この器物の白き瞳にうつる 1/4
通路を当てもなく歩く。腕を伸ばし、広い廊下の壁に指の腹を当てながら歩を進めていけば、指先は麻痺したようにじんわりとした鈍い違和を訴えた。
「シーアワっセはー……あーるいってこんない……だァけど走ってくるンだねえ。いっちにっち十歩、みいかで百歩……せーんぽ進んでもまだ会えぬー」
外に出ると、ジッパーを開けたジャージの上着が風に吹かれてふわりと広がった。カントクに見られたら体を冷やすなと怒られてしまいそうだ。
けれど冷えようが構わないのだ。次の秀徳戦に出るつもりはないのだから。
初めは出るつもりではあったし、そのつもりでタローを挑発したりもしたが、それよりも僕にとって大切なことができてしまった。バスケットボールは僕にとって優先度が高いものではない。
風に乗った湿り気と雨の香りに、今朝の白猫を思い浮かべる。見上げた空を埋める雲は彼女の毛色とも、彼女が喰い殺した平和の象徴とも異なる鈍い色をしていた。降り始めるのも時間の問題だ。
小枝のように簡単に鳩の骨を折っていく姿を思い出して、クツクツと喉で笑った。
「はい、色無です」
ポケットの中で震えていたスマートフォンを取り出して、記憶を頼りに応答の方向へとアイコンを滑らせた。数秒前には笑っていた喉が出した事務的な答えを受けた相手は、「色無、今大丈夫だった?」どうやら葵くんらしい。
「うん、大丈夫だよ。ついさっき一試合終えて、次まではまだ二時間半ほどあるんだ」
「てことは勝ったんだな。おめでとう」
「ありがとう。それで、僕にどんな用事が?」
「ああ、今勉強会してるんだけどわからないところがあって。色無に訊いてみたらどうかって柿原が。迷惑じゃなかったら訊いてもいいか?」
なるほど、この土日は前期実力テスト前最後の休日だ。「聞こえますかー!」なんて声が割り込んでいるが、聞こえないことにしておこう。これくらいのことでちひろちゃんが傷つくとは考えづらい。
「僕でよければ」
「助かる。日本史の、律令政治が展開された八世紀頃について訊きたいんだ」
「
墾田永年私財法とか
三世一身法とか、そのあたりかな」
「そ。えーっと……『税や
役の苦しさに、
口分田を捨て戸籍に登録された地を離れて他国に浮浪したり、逃亡して地方豪族のもとに身を寄せる者が多くいた』って教科書には書いてあるんだけど」
「ああ。農民には兵役だけじゃなく
雑徭とかの労役、絹や特産品を中央政府に納めるために都まで運ぶ運脚の義務があったし、現代のように農業が確立されているわけでもなかったから飢饉も起こりやすくて生活は非常に不安定だったみたいだ」
言っていて、今の時代に生まれてよかったとぼんやり思った。時代には時代なりの悩みが多くあるだろうが、僕たちははるかに恵まれているだろう。まァ、だからといって今を生きる僕たちの心を苦しめる悩みがちっぽけなものであるということにもならないけれど。
「そんなことが教科書にも書いてある」
「じゃあ何が君たちを悩ませているの?」
「重要語句の『浮浪・逃亡』だけど、日本史における浮浪と逃亡の違いがわからない」
真剣に問われたその疑問に、思わずくすりと小さく笑う。
そんなこと、気にしなくてもいいのにねェ? 大抵はどちらも一括りになっているし、そもそも実力テストはマークシート方式だ。違いを何文字以上以下で答える問題など無いどころか、そんな問題を入れる隙間があるのなら租・調・庸・
雑徭の内容や量、日数を答えさせるだろう。
さて柿原ちゃんか、それともちひろちゃんか。そのどちらかがぽろっと溢した疑問を、変なところで真面目な彼らはうんうんと悩んでいたのだろう。
それを想像して少しばかり愉快な気持ちになっていると、「わ、私の質問で部活中にすみません……!」なんて声が入ってきた。珍しい、風峰ちゃんも一緒なんだねぇ。
どうやらあちらはスピーカーの状態にして通話をしているらしい。「大丈夫だよ。疑問を持つことは良いことだからね」なんて答えれば、風峰ちゃんの「ありがとうございます」と被ってちひろちゃんが「聞こえてるじゃん!?」と叫んだ。
「で、浮浪と逃亡の違いだったよね。律令では、本籍地を離れて流浪していても
賦役を欠かない……まあ調庸を出す者のことを浮浪と呼んで、出さない者を逃亡と区別したんだ。けれど発生地側は逃亡、所在地側は浮浪と捉えていたし、実際のところ差は無かったみたいだよ」
「なるほど……じゃあわざわざ悩む必要は無かったってことか」
「そうだね。浮浪と逃亡についてもう少し詳しく知りたいなら史料集を
捲ってみるといい。
資料じゃなくて、
史料のほうだよ」
息を継がず「『
続日本紀』に書いてあるはずだから」と続ければ、柿原ちゃんが「六九七年から七九一年までを編年体で記した正史!」と声を上げた。「何で年号まで覚えてんだ柿原」「ここに書いてあった」素直でよろしい。
「七一二年、七一五年、七二二年の条だったかな」
「どこだよ」
「『和銅五年春正月
乙酉』から始まっている条、『
霊亀元年五月
辛巳朔』から始まっている条、『養老六年二月
甲午』から始まっている条だよ」
「い、色無君、それは暗号ですか……?」
言っている僕も、正直同じことを思ってしまった。スマートフォンにレイキと打ち込んだところで一度で変換できるとは思えないし、同じ記号を使っているというだけで同じ国の言葉だと言うのは無理がある。
僕が古典という科目を得意だと言える日は来るのだろうか。
「そうかもしれないね。それで、ええと……もう疑問は解決したかな」
「はい、ありがとうございます。先生ですね」
「僕が? そんな大層なものじゃないよ。訊かれたことがたまたま知っていたことで安心したくらいだ」
「また何かあったら連絡しても大丈夫か?」
「もちろん。君たちの力になれるのは嬉しいことだよ。じゃあ、またね」
通話を終えようと耳からスマートフォンを遠ざける。しかし「んんん待って!?」と静止の声が聞こえてきて再び持ち直した。「ホントに最後まで聞かなかったことにしたね!?」ちひろちゃんだ。
「柿原ちゃん、ちひろちゃんは僕に何か用事でもあったの?」
「なぜ柿ちゃんに訊く!?」
「や、特に無いっしょ」
「なぜ柿ちゃんも答える!?」
そろそろ彼女も拗ねる頃だろうか。別に意地悪をしたいわけではないのだ。
「奈良時代か……そうだな、その頃の事なら『
貧窮問答歌』は押さえておいたほうがいい。農民たちの窮乏の苦しみを貧者と窮者の二人の問答形式で
綴った
山上憶良の作だ。『万葉集』に収められているよ。教科書では太字になっていないどころか補足欄に小さく書かれているだけだけど、過去問を見た限り頻出だから」
「え?」
「勉強会、その調子で頑張るんだよ」
「え!」
今度こそ通話を終える。長話をしているうちに体は随分と冷えてしまっていた。「もーどろ」誰に向けるわけでもなく発して、くるりと
踵を返す。
暖かい飲み物も売っている自動販売機を横切り、「とっとっと」やっぱり後退してその前へと立った。
両手とも指を開いた状態で同時にプッシュボタンを叩けば、出てきたのは『いちごミルク』と大きく縦書きされた薄桃色の缶だった。似合わないなァ、なんて思って小さく肩を震わせる。
一口飲んで、気のせいかとも思えるほのかな苺の味に缶を見直すと、なるほど、果汁一パーセントらしい。自称いちごミルクだ。
ああ、どうせなら開ける前にセルフィーでもキメておけばよかっただろうか。初の自称いちごミルク記念★ ……気持ちが悪いし特に送る相手もいなかったからキメなくて良かったみたいだ。
世の
間を
憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば――
甘ったるい牛乳の味を少しずつ口に含みながらだなんて嫌味のようになるかと思いつつも、『
貧窮問答歌』の一文をその甘さの中で蘇らせた。
ああ、その通りだ。しかし、なんて哀しいのだろう。
自動販売機の脇の壁に背を付けてずるずるとしゃがみこむ。
嫌なことや恥ずかしいことばかりでも、僕たちは飛び立って逃げることができないのだ。鳥のように羽は無いのだから。
触れた背中に冷たさを教えてくれているこの壁が、僕の背中に何も生えていないことを何より教えてくれていた。
(P.74)