夢を食べても眠りは妨げないで 1/5
……随分と難儀な使いを頼まれたものだ。
前も後ろも本がぎっしりと詰め込まれた棚が並ぶ、
洋墨の
仄香る空間で静かにため息をつく。
照明も明るく、かび臭さはない。しかし私の視界にはまるで空気中に舞っている塵のように文字が不規則に散らばっていた。あるものは鏡状に、あるものは分解されて、またあるものはぐにゃりと曲がり、またあるものは一部が欠けて。
――ディスレクシアという単語を聞いたことがあるだろうか。
日本語にするなら失読症、識字障害といったところで、訳そうが訳さまいが残念ながら認知度は低い。
私がディスレクシアであることは雇い主であるシズクも当然知っているが、それでも猫に関係する本を買ってこいだなんて仕事を寄越したのは性格の悪い彼のことだ、私を困らせたあげくに馬鹿にしたかったのだろう。
嘘。
ほかのハウスメイドに仕事を頼めば私が
癇癪を起こすから……きっとそれが正解だ。
昔、シズクが書籍買い出しの使いをほかの者に頼んだことを知ったとき、当時の私はそれはそれは怒り泣いた。「勝手にできないと決めつけるのか」「信じてほしかった」「そんなものは優しさじゃない」と。
今思えば随分と幼稚でアホでくだらなくて厄介な子供だったと思う。けれど、それまで要望を叶える努力は一切怠らなかったのに、普通の人間なら小学生にですらできる書籍の買い出しなんて簡単な仕事だけ私には頼ってくれなかったという事実は、数いるハウスメイドの中で唯一色無雫個人に仕えられているという誇りのあった自分を気遣いという名の刃物で切り裂いた。
あの時も、今もきちんとわかっている。決してシズクが悪いわけではないのだ。彼は彼の父親と考え方が似ていて、その者が力を発揮できる仕事を任せることが多い。苦手なことはそれが得意な人間にやらせればいい、という思考だ。日本では苦手なことでも構わずやらせて平均化させていく傾向にあるが、欧米では一人一人の活躍を重視する。
あの時の珍しく
狼狽えていたシズクの表情は今でも記憶に残っていて、それは時折私を申し訳ない気持ちにさせた。しかし今さら謝ったって、すっかり図太くなったシズクに『おやおやァ? お使いが面倒になったのかな? ほかの者に頼んでもいいんだよぉ?』とでもからかわれそうだから謝らない。
「あの……どうかしましたか?」
今日は丸一日この使いで終わってしまうやも、とんだ給料泥棒め。
そんなことを考えているとシズクにはない温かみのある声が私の耳に届いた。視線をそちらへと向けて、一秒、二秒、三秒……頭のてっぺんから爪先までを一通り視界に収めた。
「何かお困りのように見えたので……」
所々が跳ねた髪の焦げ茶色は真っ直ぐな色をしていて、一目で染めたものではないとわかる。悪くはなく、際立って良いわけでもない親しみのある顔には少しの緊張の色が見えた。
「お兄ちゃん、もしかしたら日本語わからないのかも……」
「えっ!? あ……そっか。えーっと……Do you need some help? ……だったか?」
黙っている私に、彼と彼が手を繋いでいる少女は勘違いをしてしまったらしい。たしかに私にこの国の血は入っていないけれど、どうか安心してほしい、私は日本育ちだ。「お気遣いいただきありがとうございます」と腰を折れば、彼は少し恥ずかしそうに「日本語喋れたのか……」と呟いた。
「猫の生態や飼育に関する本を探しているのですが、ディスレクシア
故にどのあたりに置いてあるのかすらわからないのです。仰る通りほとほと困っていたところでした」
「ディ……?」
「お兄ちゃん、私知ってるよ! 道徳で習ったの、しちじ障害っていうんだよね」
「しちじ障害……?」
「識字障害ですね。知能等に異常がないにも
拘わらず、文字の読み書きが著しく苦手な者のことです」
生まれつきではないはずなのですがいつからか……なんて続けようとして、しかしそれは目の前の二人にはどうでもいいことだろうと言葉を喉奥へと押し戻す。二人は私を馬鹿にするわけでもなければ哀れむわけでもなく、「一緒に探しましょう」と提案した。
本を探してくれている二人についていきながら思ったのは、無防備な背中だということだった。親しみやすい人間が周りにいた試しがないからかそんな感想になってしまったが、お人好しと表現するほうが適当だっただろうか。そちらのほうが悪い? まあどうでもいい。
細かいところまで気にするのはシズクのことだけで十分だ。
「ここからここまで、すべて猫関連です。わかりやすそうなのを選びましょうか?」
「いえ、結構です。全部一冊ずつ購入します」
「全部……帰りは大丈夫ですか?」
「車で来ているので問題はないかと」
近くにいた店員を呼び止めて購入の旨を伝えれば、それらはごっそりと本棚から抜かれてレジへと運ばれていった。
「ご迷惑でなければあなた方の精算も私にさせてください」
「えっ!? いやいやいや、
流石にそれは……」
「ほんの気持ちです、私はとても助かりました。主人から好きに使っていいと渡されたお金をこの恩返しで使わなければきっと礼儀知らずだと叱られてしまいます」
この出来事を言わなければ叱られることはないだろう。しかし給料すらすべて貯蓄へと回っている私にお金の使い道はないし、かといってシズクの好意を無駄にしたくない。
私のわがままではあるがここで目の前の彼が折れてくれたらすべて解決なのだ。「どうかこれも人助けだと思ってください」と駄目押しすれば、彼は酷く悩ましげに唸った後で感謝を述べた。
「小説でも漫画でも雑誌でも。この際気になっていたものを全部手にとってどうぞ」
「本当にいいの……? お姉さん怒られない?」
「店ごと買いましたなんて言ったら流石に驚かれるとは思います。驚かせますか」
「う、ううん大丈夫……」
驚かれるだけでは済まないかもしれないけれど。「それなら早く本を選んでいらっしゃい」と彼女の背中を押せば、余程急いだのか二人が再び私の前に現れたのは五分も経っていない頃で、なるほど識字に障害がなければこれくらいの時間で選べるのか、と感心しつつ会計を済ませた。
小さな彼女の手にはおおよそ女の子らしくない本もあって、もしかしたら兄弟の分も選んだのかもしれない、なんて予想を立てたりもした。
「お姉さんってメイドさんなの?」
「ええそうですよ。外ではエプロンをつけませんのでわかりづらいでしょうが、これは制服です」
「フリフリの可愛いエプロン!?」
「まさか。今のご時世それは娯楽重視の飲食店くらいなものでしょう」
彼らを後部座席に乗せて、ゆっくりと交差点を曲がる。バックミラーで見る彼らの表情からはすっかり緊張の色がなくなっていた。
私に声を掛けてくれた彼は本屋では結局もともと持っていた本のほかに料理の本を一冊追加で手に取っていただけだったが、この後スーパーで買い物をするのだと大人の顔をして言う彼に送迎を提案すれば、それはそれは嬉しそうな年相応の表情で沢山の食品や日用品をかごに入れていた。
家族が多いらしく買い物も一苦労なのだとか。しかし私が支払いをしたらこれでもかというほどの申し訳なさそうな顔で何度も謝ってきて、妹さんに「そういうときは『ごめんなさい』じゃなくて『ありがとう』だよお兄ちゃん」と言われている始末だった。
これではどちらが年上なのかわからない。面白いものを見させてもらったから私は満足している。
「そこの左が
家です、何から何までありがとうございました」
「いえ、眞井さんがいなければ私は今もまだ本を手に取れていなかったでしょう」
「何で名前……。あ、表札か」
「私こそ大変助かりました、ありがとうございました」
車の扉を外側から開けて、荷物を抱えた彼らを降ろす。慣れていないのか、少し気恥ずかしそうに降車した彼らは深々とお辞儀をしてから家の中へと消えていった。
「別に表札を見たわけではないのですがね」
少しの風が吹いて、長いスカートの裾が膨らむ。後部座席に忘れ物がないことを確認してから扉を閉めれば、小さく呟いた彼のフルネームはその音に掻き消されてしまった。
なるほど、世間とは聞いていた通り狭いらしい。
(P.81)