静物のこころは怒り 4/7 


「……結構上手かっただろ? 幼い頃に――アー、厳密に言えば小学校へ入学する以前によく歌っていたんだ。これは僕が一番初めに覚えた歌だよ」


 母さんから教わったものだ。母さんはとても穏やかで、彼女に似合う澄み切った声でこれを歌っていた。僕はきっと舌ったらずだっただろうに、真似をして音を出せば彼女は慈悲深い笑顔で僕をひざに呼んだのだ。
 庭までがすべての世界だった。時折食事で外に出ることはあっても、門から外は僕にとって非現実的な場所だった。それは写真を見るようなもので、多少の興味はあっても厚い門を開いてまで危険があふれる場所へ出たいとも思えなかったし、知りたいことは入れ替わり立ち替わりやってくる教師たちが教えてくれた。
 他人ひとはこれを可哀想だとか間違っていると言うのかもしれない。しかし“知らない”とはとても穏やかなことで、平安な日々を送っていたことは確かなのだ。
 産まれたことそのものは仕方がないとして、僕の人生最大の失敗は外に出たことだ。それまでは庭に出る時ですら当たり前のように両親や使用人がそばにいたというのに、小学校入学は僕を未知へと孤独に放り出した。
 征くんとは違う下手な日本語で騒ぐクラスメイトも、僕に戸惑う教師も、ついていけない授業も、世の常識も、周りのすべてがただただ恐ろしかった。服を剥ぎ取られたような気分でさえあった。


「父も母も使用人たちもとても大切に育ててくれた。蛙やカタツムリや子犬の尻尾なんて無縁に等しかった。砂糖やスパイスやあらゆる素敵なもののほうがいつだって身近な存在だった」


 花と虹と宝石と。ピアノとハープとフルートと。ベルベットとぬいぐるみとビスク・ドールと。ケーキと紅茶とチェスセットと。そして赤髪と。
 汚いものなど、何一つとして目に入ってこなかった。


「だからね、小学校へ入学するまで自分が女だと思っていたんだ。まァそもそも性別の区別なんてつかなかったわけだけどぉ。人間には二種類いる、という認識でしかなかった。あっは! 馬鹿だろ?」


 返事は無い。てっきり笑われるかと思ったが、タローは眉根をわずかに寄せるだけだった。某カートゥーンから思い出した昔話だったが、そのカートゥーンのように面白いものではなかったらしい。
 タローも腹を抱えて笑えばいいのに。仲良くなったらしい高尾くんなんてとてもよく笑いそうじゃないか。


「僕のほうが多く話してしまって悪かったね。それで、タロー、君の話は終わったかい。そろそろ戻りたいんだけれど」


 遠くから話し声が近づいてくる。アップの時間が終わって秀徳高校の選手たちが戻ってきたのだろう。タローも気づいたようで、一瞬だけ扉へと視線を向けると「ああ」と低い声を出した。
 デビュー戦だというのに、結局僕はアップができなかった。スターティングメンバーではないだろうし、出番までに体をほぐせればそれでいいが。
 簡単な挨拶をして控え室から出るとちょうど選手たちが扉の前に来たところだった。「ここで何してんだオマエ」怖いなァ。そんなに敵意を向けないでほしい。


「タローに訊いてくださいよ。僕は連れ込まれただけなので」


 タローが薬がどうとかなんてことまで話すとは思えないけどぉ。「ぐすんぐすん」なんて欺く気すらない泣き真似を口にしてから彼らの横を通り過ぎる。「予想以上にウゼェな」なんて声が背中から聞こえた。
 嫌だなァ。どの角度から見ても僕はいい子じゃないか!


(P.66)



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