センチメンタルセンチメートル 1/3 


 そういえば明日あすの朝学習は週テストだったっけ。
 ふとそんなことを思い出して、午後十一時を回った壁掛け時計と、『11:23 PM』と表示された机上きじょうのデジタル時計に目をやる。もしこの時計の設定を十二時制ではなく軍事時間制にしていたなら2323だったのに、と大して面白くもないことを考えていると、デジタル時計は機嫌を損ねたように一分静かに進んだ。もうじき今日も終わる。火曜日の訪れはもうすぐだ。
 開いていた文書作成ソフトウェアを閉じ、そのままシャットダウンのショートカットボタンをダブルクリックする。普段学校で掛けている伊達だて眼鏡よりも幾分か軽いブルーライトカット眼鏡を外すと、視界の色がわずかに明るくなった。茶味がかっていた眼前の世界が元の色を取り戻す。


「あー……何もしたくない」


 先ほど服用した頭痛薬によるものと思われる眠気がゆっくりと、でも確実に僕の身体をむしばんでいく感覚が重たくのしかかる。クソ、痛みは引かないってのに。
 換気でもしようと、細身の小窓と部屋の扉を少しだけ開いた。しかし遠くからピアノの音が届いて、すぐに扉は閉めてしまった。
 この家で楽器を扱える者なんて僕しかいない。きっと母さんがまた自動演奏ピアノに楽譜を喰わせてやっているのだ。勝手に鍵盤が沈む光景はまるでそこに幽霊がいるようで、その幻影をうっとりと眺める母さんを含めてどうにも好きになれない。
 数秒にも満たないものでも、演奏されている曲が『ラ・カンパネッラ――パガニーニによる大練習曲 第3番 えいト単調――』であると知るのはその曲の特質上、容易なことだった。
 数度に渡り楽譜が改訂されたそれは難易度が頭一つどころか二つも三つも抜きんでているからだ。手の移動を許さないほどの素早さを求められ、そのなかで左手の跳躍は一気に三オクターブも下がるため約四十六センチメートルもの移動を強いられる。
 聴く者に感動を約束するそれは演奏する者にとっては楽譜を見るだけで絶望以外の何物でもない。
 とはいえ、『パガニーニによる超絶技巧練習曲 第3番 変イ短調』であった頃よりは難易度も落とされてはいるが。作曲から百七十年以上経った今も録音を行ったピアニストはたった数名、その上完璧に演奏ができるのは作曲者本人である天才ピアニストのフランツ・リストしかいないとすら言われている。母さんを喜ばせる程度にしかピアノにれていない僕には到底演奏できる代物じゃない。母さんも、幽霊に無理を強いていないでもっと簡単な曲を演奏させてやればいいのに。
 そうだねェ……ヨハン・パッヘルベルの『カノン』とかァ? 作曲者名や曲名は知らずとも、聴いたことが無い人はいないはずだよねェ。あまりに愛されすぎている。
 ……やめたやめた、自分で皮肉っていて腹が立ってきた。僕は『ジーグ』で落ち着いていたい。『カノン』に成り代わるつもりは少しもないよぉ。
 閑話休題休題休題、明日あすの朝学習の週テストはたしか英語だったような。範囲は先週の英語表現Tの授業の分だから……動詞と時制から現在完了形までだったかなぁ。次の授業で過去完了形に入る予定だったよねぇ……。
 高校とはいえ、まァ、序盤はこんなものでしょぉ。完了形なんて中学でも軽くれていたけれど、高校の教科書にも載ってこうして再び細かく学び直すのは理解が必須なところだからだしぃ。
 ぐ、と背筋を反らして体を伸ばす。スクールバッグから緑色の表紙の英語表現Tのテキストを抜き取った。範囲の十二ページから十九ページまでをパラパラとめくって、何も書き込んでいないそれらを流し読みする。


「He went into his room this morning. He is still in his room now...」


 しかし数秒と保たずに面倒になって一番最後の問題だけ拾うことにした。『二文の内容を一文で表す現在完了か現在完了進行形の文を作りなさい』らしい。『彼は今朝自室に入った』と『彼はまだ自室にいる』なのだから、日本語では『彼は今朝から自室にいる』あたりでいいだろう。『He has been in his room since this morning.』 、それで問題ないはずだ。
 ……うん、やっぱりやる必要ないよねェ。
 わざわざ労力を使った真面目な自分に呆れながら教科書を閉じてスクールバッグの中に戻す。征くんや真ちゃんならすべてわかっていてももう一度見直して一つずつ解いていくのかもしれない。何があっても点を失うことがないように。
 僕はそこまで自分に厳しくなれない。できることはわかっているのに、どうせその日の昼休みにはすっかり忘れているようなことに真剣に向き合う時間はとりたくない、そう考えてしまう。
 ああ、通学中の暇潰しにでもしていれば多少は周囲への印象操作にでもなるかなァ? それすらユウウツだけどぉ。……あれ、ウツってどういう漢字だっけ。書けなくなってしまった気がする。
 ふと思い立ったそれを解こうと、机の天板に指で漢字を書く。木、缶、凶、杉、旨、米……。しかしどうあがいても形になることはなかった。線が潰れてしまいそうなほどに重たい漢字だったことは覚えているのに、ぼんやりとしたまま明瞭にならない。それこそウツという言葉を表しているようで、遊ばれたような感覚に陥った。
 無感情ではなく、ぼう、とした何かを思いながら、机上きじょうに並ぶさまざまな辞書の中でほかと同様に静かにたたずんでいる漢字辞典に腕を伸ばす。しかし中指がそれに触れる直前、ぴたりと時間が止まったように腕が硬直して、やがて数秒前の位置へと戻ってきた。誰の目も無い今くらいはわからないままにしておきたいらしい。
 ため息をついてデスクスタンドの真っ白な明かりを消す。そのまま机に突っ伏せば、ひんやりとした天板が頬の体温を急速に奪っていった。
 ――しょーごくんは何をしているかなァ……。
 ふと、帝光中学校で行動を共にする機会が多かった男の存在が脳をかすめる。彼の“提案”に乗ってから彼と連絡をとったのは電話番号とEメールアドレスを変更した時の一度きりで――本当は送らないつもりだったけれど数日悩んだ末に送ることにした――、彼から登録内容の変更を確認した旨の返信は無かったために実質あの屋上での会話が僕たちの最後のやり取りとなった。直後に僕が帝光中学校から、否、この国から離れたためだ。
 温度の感じなくなった机から頬を離し、行儀が悪いとは思いながらも椅子の上でひざを抱えた。猫背になって小さく埋まってみても体に違和を感じるだけで、重く痛む頭が良くなるわけでもない。もう寝てしまおうかと椅子から立ち上がってベッドに体を投げ出すと、ちょうどスマートフォンがEメールの通知音を響かせた。
 リコ先輩あたりかなぁ、なんて根拠の無い予想を立てて明るすぎる画面を覗く。しかしそこには『灰崎祥吾』という珍しい人物が表記されていて、わずかに目を見開いた。

『何してた』

 どんな用があるのかと少し好奇心に駆られながらEメールを開くと、画面には一行すらも埋まらない八バイトの淡泊な文字が並んでいた。角ゴシック系のフォントもその淡泊さに一翼いちよくを担っている。……何がしたいんだ、あいつは。


「……おい」
「あ? お? おやおや? その声はシズク君かな?」


 返信をするのも面倒だとコールを押すと、数秒も経たないうちに彼は応答した。数箇月ぶりとは思えない会話に体の力が抜ける。


「……で、何か用が?」
「いや? 特に用なんかねーよ。ただ、今ヤッた奴がもう寝ちまって暇で暇で。ま、よーするにお前は暇潰しだ」
「ああ、そうですかそうですかお疲れ様ですぅ」
「んなジャケンにすんなって」


 ジャケンという言葉が邪険だと理解するまでに時間を使った。涼ちゃんや大くん、最近の交遊関係だと火神くんも彼同様、本人が言葉の意味を理解しているのか怪しい口調で話してくるものだから少し困ってしまう。
 僕を暇潰し呼ばわりするなど、こいつくらいだ。……いや、もう一人いるか。


「邪険になんかしていないしぃ。しょーごくんはよく知っているでしょぉ? 僕がオトモダチ思いだってこーと」
「あー……」


 低く唸るような声が電話口から届けられた。どうしたのかと耳を澄ませば「その喋り方、すっげー懐かしい気ィするわ……」と黄昏たそがれ時に似合うような寂しい声が発せられる。
 電話は発声者の声の特徴と音韻情報から合成された、ただの似た音声を再生しているだけにすぎない人工のものであるはずなのに、それは紛れもなく灰崎祥吾を近くに感じさせた。誰そ彼たそがれと言ったのは撤回しよう。
 怠惰を音に落としこんだような彼の声を、素直で正直ではない彼の口調を、僕は案外気に入っていたりするのだから。


「あっは! なぁになぁに? しょーごくんってば僕が恋しくなっちゃったのかなァ?」
「かもしんねーぜ?」
「は……うわ……気持ち悪」
「オイオイ、酷ェなァ」


 スマートフォンを耳に当てたままベッドから起き上がり、机の下の引き出しをスルリと引く。最奥さいおうで静かに控えていた市販薬の箱を取り出し、肩と耳でスマートフォンを支えながら瓶の蓋を回し開けていると「親が泣くぜ?」なんて声が聞こえた。「おかしいな。君のご両親が過保護だった記憶は無いぞぉ」と茶化すとすぐに「お前のことだよ」とわけがわからない答えが返ってきて、疑問に口を閉ざす。


「お前、クスリ飲もうとしてんだろ。そこらに売ってるよーなヤツ」
「……は」


 どうして知っているんだよ、と驚愕で手を止める。結局薬を一粒も出すことなく瓶をそっと机上きじょうに置いて、滑り落としてしまいそうになったスマートフォンを支え直した。


「さっから微妙に音が聞こえてんだよ。瓶に小さいモンが当たってジャラジャラ鳴る音とかな」
「あ、ああ……そういうこと」


 監視でもしているのかと思ってしまった。ったく、紛らわしい。
 ドクドクと駿馬しゅんめが駆けているかのように脈打つ感覚の支配が去るのを待ちながら、力が抜けてしまった体の感覚を確かめるようにてのひらを強く握る。力を込めれば込めるほど小刻みな腕の震えは大きくなっていき、それは必死にもがくほど苦しむことを表しているようで方向のわからない嘲笑を呼んだ。


「『体調が優れないんだよねぇ』なんて言えばすぐにドクター様が駆けつけて元気になるクスリでも出してくれるだろうに。効くかも知んねぇモンを知らず知らずのうちに子供が飲んでるなんて、カホゴなお前の親は泣くんじゃねーの?」
「そうだねェ……。取り上げられてしまうことは確かだよぉ」


 僕の体を思ってのことだとはわかってはいるが、こちらとしても限度というものがある。『愛がすべての免罪符になると思うなよ』なんて言えたらどれほどその日が素晴らしい日として残るだろう。


「なぁシズク」
「なぁにィ?」
「つれェか」


 研がれた声色が突き刺さる。省略されすぎた言葉は形を曖昧にするどころか、彼が関与しないところまでえぐってくるようだった。『お前には関係ない!』そう叫びたくなる気持ちと彼に転がってしまおうかという気持ちがまるで酸素を喰らっていくようで思考をさらに鈍らせる。


「……何のこと?」
「ハッ」


 ――少し強がらせろよ、祥吾。
 結局、悪手あくしゅに出てしまった。自分のことも騙し騙しで耐えているってのに、結び目を解くようなマネしてくれるなんてしょーごくんは本当に“オトモダチ思い”だねェ?


「前も似たようなこと言ったが、お前がどうしてバスケをしてんのかは知らねぇし、知ろうとも思わねェ。けど続けてたってことはそれなりの理由わけがあんだろ? 不要なことは切り捨てる、そーいう奴なんだテメェは」
「……酷いなァ」
「おっと、褒め言葉に聞こえなかったかァ?」
「ああ、全くね」


 電話の向こう側のアイツはきっと下卑げびた笑みを浮かべていることだろう。クツクツとした抑え込むような笑い声までスピーカーは親切にも拾ってくれた。「くそったれ」と吐き捨てて画面の通話終了ボタンを押せば、くだらないホーム画面がでかでかと表示された。


「……気分悪い」


 きっと薬を飲みすぎたせいだ。そういうことにしておこう。
 もうスマートフォンに用は無いと、ACアダプターを差し込む。いつもならすぐに聞こえる充電開始の短いサウンドの代わりに再びEメールの通知サウンドが部屋の空気を震わせた。
 今度は誰だっつの。
 少し嫌々ながらもEメールボックスを開く。Fromと書かれた行には一通目の時に予測していた相手の氏名が表示されていた。

明日あしたの放課後、偵察行くわよ!』


(P.37)



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