悲しみはいかなる夢をも育みえざる 1/5 


 土曜日のプール練習にさっちゃんが顔を出したらしい。テツくんの恋人だと名乗って。きっとテツくんは静かに否定したのだろうけど、先輩たちは酷く驚愕したはずだ。休んでいてそれを見られなかったのは惜しいことをした。半分嘘だけどぉ。
 惜しいのは、誕生日プレゼントとして三人で贈った水色のパーカーを着てきたらしいのを見れなかったことだ。きっととても似合っていたに違いない。律儀で愛らしいと思う。


「……塩素の匂い」


 決して高くはない落ち着いた声。教室の扉を開けて、おはようよりも先に掛けられた言葉だった。


「おはよう、逢沢ちゃん」
「あ……おはようございます、えっと」


 振り返った彼女は風峰涼花とは別の、もう一人の日直のパートナーだ。このクラスが奇数であるために日直を二回担わないといけない犠牲がどうしても必要になる。学級委員長なんて、ただの損な役割だ。
 チョークを持つ彼女は今日の日付と日直の名前を黒板に書いている途中だったらしい。「色無。色無雫だよ」僕の名前だけがぽっかり空いたそこを指して、正しく名乗る。名前を覚えていなかったことを恥じたのか、彼女は少しだけ目もとを染めて小さく「すみません」と口にした。


「謝らなくていいよ、まだ六月だ。それに人の名前を覚えるのは重労働だからね」


 優等生の学級委員長にさえならなければ、僕だってクラス替えの時まで名前を覚えていない生徒が半数はいただろう。名前など出さずとも会話はできるのだから。


「……プールですか」


 水やり、軽い清掃、空気清浄機の準備。互いに仕事を進め、長針が朝のSHRまであと二十分を指したところで長かった沈黙にとうとう耐えられなくなったらしい彼女が口を開いた。声が少し上ずっている。
 居心地が悪そうにしていたのは知っていたけど……世間話くらいはしておくべきだったかァ? いや、そこまで気を使う義理もないよねぇ。


「月、水、土曜日には部活の朝練がプールで行われるんだ。スポーツジムを経営しているカントクのお父様のご厚意でね」


 繊細な悩みは放り出して、会話に意識を向けることにした。
 選手として復帰した先々週から僕も参加している。優等生なのは見せかけだけの僕にとって朝からプールでの練習という面倒事には遠慮を決めたいところだけれど、見せかけのためにはそうも言っていられないのがだるい。
 まァ、プールじゃない日も練習後にシャワールームで汗を流すわけだから、どちらのほうが楽だなんてことはないけれど。シャワーの時間を削ってまでボールと友情を育んでいる火神くんはそろそろクラスメイトに怒られたほうがいい。
 顔の横の髪を一束手にとって、鼻先へと持っていく。今日は日直の仕事があるために早めに抜けてきたが、彼女が言った通り塩素の独特な匂いを置いていくことはできなかったらしい。


「病み上がりみたいですし……気をつけてください」


 そろそろ換気はいいだろう。窓を閉めて曇天と硝子ガラスを隔てる。特急で髪を乾かしたせいで少し暴れてしまっている毛先が映った。
 たとえ上辺だけでも心配の言葉を寄越した彼女に感謝を返しながら、バッグからヘアタイを取り出す。いつもは前に流しているいた髪を後頭部で一つにまとめて結んだ。
 天気予報によると、午後は雨が降るらしい。梅雨つゆは難儀な時期だ。教室の湿度計に視線をやると遠目でも80を超えていることがわかった。
 しばらく悩んでからエアコンのリモコンを手に取る。除湿ドライ設定にして電源を入れれば、ピ、と高く短い起動音が鳴った。少し驚いたような表情の彼女は「今の時期にエアコンを使うのか」とでも言いたげだ。


「冷房じゃないよ、ただの除湿。特に女の子は湿気を嫌がっているでしょ? 『朝ちゃんと整えたのに』って雨の日はよく髪を撫で付けて口を尖らせているからね」


 リコ先輩の代わりに生徒会定例会議に出席していることを利用して、本格的な夏にはまだ早いこの時期でもエアコンを使用する許可はもらっている。学習に集中しやすくするためだとか、カビの防止などと言っておけば案外簡単に申請は通った。ちょろい。
 使用許可を出したことに伴って土曜日に清掃業者が入ったはずだし、これで女性陣の愚痴が減ることを祈る。


「日直って、そんなことも気に掛けるものなんですか」
「さあ、どうだろう。でも、気づけたことはきちんと行動に移したいとは思わない?」


 彼女は口を開いて、しかし何を言うでもなくすぐに閉じた。
 頬と鼻にそばかすが咲いた肌は彼女を慎み深くも偏屈者にも無邪気にも見せて、飽きとは無縁だった。ここで話を折ってまでチャーミングだと口にするほど僕は好色一代男にはなれないが、魅力的であることは確かだ。


「そんなできた人間ではないので」


 彼女の言葉に失笑する。そのままカラカラと笑えば、大きな瞬きを二度して僕をじっと見た。そのうちただのクラスメイトの彼女だって知るだろう。
 俺は紛れもなく、そして誰よりも失敗作だ。
 すでに失敗作として完成してしまってあとは落ちるのを待つだけの自分には無意味だとわかっている言葉をたわむれに舌に乗せても、当然美味しくなどなかった。


「僕たちまだ子供だよ?」


(P.86)



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