見えないものに手を伸ばすのかい 1/3 


「雫君」
「あ、黒子くん」


 昼休みも終わりが迫る時間、わざわざ遠くの席からやってきてまで机の周りに寄ってくる人たちにニコニコと対応しているとテツくんが教室にやってきた。
 入学したての頃ってみぃんな自分の仲間を増やそうと必死だよねぇ! やれあのクラスで早くも喧嘩けんかがあったとか、やれ雑誌の特集がどうとか、興味の湧く話題が無い上に、話の相手をしていると考え事ができないしィ……テツくんが来てくれて良かったよ、本当。
 席替えをしたんだから、自分の周囲で馬が合う人でも見つけたらいーのにねェ?


「どうしたの?」
「これ、本入部届です。カントクからキミの分も貰ってきました」
「わ、助かるよ。ありがとう」


 紙を受け取り、愛嬌のある笑顔を浮かべる。紙を確認していると、彼は「あ、受け付けるのは月曜日の朝八時四十分、屋上でだそうですよ」と思い出したかのように言った。「どうして屋上なの?」小首を傾げて薄色の虹彩こうさいと視線を合わせる。彼は「そういえば……何ででしょう」と同じように首を傾げた。両者の間に少しの沈黙が訪れる。
 しかも月曜日って全校朝会があるのに。たしか九時の十五分前だから、九時の二十分前なんていったら間に合わないよねぇ……? 何でよりにもよって……。怒られたくないんだけどなぁ。

「……まあ月曜日になればわかるかな。黒子くん、ありがとう」


 そう言うと彼は「いえ、感謝されるほどのことはしてません」と言って時計をちらりと確認したのち、少し足早に教室を出ていった。次は移動教室なんだねぇ、テツくん。


「……わっかりやすぅい」
「色無君、何か言った?」
「ううん、何も」


 ゆるゆると首を振る。授業開始の五分前を知らせるチャイムが鳴って、ロッカーへと次の授業の持ち物を取りに行く生徒たちが席を立ち始めた。昨日きのうのうちに倫理の教材を机の中に置いていたために準備はそれらを机上きじょうに出すだけで済ませて、何の気も無しに表紙に使われている絵画、ラファエロ・サンティの代表作《Scuola di Ateneアテナイの学堂》を眺める。
 有名な古代ギリシアの哲学者や科学者が多く描かれたこの作品は、そちらの方面の人物にとっては夢のような絵画であるらしい。


「……おや」


 扉絵では絵画内で描かれた人物たちの当てはめが行われていた。しかし僕の記憶が間違っていなければこの絵画の人物推理は研究者によって意見が大きく異なっているものであったように思う。……ああ、でもテキストというだけあってここに記載されているのは全部確定の人物っぽいな。この学問に明るいわけじゃないから間違っているかもだけどぉ。
 しかしここでは《アテネの学堂》らしい。ラファエロがラファエッロだろうが、ラファエルロだろうが、アルフォンス・ミュシャがアルフォンス・ムハだろうが好みの問題だろう。アテナイではなくアテネのほうが心に残るのならそのように覚えればいい。
 言語が全く同じであるはずがないのに、それを越えて“訳す”ということを行った時点でそっくりそのままというわけにはいかないのだ。
『フランス語発音のミュシャのほうが有名だ』『いや、彼は現チェコのオーストリア帝国領モラヴィアに生まれたのだからチェコ語発音のムハが正しい』などと言い合うだけ時間の無駄としか僕には思えない。正誤を求めるのならば彼がサインした通りのAlfons Muchaでしかなく、それ以外になることはない。
 話を少しだけ戻そう。中央にいる二人、指を天に向けたプラトンはイデア――理性によってのみ捉えられる、変わることのない“ものそのもの”――の世界に、てのひらを地に向けたアリストテレスは現実の世界に真の実在を求めたという。
 アリストテレスは学園アカデメイアでプラトンに学んだ、いわば彼の弟子ではあるが、のちにプラトンのイデア論を現実重視の立場から批判している。
 例として、プラトンは『美しいものは“美そのもの”を持っているから美しい』と説いたが、アリストテレスは『“美そのもの”は美しいものの中に存在しており、ものを美しくしている本質である』と説いている。
 ……やァだやだ、ややこしいねぇ? 倫理、哲学だなんて上手く言ったものだ。
 幸福を求めているんじゃなかったのかい、なんて難しいことに頭を悩ませた偉人たちを指先で撫ぜて思考を放棄すると、「そうだ、明日あしたも私らと一緒にご飯食べない?」と、後ろの席を乗っ取っていた一人が口を開いた。
 そういえば後ろの人、昼食時に席を立った一瞬で自分の席を取られちゃうだなんて可哀想だよねェ。でも文句を言うわけでもなく大人しく空いている席で食べていたから、うん、結構いい人じゃない?
 勇気が無くて何も言えなかったのなら残念な人だけれど、見たところ『まじかー』『ま、いっか』みたいに考えていそうな、面倒臭くない人っぽいよねぇ。面倒臭い人たちは中学校で十分足りているしぃ。他人ひとのことを言えないとは思うけどさァ。


「え、オレらが誘おうと思ってたのに」
「早い者勝ちってやつじゃん?」


 会話を流し聞きつつすぐ近くで立ち話をしている彼を一瞥いちべつしてから、今朝教卓に置かれていたラミネート加工済みの席順表を撮ったものをギャラリーから開く。後ろの席は……っと、眞井まいあおいクン、ね。
 まいあおい。マイアオイ。Aoi Mai。うーん、どちらもファーストネームにもラストネームにもなる微妙な名前だねぇ? そういう不安定さ、僕は嫌いじゃないよぉ。けれど眞井だなんて言いにくい。My、みたいだ。……My? あっは! 僕の葵くんマイ・アオイ、って? いいかもねェ!
 目立つタイプとは言えないけれど地味ってわけでもないし、おそらく天才はおろか秀才にもなれないような、普通の人。深く関わりたい人を求めているわけではない優等生の僕にとって、面倒臭くなくて普通の彼はうってつけだ。


「色無がまだ返事してねーんだから早い者勝ちも何も無いだろ?」
「でも私らが誘うの見て後出しするのはズルくない?」
「は? もしかしたら女子とじゃなく同じ男子とのほうが楽しいかもしんねーじゃん。そうじゃなかったらオレらを断ればいいだけだし」
「色無君を思ってのことみたいに聞こえるけど結局は自分らが一緒に食べたいだけでしょ」
 

 いい具合に頭に血が上ってきたなァ、なんて困惑の表情を貼り付けた下で冷静に眺める。
 こうなったら正直僕は必要ないよねぇ? 今の彼らの頭の中を占めているのは色無雫と明日あすの昼休みも過ごすことじゃなく、単に相手よりも上に位置したいってことでしょぉ? 本当に前者なら今日のようにみんなでいればいいだけだしぃ。
 鬱陶しさに『頭を冷やしてさっさと授業の準備でもしなよ』なんて言いたいものの、おろおろと彼らと彼女らを交互に見て眉尻を下げるにとどめる。
 けれどこの状況は――使えるかも。


「なあ!」
「どっちがいーい!」
「え……ええと……」


 両陣営の穿うがつような視線と、騒ぎを耳にした生徒たちの好奇の視線の居心地の悪さに口をまごつかせる。まァそれは、どちらも大切にしたい優等生の色無雫であるわけだけどぉ。
 ちらりと葵くんの方に目を向けると案の定彼もこちらを見ていて、互いの視線が交わる。すぐに目の前の彼らへと視線を戻したせいで一秒にも満たないその交わりだったが、懊悩おうのう憂悶ゆうもんを詰めるにはそれで十分だった。
 まだ君のことをよく知らないけどさ、面倒見はよさそうだよねぇ?


「その……選べって言われても」


 眼鏡をすくうように直しながら床に視線を落として縮こまっていると、「あーっと……そこオレの席なんだけど」と唐突に第三者の声が割り込んだ。来た、と顔をうつむかせたまま唇の端をニイ、と吊り上げる。


「え? ……っと、誰」
「名簿22番の眞井葵。そこの席の人。もう授業始まるだろ? だから自分の席に着きたくて」
「あ、ごめん」
「別にいーけど。つかオマエらそろそろ教科書とかロッカーから取りに行かないとマズいんじゃないか?」


 葵くんは「多分もう一分も無いけど」と続けて、時計を指差す。彼の言葉に「うわ、フツーに忘れてた!」と一斉にパタパタと上履きの音を鳴らして廊下へと駆けていくさまは、逃走ではないものの蜘蛛の子を散らすようにという表現が相応ふさわしいように思えた。
 そんなクラスメイトたちの背中へと「あとごめん、明日あしたの昼休みオレが約束してるから!」と言い放った彼に、「最ッ高だ」と誰にも聞こえないような声量で呟く。唇に舌を這わせた後でその行為に、あいつみたいだったかも、と同級生の禍々まがまがしい笑顔を頭の片隅で思い出した。


「…………つーことで、あの……勝手にオレとってことにしちまったんだけど。勝手に決めて悪」
「謝らないで」


 謝罪をつむごうとした彼に、僕の言葉を被せる。「凄く助かったよ。ありがとう」とぬるま湯でふやかしたような安堵あんどの笑みを浮かべれば、彼の顔に残っていた緊張はあっさりと消え去った。


「ヒーローだね」
「んな大したもんじゃない。その、反射的にしゃしゃり出ただけだし……」
「君の行動理由がどうであれ、僕が君に救われたことに変わりはない。さっきの君は間違いなく僕にとってヒーローだったよ」


 机の中から教材を取り出して机上きじょうに置く彼を見ながら「恰好よかったなあ」と言えば、わかりやすく恥ずかしそうに視線が泳いだ。普段褒める立場にいるのだろうか。褒められ慣れていないみたいだねェ?


「……色無が取り合いにされる理由わかった気する」


 しばらく先ほどの僕のように口をまごつかせたのち、疲れたように項垂うなだれてそう言った彼に「それは褒め言葉……?」と尋ねると「そう思っといて」と要領を得ない答えが返ってきた。
 午後の授業が始まるチャイムが鳴り響く。じきに教師も来るだろう。


明日あすの昼休みが楽しみだよ」
「そう言ってもらえると嬉しい」


 最後の言葉を交わして体の向きを直す。
 さて、僕も幸福を考えようか。


◆ ◇ ◆



「フッフッフ、待っていたぞ!」


 あれから三日が過ぎ、月曜日がやってきた。時刻は午前九時の二十分前。目の前で腕を組んで仁王立ちするカントクの姿は、テツくんがぽつりと言った「……決闘?」という言葉そのものだった。
 屋上から下を覗けばずらりと整列している生徒たちに、小さく「うわァ」と声を漏らす。
 ほらもうみんなグラウンドに並んでいるよぉ? せっかくの色無雫のいい子デビューを崩すなんて。……まァ、朝礼もタルいし、ポジティブにいきましょう! ってね。


「とっとと受け取れよ」


 若干怒り気味の火神くんはそう言ってカントクに本入部届を提出しようと腕を伸ばした。しかし彼女は「その前に一つ言っとくことがあるわ」と受け取るそぶりを見せない。火神くん、目の前の人は先輩だよぉ?


「去年アイツらにカントク頼まれた時、約束したの。全国目指してガチでバスケをやること! もし覚悟が無ければ同好会もあるからそちらへどーぞ!」


 同好会? なぁに言っているの、笑わせないでよねぇ。たしかに僕は自分が満足できるならそれでいいんだけどさァ。本気の奴らを潰してこそ楽しめるってもの……。
 ――……ねェ、そうなんでしょぉ?


「……は? そんなんあるに決まっ」
「アンタらが強いのは知ってるわ。けど、それより大切なことを確認したいの。どんだけ練習を真面目にやっても“いつか”だの“できれば”だのじゃいつまでも弱小だからね」


 んーま、それもそうかもだけど。でも才能の差ってものは本当に厄介なんだよねぇ。圧倒的な才能の前では凡人はいつだって紙切れ同然で。文字通りグシャグシャにされて、はい、おしまい。
 征くん、大くん、真ちゃん、あっくん、涼ちゃん……とテツくん、一体どこが優勝するのかなぁ! ……まァ、答えは一つしか無いと思うけどねぇ。


「1−B、5番! 火神大我! キセキの世代を倒して日本一になる!」


 そう遠くもない夏の大会に想いをせているといつの間にか事は進んでいたようで、火神くんが屋上のフェンスに立って叫んでいた。……ちょっと何やっているのさ、危険すぎない? 死にたいのか日本一になりたいのかハッキリしてよォ。


「次はー? 早くしないと先生来ちゃうよー?」


 カントクが僕たちの顔を順々に見ていく。案の定許可を取っているわけではないらしい。これは……ふむ、目標を叫べってことですね!


「僕が行きます」
「わお、意外。キャラっぽくないのね」


 挙手して一歩前に出ると、彼女は心底驚いたとでも言うような表情で僕を見た。そりゃあ色無雫は優等生だもんねェ?
 目を瞬かせる彼女に「……だってこれができないと入部できないんでしょう?」と尋ねれば、「んまーね!」と歯を見せた笑顔が返された。やっぱりそういうことらしい。
「よし、行って来い!」と背中をバシリと叩かれて屋上のフェンスに少し身を乗り出す。火神くんの無駄に大きな声のせいで初めから注目される僕って不憫ふびんだと思わない?


「1−C、色無雫。勝利に貢献できるよう、マネージャーとして精一杯尽くします!」


 広いグラウンドにかすかに声がこだまする。言いきって後ろを向くと、カントクが親指を立てて満足げに笑っていた。合格、と。
 そしてその後、河原くん、福田くん、降旗くんと続いて、テツくんがどこからか持ち出してきた拡声器を手にして息を吸い込んだところで、教師が屋上のドアを怒声とともにド派手に開けて入ってきた。


「まァ、僕はお(いとま)致しますよぉっと……」


 怒り心頭に発した教師から「並べ!」「座れ!」と怒鳴られているみんなから距離をとってそっと屋上から出る。
 未遂なのに怒られるテツくんが一番可哀想だよねぇ、とくすくす笑いながら軽やかな足取りで階段を駆け下りた。


(P.9)



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