窓ぎはのみどりはつめたからず 1/3
「黒子テメェ、覚えとけよコラ……」
「すいません、重かったんで……」
ジャンケンに敗れ、立つことすら困難な火神君を背負って会場から最寄りの飲食店であるお好み焼き屋に入った。雫君は「ごめんね、僕が背負えばよかったよね」なんて泥だらけの火神君をタオルで拭きながら苦笑ってはいるが、その実心の中では服に香りが移ってしまわないかと、帰り道のことを気にしていそうだ。
「黄瀬と笠松!?」
「ちっス」
「呼び捨てかオイ!!」
先客の中にはどうやら海常の二人がいたらしい。
十二人という人数で席が足りないのか、「相席でもいっすよ」と声を上げてくれた笠松さんに甘えて、火神君と共に二人の席へと腰掛ける。雫君はこの四人席に座りたくなかったのか、いち早く座敷の方へと向かっていた。
「色無っちもこっち来たらよかったのに。椅子詰めればいけるっしょ」
「まあいいじゃないですか。ほら、何だか楽しそうですし。もしかしたらお好み焼き屋が初めてなのかもしれません」
「そーいや何で緑間っちとやる時色無っちを出さなかったんスか? 火神っちの
膝、限界に見えたんスけど」
「うっせー。つか『っち』って付けんな」
「気になるなら自分で訊いてみたらどうですか。ボクたちもよく知りません」
目だけ動かして雫君を見ると、後ろ髪を束ねながらも背中を曲げて興味深そうに鉄板を覗き込んでいた。自分で調理が必要な店だということはわかっているのだろうか。
彼をそのまま見ていると、「すまっせーん」と新しい声が聞こえてきた。その声に聞き覚えを感じて振り返ると、出入り口に立っていたのは先ほどまで戦っていた緑間君と高尾君だった。
客のほとんどを身内が占めていた店内からは一瞬にして笑い声が消え、食材が焼ける音だけがこの空間を寂しくさせまいと働いている。
しかし高尾君が口を開けば瞬く間に事態は進み、いつの間にか相席者が笠松さんから緑間君へと変わっていた。「ちょっとちょっと、チョーワクワクするわね!?」とカントクの声も聞こえることだし、狙ってやったとしか思えない高尾君は雫君と笠松さんに挟まれてすでに三人で乾杯している。完全に
他人事だ。
「……とりあえず、何か頼みませんか。お腹減りました」
「オレもう結構いっぱいだから今食べてるもんじゃだけでいっスわ」
「よくそんなゲロのようなものが食えるのだよ」
「いか玉ブタ玉ミックス玉」
「何でそーゆーこと言うっスか!?」
「たこ玉ブタキムチ玉――」
「何の呪文っスかそれ!?」
「頼みすぎなのだよ!!」
さまざまな声が飛び交っている。開いていたメニューから視線を上げて「大丈夫です。火神君一人で食べますから」と大食漢であることを知らない二人に教えれば、「ホントに人間スか!?」とすぐに黄瀬君が反応した。
「あ? 色無もオレと一緒で食う奴だろ」
「でもあの人は普段から必要以上に食べたりはしないっスよ。いつも栄養管理をちゃんとし」
「――この店では
吐瀉物が食べられると聞いて!」
「か、管理を……ちゃんと……して……」
緑間君が座る椅子の背もたれに手を付きながら話に割り込んできた雫君のタイミングの悪さに、黄瀬君の言葉が途切れる。「何しに来たのだよ」「タローから聞こえたゲロって言葉がわからなくて高尾くんに訊いたら
吐瀉物だって言うからさ。食用
吐瀉物なんて新しい経験になると思って参じました」「相変わらず食うことが好きだな」「食は最も基本的かつ上等な娯楽さ」この二人はマイペースすぎる。「うう……」としょぼくれている黄瀬君に今回ばかりは同情してしまった。
「あー……これが食用
吐瀉物? うげげ」
「食用
吐瀉物って何スか!?」
雫君は悪気も無く「だってそう聞いたんだもの」とけろりと答える。仮に本当に食用
吐瀉物だったとしたら食用と付いていてもボクは断固として食べたくない。彼
曰く食は娯楽らしいが、
流石にそれは
悪食だ。
「これはもんじゃ焼きっていって」
「色無に変な知識を与えるな黄瀬。コイツは何でも吸収するのだよ。色無、オマエの言う通りこれは
吐瀉物だ。だが食用などとは間違っても付けるな」
「緑間っちのほうが変な知識を与えてないスか!? そもそも
吐瀉物じゃないし……! お店の人にメーワクっスよ!」
食事の席で
吐瀉物を連呼している時点で黄瀬君も同罪だ。二人の言い合いに当の本人はすっかり興味を無くしたのか、途中で「高尾くん、一緒に
吐瀉物を食べよお〜」なんて自席へ帰っていったあたり、ボクの周りにまともな人間はいないのかもしれない。
「どれにする? 変わり種いっとくかー?」
「ええ?
吐瀉物って時点で十分変わり種なのにさらに上があるの?」
「この店結構面白いのあるみたいだぜー」
「ん……と……どれ……? このメニューの江戸文字みたいなフォントがとても読みづらくて」
「任せな。えーっと? これはフルーツが入ってて、おっ、こっちはピザ風らしーな」
高尾君も
吐瀉物を否定してほしい。誰か色無君に教えてあげてくれませんかね。……というか何気に意気投合するの早くないですか。
「あの二人、前から友達だったんスか?」
「いえ、まともに話したのは今が初めてだと思いますけど……」
黄瀬君も同じことを思っていたらしい。両者人見知りではないというのは強いな、なんて思いながら再びメニューに視線を落とす。
そういえば、青峰君やボクの隣にいる黄瀬君もよく雫君に字が汚くて読めないと怒られていた気がする。高校では火神君が怒られる候補だろうか。まあ、教科書を写したような文字を書く雫君からしたら誰だって汚いだろう。
「何でオレらん時オマエ出なかったの?」
店内に立ち込める白煙も落ち着いて、食べるのが早いわけではないボクのお好み焼きも半分まで減った頃、高尾君の唐突な質問が聞こえて耳を傾ける。雫君宛ての質問だということは訊かずともわかった。
「正邦の奴らに頭下げに行ったんだろ? 結局試合に間に合わなかったみたいだけどあちらさんそんなに怒ってたのか?」
やはりみんな気になるところらしい。テーブルが違う
主将が質問を重ねた。
「いえ……別件で僕のほうが怒りを抑えるのに苦労してしまいまして」
「え? 何があったんだよ」
「小学校の頃、俗に言ういじめってものを受けていたんですけど」
「イヤイヤイヤ待ってくんない色無クン!? フッツーに言ったな!? 真ちゃーん! 知ってた!?」
「別に隠しているわけじゃないし……」
「そいつの家とは小学校以前からの付き合いなのだよ。知っているに決まっているだろう」
フンと鼻を鳴らす緑間君に「いじめも幼馴染も、ボクはすべてが初耳なんですけど」と口を開くと、「……オレもっスよ、黒子っち」と黄瀬君が疲れたように言った。知らなかったのはボクだけではなかったらしい。
ボクが知る雫君は間違ってもいじめられるような人間ではない。もし何かの間違いが起こっていじめを受けたとしても、翌日には相手の地獄への送迎を済ませて、澄んだ笑顔でマドレーヌでも頬張っていそうだ。
「その一人が津川くんだったので、和解してきたんです。まあ彼は笑っていただけなんですけど」
「顔色変えず話を続けた……。いや、なんかその……訊いてごめんな?」
「高尾くんさ、勘違いしないでほしいんだけど、僕は答えたくないことは答えたくないと言える舌を持っているんだよ」
「おー、さっきもんじゃ食おうとしてハガシで
火傷しかけたその舌な」
「む……君だってついさっき熱いまま沢山口に含んで僕の水まで飲んだじゃないか」
口をへの字に曲げた雫君が「ほらほらこの音が聞こえるかい」とコップを揺らして氷の涼しげな音を立てるのを受けて、「へいへい
注ぎますよ」と高尾君はたっぷりと水が入ったピッチャーを手にした。
「……いじめってさ、漫画とかドラマの話じゃなく本当にあるんだな」
「あるよ。素晴らしいことに、子供って本当にいろいろなことを思いつくんだ。体操着やら教科書を捨てたりするのはドラマでもよくあることだけど、まだ土がついている幼虫を食べさせたり、ガタガタと嫌な音を立てるミシンを前に強要したり、蟻をわざわざ集めては服に流し込んだり、給食にチョークの粉がかかっていることも多かった。……ああ、まだ洗われていないプールの緑色をした水に落とされたのは割と精神にキたな。藻があるからとても滑るし、臭いもきついし、普通に生物も住んでいるから。きっと水から上がった僕はきっとオクサレ様みたいだったんじゃないかな。あはは、でろでろ〜ってね」
お化けのように手首から先を垂らして揺らす雫君に、水を注ぎ終えた高尾君は「いや笑い事じゃねーし……」と呆れた表情を向けた。
そういえば雫君は帝光の時、なぜか体操着を購入していなかった。馬鹿をやって制服を汚した時はバスケ部のジャージか他人の名前が入った体操着を着ていたはずだ。帝光ではいじめられてなどいなかったはずだが、購入すらしていなかったのはもう捨てられないようになんて理由でもあるのかもしれない。
「大丈夫だよ。僕の前の席にはちひろちゃんという名前の子がいるんだ。またオクサレ様になる機会が来てしまったら彼女はきっとその贅沢な名を捨てて湯屋で働いてくれるさ」
「意外とそういう映画観るんだな!?」
「もちろん。最も偉大なアニメーション映画のうちの一つだ。別作品の話になるけれど、観た後は素直に影響を受けてコンクリートロードを歌いたくなったりもするんだから」
雫君が得意気に胸をぽんと叩いた。捻くれているわけじゃないんだぞとでも言いたいのだろうか。ズカズカと歩いて『やな奴やな奴!』なんて言っているところを想像して小さく笑う。
「決して涙は見せないでー、ってか?」
「そうそう! 心なしか歩調が速くなっていく、思い出ー」
「消すためー」
「消すためー」
ぴったり合った声は、やっぱり元からの友人であるかのようだ。「征くんがヴァイオリンが上手だから、よく一緒に楽しんだんだ」「せー君? 名前もぴったりじゃねーか!」「あはは、たしかに!」会話だけ聞いたのなら黄瀬君とよりもずっと会話が弾んでいて仲が良さそうだ。それは高尾君の返しが言葉だけでなく声質やタイミングが優れていることも一役買っているだろう。
「昔スゲーつらい思いをしたんだろーけど、ちゃんと笑えて偉いな」
「…………高尾くんって兄だったりするのかな」
「あっ、わかります〜? 和成サンはオニーチャンなわけよ。かんわいい妹ちゃんがいるんだぜ。二人兄妹!」
続けて「雫サンは?」と高尾君に訊かれた彼が「雫サンはずっと一人さ。二人になったことはないよ」と答えたのを、小さく切り分けて口に含んだお好み焼きを咀嚼しながら聞いた。雫君はいかにも一人っ子という感じだ。
「やり返そうとかは思わなかったの?」
尋ねたのはカントクだった。雫君は数秒思考した後、噛んでいたものを飲み込んで「小学校の教師になりたいと思ったことはありましたね」と至って普通の調子で答えた。
「ああ、もう同じ目にあう子供がいないように、って教師を目指す人は割と多いみたいね。私の知り合いで教育学部へと行った人がそう教えてくれたわ」
「いえ、僕は素晴らしい人間ではないので」
「……違うの?」
「僕をいじめた人たちだって将来は結婚して子供を授かりもするでしょう。ですのでその子らが小学校へと入った時、同じことをしてさしあげようと思いまして」
彼はごくごく普通に「『子供は何も悪くないじゃないか』なんて責め立ててきたら傑作ですね」と微笑を浮かべる。ほとんどの者の顔は引きつって糊で固められたようになっていた。
「まあ、そんなわけで」水が八割ほどまで入ったコップを手に取った雫君が半分まで水を飲んだ。
「それらを笑っていたことを今日津川くんは謝ったんだよ。それで和解に時間が必要だったんだ。今こうして君も先輩たちも酷い事だと顔を歪めてくれているけれど、それは物事を考えられるようになった
年齢だからだ。一クラスに頭がおかしい者ばかりが集中するだなんて考えにくい。となれば、小学生という精神が極めて未熟な時期なら誰でもそうなる可能性があるってことなんだよ。高尾くんも、涼ちゃんも、降旗くんだって、そこの空気を吸っていたら笑っていたかもしれない」
「そうだよなー……うん、そうだよな」
そんなことは絶対にしないと言わない高尾君に好感が持てた。雫君が名前を挙げたことに特に意味は無いのだろうが、挙げられた黄瀬君は難しい顔をして隣で唸っている。「登校拒否とかはしなかったの?」訊いたのは降旗君だった。
「……どうして僕が学校から離れなくてはならない? 学校という場に
相応しくないのはあっちだよ。彼らはまるで流行を取り入れるかのように僕を
虐げた。そうしてこう言うんだ。『オマエ、宝飾店の
娘なんだろ?』……この意味がわかるかい? ふふ、大人しく自分たちを飾れってことさ! くだらないスクールカーストの上位に立ちたいがために僕を踏み台にして、買う金も地位も名誉も無い愚図めが欲望だけは人一倍に飼って装飾品を欲しがったんだ」
人が多くいるこの場で堂々と愚図だなんて言葉を発したことに驚いて、思わず黄瀬君と顔を見合わせる。緑間君は何も変わらずお好み焼きを口に運んでいた。
「彼らはまるで国宝かのようにそれはそれは素晴らしく僕を扱ってくれたよ。先も言った通り、ある時は水洗いもしてくれたし、ある時は大切にしまい込んでもくれた。僕が娘だからとご丁寧に女性用の個室に、だ。季節は夏で、夜になってもなかなか気温の下がらない日だった。もう想像はついているかい。真夏、冷房が無い場所で水も飲めずに放置されたら、叫ぶのを止めて懸命に意識だけは保とうとしていてもそのうち倒れるさ。夜になっても帰宅しない僕を心配した両親が学校まで捜しに来なければあのまま死んでいたんじゃないかな」
雫君はそこまで言うと小さく切り分けたお好み焼きを口に含んだが、なぜだか『それでもよかったけれど』なんて言葉が続いていそうだった。「高尾くん、ソースをかけすぎているよ。少ししょっぱい」「えー? いーじゃんいーじゃん。上手に焼けてはいるっしょ? あ、鰹節乗せたほうが旨いって。ホレ」「なっ、い、生きている……!?」生きている!? じゃない。雫君は自分が今何を話していたのか理解しているのだろうか。
今まで完成された料理を食べていて鰹節の踊りを見ることがなかったのかもしれないが、いくら何でもマイペースすぎる。……まあそれが雫君ではあるけれど。
「色無っち!」
黄瀬君が声を上げて雫君を呼んだ。
「うんー? あ、高尾くんめ、それは僕が残しておいたやつなのに」
「鉄板の上は戦場だぜ?」
「……えっと、あの……娘って? 色無っちって男……スよね?」
「女だよ。僕の名前が中性的だから気づかなかったのかい?」
「はぁああああ!?」
黄瀬君の絶叫にも近い声が店を震わした。わかりやすくダラダラと汗を流し始める黄瀬君は、今までの雫君とのやり取りや接触を思い出してでもいるのかもしれない。
「今まで女の子たちに告白されても断るしかなかったのは僕の恋愛対象が異性だからなんだ。一人称が“僕”なんて可笑しいと笑うかい?」
「えッ、いやちょっ、あの、今までゴメン。どうしよ、オレ、えっ、責任かな、責任とったほうがいいスかね黒子っち!? 回し飲みとかフツーにしちゃったし怪我もさせてるし」
「何でボクに訊くんですか」
目を回す黄瀬から視線を
逸らして、お好み焼きを箸で摘まむ。口もとまで持ってきたそれに数度息を吹き掛けてから「というか雫君はれっきとした男ですから」と言い、それを口に運んだ。食べるのが遅いせいか、下側は少し硬くなってしまっていた。焦げのほろ苦さが不快でない程度に舌を刺激する。
「いや、だってだって…………ん?」
「合宿で一緒にお風呂入っているじゃないですか」
きょとん。まさにその言葉が似合うような表情だった。彼がよくするばっちり決まったウインクとは程遠い瞬きが二度あった後、彼の肩が小刻みに震えだす。「い〜ろ〜なしっち〜〜!」席を立って座席の方へと行った黄瀬君の背中を見送った。
「どうして娘なんてからかわれていたんですか?」
「色無は小学校入学まで自らの性別を誤認していたらしいのだよ。大方、自分は女だと言ってしまったのを拾われたのだろう」
「はあ」
「何なのだよその返事は」
「……いえ、そんなことが本当にあるのかと思いまして」
緑間君の目が鋭く細まる。疑ったことで彼を不快にさせてしまったのかと思ったものの、どうやらそうではなさそうだ。しかし彼がこれ以上の追及を許さないことだけは理解ができた。
「おかえりなさい、黄瀬君」
「ただいまー……黒子っち」
「どうでしたか」
「どーもこーもないスよ。いつも通り流されただけっスわ。本人は高尾君の放るお好み焼きに夢中」
疲れたようにため息をついた黄瀬君に「そうでしょうね」と返して、口に含んだお好み焼きを咀嚼しながら座席へと目を向ける。
通常ではありえない高さまで何度も放られ、その度に数度回転するお好み焼きを前に雫君が時折手を打ったりアンコールする光景は、高尾君が乗せられているように見えなくもない。
しかし、雫君もたしかに楽しんでいるように見えて、先よりもさらに苦くなっているはずのお好み焼きも、舌に残るのはソースの甘さだけだった。
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