美味しいのかもしれないけれど、やはり薄くてあまり好みの味じゃない。
 どうせここのコーヒーを飲むのならダブル・ダブル――コーヒーに砂糖二杯・クリーム二杯が入っているものを指す、その社から生まれた俗語。直接確認したことはないが、今ではカナダの辞典にも載っているらしい――にしてほしかった、なんてわがままな欲求が生まれるも、あのステーキを食べてからまだ三日しか経っていない。キャラメル色になるほど甘ったるくなったそれなら多少は薄さも誤魔化せるが、きっと制限を気遣ってくれたのだろうと大人しく文句と共に最後まで飲み切った。
 頭の中で今日の予定を組み立てながら起床後二度目の歯磨きを済ませて衣服が並ぶ部屋へと向かう。今日なに着て生きていこう、なんて某レディースファッションブランドのような言葉を思い浮かべながら最後に取ったのはカーキのブルゾンだった。
 優等生というイメージにぴったりと当てはまるような格好にするべきか悩んだものの、眼鏡を掛けずにベースボールキャップの一つでも被れば誠凛高校の知り合いに会っても他人の空似程度で済むはずだ。


「ちょっと物足りないかなァ……?」


 自室の椅子に座り、鏡の前で睨めっこをする。切っていない方のサイドの髪だけでも色を変えようか、と最初にワックスを馴染ませ、次に桃色のヘアカラーワックスを手に取った。一日だけ染髪できるそれはとても便利だ。
 っと、忘れていた。もうすでに髪色は変えてしまったが、多分物足りなかったのはこっちのせいだろう。一人勝手に納得して、入学してからというものの付ける機会が無くなっていた貰い物のピアスを耳に通す。その重みと顔を動かせばゆらゆらと揺れるその感覚がとても久々なものに感じられて、緩やかに気分は上昇した。
 すべての支度を済ませ、財布とスマートフォンとICカードだけを手に自室をあとにする。朝食の皿を洗おうとダイニングルームを覗くとすでに皿は下げられていた。『美味しかった』と、あるいは『ありがとう』とでもクックやハウスメイドへと書き置きの一つでも残していればよかっただろうか。
 というか、朝食が出てきた時点で驚いたけれど、祝日なんだから住み込みの者にも通いの者にも等しく休みは与えられているはずだよねぇ? それなのに働かせるなんて、流石さすがの僕でも罪悪感は湧くしぃ。
 食べ終わった後すぐに洗っていればよかった、と小さな後悔をしていると、前触れもなくチャイムが鳴った。もちろんチャイムとは前触れが無いものではあるが、今日客人を呼ぶことなど少しも聞いていなかったのだ。仮に伝え忘れがあったとしても、人を招いているのなら親のどちらかは家に残っているはずで、招かれざる客などと口走っても失礼だと叱られはしないだろう。
 ひとまず客の把握をするためにインターカムのモニターを確認する。どんな不躾ぶしつけなお客様だろうと映像を見れば、門の前にいたのはつい先日見たばかりの金髪と毎日目にする水色の髪だった。


「……おい、何していやがる」
「あー! 色無っち! よかった、まだ家出てなかった!」
「早めに来てよかったですね。雫君、おはようございます」


 右下のデジタル時計に目を向ける。午前十時まであと十五分といったところだった。黙った僕を不思議に思ったのか、「色無っち?」「雫君?」「こっち向かってるんスかね?」「でも接続はされたままっぽいですよ。切れていません」なんて門前の二人は会話を始めた。
 狭量きょうりょうだ。そうわかっていても、上昇した気分が一気に地面に叩き落とされたような感覚は僕の機嫌を悪くするのに十分すぎるものだった。両親がいない日だったからまだ良かったものの。


「……何をしているのかと訊いているのを忘れていないか? そもそも、僕が家に来られるのを好かないこと、君たちならとうに知っていると思っていた。質問されたことも気づけないような君たちの脳を勝手に高く買っていて悪かったな。嗚呼、悲しい! これは僕の大変な落ち度だ。僕はどこから学び直せばいいだろう? 相談に乗ってくれるというならケーキの一切れや二切れくらいは出すさ。門を開けようか?」


 口を嫌味に動かしている間に迫っていた靴音がすぐそばでピタリと止む。振り向くと案の定ハウスメイドで、しかしすでに応答している僕を見た彼女は一度頭を下げて距離をとった。飾り気の無い黒いロングドレスを着て白いエプロンをつけていた彼女に呆れがにじむ。やはり仕事をする気だったらしい。
 ポケットに入れていたスマートフォンを取り出して今日は休暇であることを打ち込んで伝えると、渋るように眉尻が下がった。追加の手当てが欲しいのかと尋ねても首を振って否定されて、彼女が働く意味が全くわからなくなる。
 暇潰しならもっとマシなことがあるだろう。書斎に行けばさまざまな本があるし、音楽に興味があるならレコードでもCDでも、あるいは僕の部屋のオルゴールでも好きにかければいい。両親も僕もいないのだから、こっそりと楽器を触ったり、同僚同士我が物顔で客間で茶会を開いてスリルを味わってもいい。もちろん、こんな息の詰まる家から出て街へ繰り出すのも一つの過ごし方だろう。
 この困惑をどう処理しようか悩み、結局今日は休みであることを前提に好きに過ごせと伝えて下がらせた。彼女の休みは日曜日と月曜日のはずだったから、今日休まないと日曜日まで休めないというのに。


「うっ、黒子っち……色無っち怒ってる……」
「雫君、まずは連絡しなかったことを謝ります。驚かせてみたかったんです。君を不快にさせようとかそういう気持ちはありませんでした、すみません。要件ですが、今日は暇ですか? 暇だったら三人で一緒に桃井さんの誕生日プレゼントを買いに行きたいんです」


 ここで許さないのも具合が悪い。しょーごくんは僕が何度嫌だと言っても我関せず突然来るし――絶対に家に入れない日も多くあったにもかかわらず、彼は懲りることが無かった――、征くんは理由はあるがいつだって快く迎えている。
 結局折れて、「要するに、迎えに来たってことねぇ」といつも通りの甘ったるい声を出した。カメラに映る二人の表情が和らぐ。


「奇遇だねぇ、僕も今日はさっちゃんのプレゼントを買うつもりだったんだ。支度はできているからすぐに向かうよぉ。そこで待っていて」
「りょーかいっス!」


 涼ちゃんの敬礼を見て、インターカムの接続を切る。門を開けて出ていけば、二人は行儀のいい犬のように最後に見た位置と変わらない場所に立っていた。


「お待たせ。誘ってくれてありがとねぇ」
「いえ、突然来てしまってすみませんでした」
「色無っち、ごめん。来ないでって言ってたの覚えていたのに」


 もう許しているというのに、再び謝られて少し戸惑う。「もういいよぉ」最寄りの駅に向けて足を動かした。


「僕も短気でごめんねぇ? 暗い気持ちにさせてしまった」


 頭を下げたほうがいいのかと思ったものの、結局下げないまま進んでいく。自己中心的に生きてきたせいで、謝ることに抵抗を無くすことは人より時間を要しそうだ。
 かんはつを容れず二人は慌てたように僕を許すと再び謝罪を重ねてくるものだから、毒気はすっかりと抜かれて、ただの少しも残ってはいなかった。


「さっちゃん、喜ぶといいねェ」
「色無っちはまたカード書くんスか?」
「なァ〜にィ、その言い方」
「悪い意味じゃないっスよ!? いやー、プレゼントだけじゃなくてカードが添えられていたの、スゲー嬉しかったなって話っス」


 涼ちゃんは直角にした両手の人差し指と親指で「ホラ、こんくらいの」と隙間の空いた長方形を作る。
 たしか彼には嫌がらせも兼ねて全文英語で書いた気がする。彼が必死に辞書と向き合ったり英語教師のもとへ質問に行って訳していたのが懐かしい。流石さすがに筆記体の解読は無理だったのか、文字の把握までの段階は征くんに頼んでいたけれど。
 涼ちゃんが数日間とはいえ真剣に英語に向き合ったからなのか、「色無もたまには役に立つな!」と英語教師に言われたのが腹立たしかった。どうせ僕は問題児ですよぉーっと。


「書くつもりだよぉ。二人も書いてみればいい。彼女のことだし、きっと大切にしてくれるんじゃなぁい?」
「でもどういう風に書いたらいいのかとかわかりませんし……」
「そーお? 難しく考える必要は無いしぃ。『十六歳の誕生日おめでとう! 今日が貴方にとって最高の一日となりますように』みたいな簡単なことでいいんだよぉ。祝っている気持ちを込めるだけさ。ああ、日頃の感謝とかを伝えてもいいかもしれないねぇ」


 手紙じゃないから長文を考える必要は無い。「なるほど」と声を合わせて頷く彼らに、カード選びは自分の趣味ではなく相手の趣味のものを選ぶのがマナーだということを伝えると、再び「なるほど」と声を合わせて頷かれた。テツくんと言えば大くん――今は火神くんかなァ――と思っていたけれど、この二人もなかなか息が合っている。


「相棒ねェ……」


 僕には一生そんな存在が現れることはなさそうだ。合わなすぎる。
 僕の前を談笑しながら歩く二人とは部活の関係上、ほかの同級生よりは多少近くにいたと思う。知り合いよりは確実に関係が深い。けれど友達という言葉には違和感を覚える。
 もちろん紹介するときは友人だって言うけれど。もし親密度が変わらずとも、同じ部活ではなかったら僕は二人を『同級生』なんて外側の情報だけの名前で済ませていたに違いない。
 仲間、それも違うだろう。同じ物事――例えば、共通の敵――を前にしたとして、それを消化する目的が異なるからだ。求めている結果も重ならない。
 そこまで考えて、やはり灰崎祥吾とのオトモダチ関係は心地好いものだと再認識した。僕は彼を好意的に思っているけれど、彼は僕を好意的に思うことはない。彼は気分のままに横暴に喋り、動き、幾度となく自分勝手に僕を否定した。
 そうしてそれが過去となった頃、蒸し返した僕にこう言うのだ。「ア? んなこと言ったかァ……?」
 僕が関係していないことでも機嫌が悪くなれば殴ってくることがあったし、やり返せばさらに酷くなることもしばしばあった。僕は手を使わないから、馬乗りにでもなって足さえ封じれば好きなだけ一方的に痛めつけられることを早々に学んでいた。
 あの男はとんでもないクズだ。性格に難があると自覚している僕がそう言うのだから、彼は救いようがなく、救えたとしても僕は救わない。どうか彼は今のままで。
 好意を向けられて大切にされるよりも、欲求のごみ箱と見られるほうがずっと僕に似合っている、そうだろ? ……まァ、あくまでイジメのようなカーストが生み出されるものではなく、対等な関係の上でのものとしてだけれど。


「あ! 色無っち、そのしずくのピアス素敵っスね! どうしたんスか〜?」
「あっは! でっしょォ〜? これ、モデルの知り合いから貰ったんだぁ。その人、『街で見かけて、絶対アンタに似合うと思ったんス。……宝石でもクリスタルガラスでもない安物……なんスけど。受け取ってくれますか』なんて不安そうに言っていたんだけどねェ?」
「へー、そうなんスか! 見る目あるんスねえ、その人。それだけ似合っているなら見た瞬間ピンと来たと思うんスよー。世界一って感じっスかねー?」
「僕、顔はいいから大抵の物は似合うけどぉ、こんなに上手に僕を飾ってくれる物はほかに無いと思うんだよねぇ! ふふん、もっとよく見ていいんだよぉ〜。ほうら、近うよれ近うよれ〜」
「えっ、いいんスかあ〜!? キョウエツシゴク、じゃあよく見――痛い!!」


 涼ちゃんに見せつけるように顔を傾けていると、背中を曲げて顔を近づけようとした彼が、突然驚かされた犬のように喚く。「キミたちは定期的にそれをやらないと死んでしまうんですか」とテツくんの冷たい視線が飛んできた。今回も割と楽しかったです。


「前回は『このピアス素敵でしょぉ?』『うっわ、似合い方が神がかってないっスか〜!?』『やっばァ〜い! 僕、神と同等〜!? じゃあ選んだ人はもう神越え〜!』だか何だか、キャピキャピと裏声で騒いでいましたよね」
「おお、結構前なのによく覚えているねぇ。これ何気に毎回大変なんだよぉ」
「どう今までと被らないようにするか必死っス」


 どちらからともなく涼ちゃんと片手でハイタッチをする。冷えた竹が割れるような小気味の好い音が鳴った。この行為に特に意味は無い。
 駅に入ると、通路もホームも祝日だからか普段よりもわずかに混雑していた。逆に通勤や通学の一番の混雑時は少なくなっていたのかもしれない。


「お前、目立つんだからちゃんと隠れていなよねぇ」


 深々と被っていたベースボールキャップをその発色のいい頭に被せると、彼は「三人だけの時間っスもんね!」と嬉しそうにつばを下げた。今この瞬間が尊いもののように言われて口の中に苦いものが広がる。あの薄かったはずのコーヒーがまだ口の中に残っていたのかもしれない。
 ベースボールキャップを脱いで風通しの良くなった頭に、やってきた電車が起こした微風が当たって涼やかに髪が膨らむ。頭を冷やせと言われているようだった。
 再び外を歩きだしたら太陽の眩しさに、きっと僕は差し出したことを酷く後悔するのだ。その時は彼の胸もとに提がったサングラスでも拝借してしまおう。


(P.40)



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