静物のこころは怒り 2/7
四方八方から途切れることのない音。それはドリブル音であったり、リングが揺れる音であったり、バッシュのスキール音であったり、試合開始を待つ観客たちのざわめきも含まれるだろう。
準決勝、対正邦高校。この試合からは会場が学校体育館ではなくなる。世田谷区に建つこの体育館はオールコート二つが中央で仕切られ、その周りをぐるりと二千三百ほどの観客席が取り囲んでいる。
現在の時点で埋まっているのはそのうちの約七割だ。満席なんてことにはならないと思うが、これからさらに増えていくだろう。
……クソ、想定よりも人が多いな。
真太郎の影響か?
「やっべぇ〜、超ビビってきた」
「会場も今までの学校体育館じゃねーし、しかも二試合連戦で相手は北と東の王者……」
「連戦以前に一つ勝てるかもキツいよ……」
選手たちに脱ぎ捨てられたジャージを畳んでいると降旗くんたちの弱音が耳に入った。君たちに出番は無いと思うけどォ、なんて言葉は喉の奥に押し込んで秀徳へと視線を向けると、火神くんと真ちゃんが互いに静かな闘志をかち合った瞳に宿していた。
「ガン飛ばす相手が違ぇよ、だアホ」
「いてえ!!」
「いくら飛ばしても次負けたらただのアホだろが」
火神くんはすぐに
主将に叱責されることとなったが、正邦高校などに負けてやるつもりは微塵も無い。喧嘩を売るのは秀徳高校でいいのだ。
「色無君、そろそろアップに移って! あとは私がやるから」
「お手数をお掛けします。今必要な準備で残っているのはカメラの設置だけです」
「了解! デビュー戦なのにちゃんとマネ業もやってくれるなんて
流石色無君だわ」
「選手とはいえマネージャーですので、できる限りのことはしますよ」
この後控え室に戻る時間があるから細かい準備はその時でいい。着ていた上下のジャージを脱ぎ、簡単に畳んでからカントクが差し出していた手にそれを預ける。突然薄着になったせいか、室温が数度下がったような感覚に襲われた。さっさとアップを始めてしまおう。
バッシュに履き替え、蛍光グリーンの靴紐をきつく結ぶ。濡らした雑巾を数度踏めば、一歩踏み出した時にはこの体育館のどの選手よりも甲高いスキール音が響いた。
「なっ……オイ緑間!」
軽薄くん、もとい高尾くんが僕を見た途端に真ちゃんの方へと駆けだした。すぐに緑の双眸が僕を捕らえる。ギロリと向けられた、とても友好的とは言えない視線に悲しそうな顔をしてみせれば、少し
狼狽えた様子で顔を背けられてしまった。ざァんねん!
「雫君、お疲れ様です」
「ありがとう、テツくん」
バスケットボールを受け取って数度その場につく。まずはレイアップからでいいか、と走り出そうとした瞬間、「うっわ、マジ髪赤ぇ〜!」と試合前とは思えない陽気な声が会場の注目を集めた。
ほとんどの者が同じ方向を見ている。しかしそれに従うことを体が拒んだ。その場から一歩も動けずにただユニフォームを握りしめる。
「こえぇ〜!」
心臓がどくりどくりと嫌な音で暴れる。それは体内の音からも、ユニフォームを握る拳に届く振動からも伝わってきた。哺乳類が一生で脈を打てる回数は約二十億回と決まっているらしいが、今僕の心臓はそれを急激に食い潰していた。
ジャージを脱いだばかりだというのに、試合が始まってすらいないのに、血液が沸騰しているのではないかと思うほどに体が火照る。まるでサウナで蒸されているように息苦しい。喉が渇く。しかし襲ってくる吐き気が水を受け付けようとはしなかった。
ふざけるな。怖いのはどっちだと思っているんだ。
自分の情けなさに反吐が出るのに、それでも苦しさに負けて膝をついてしまいたくなる。焦点がブレる視界に耐えていると、不意に「大丈夫だ」と品位のある低音が
傍らから降ってきた。
「……お前、さっきまであっちにいたじゃんかぁ」
「誰も気づいていないから仕方なく来てやっただけなのだよ」
僕の背中を
擦る手は、暑がる体にさらに熱を与えてきた。しかし
早鐘を打つ心臓は徐々に元のリズムを取り戻していく。
「薬は?」
すっかりと収まりそうになった時、一段と大きく心臓が跳ねた。
どう答えようか。「嘘はつくなよ」大きな手で頬をしっかりと掴まれてしまった。「にょ、飲んでいない……」どうやら狼狽する立場が入れ替わってしまったらしい。
「中断症候群」
「ハイ」
「説明してみろ」
「イエッサー、服薬を中止したり量を減らしたりすると強い副作用が現れる場合があります」
「そうだ。電気ショックのような異常感覚や
眩暈、吐き気、その他いくつもの症例があるのだよ。精神症状で自殺を図る者もいる」
返せる言葉も無く、人形のように大人しく立ち尽くす。
どうしたらこの状況を流せるだろうかと考えていると、「あ? 何でここにいんだオマエ」と火神君の声が割り込んできた。そちらの一悶着は終わったらしい。
よおーしいいぞぉ。どんどん言っちゃえタイガー!
「来い」
「ぐえ」
はい知っていました。他者が現れただけでそう簡単にいくはずもなかったのだ。
後ろからユニフォームの襟もとを掴まれて、体育館の外へと引きずられていく。乱暴だけどしょーごくんよりはまだマシだ。
不思議そうな顔をして僕たちを見ていたカントクに宛てたつもりの「すぐに戻ります」という言葉は、某俳優を茶化すジョークのように一音一音すべてに濁点がついていたと思う。
「
何故服薬を止めた?」
連れていかれた先は秀徳高校の控え室だった。アップの時間だからか、僕たち以外に人はいない。だとしても、はたして僕はここにいていいものなのだろうか。まァ、怒られるのは真ちゃんだろうから僕はいいけどぉ。
「眠気と頭痛……」
「そんな副作用はまだ軽いものだろう」
「それでもずっとずっとずっと続くと筆が進まなくなるんだよぉ。薬を飲んでいたって悪夢は繰り返し見るし、頭痛は酷くなる。それなら頭痛薬の一つでも飲んだほうがずっとマシだしぃ」
服薬を止めたのだってもう随分と前だ。中断症候群の危険は約一週間だが、そんなものはとっくに過ぎている。
「……頭痛薬? 処方されていないだろう?」
「されていないねェ」
「まさか市販薬などとは言わないだろうな」
言葉には明らかに怒気が含まれている。もうわかっているだろうに、性格が悪い。さて、真ちゃんは僕を殴るだろうか。
「言っちゃうかな」
引きずられてくる最中に出てしまったユニフォームのシャツをしまい直して、設置されていたベンチに腰を下ろした。真ちゃんが一層大きく見えた。
「……どうしてオマエはそうも生を嫌う」
「逆に訊くけれど、どうしてそうも死を嫌うんだ? ただの終わりじゃないか」
それは本を閉じるのと何も変わらない。
掌を眺めると、真っ先に
蘇った感触はバスケットボールではなく紙のざらつきだった。
いつの間にかこれほどまでに自分の一部になっていたのだと気づいて、喜びか呆れか悲しみか、自分では種類のわからない笑みが浮かぶのを感じる。どうしようもない孤独だ。
「何も考えられない、何も考えられないと考えることすらない。置いて行かれた者が悲しむのはわかるさ。好意を持っている人間と二度と言葉も抱擁もキスも交わせないのはつらいことだ。けれど自分自身の死を嫌う理由は? 死んだら二度と何も交わせないとはいえ、死んだらそこでぷっつりと終わるんだ。悲しみなんて持ちたくても持てない。どんな感情だって発生しないのに嫌う必要は無いだろうに。同じ“死”とはいえ、
他人の死と自分の死を混同するのは違うんじゃないか?」
話をごっそりとすり替えてしまった。はたして今のは故意だっただろうか。自分でもわからない。
疑問形で主張を終えたが、答えを求めているわけではなかった。それを真ちゃんもわかっているのか、何かしら回答を寄越そうとしている様子はない。
彼の瞬きを二回見てからようやく「そもそも僕は生を嫌ってなんかいないよ」とようやく質問の答えを口にした。
「ねえ真ちゃん」
「……その呼び名は止めろとあれほど」
「もともとは真ちゃんなんて呼んでいなかったのに帝光中学校で久々に会った君が嫌がったから変えてやったんじゃないか」
「タローだなんてふざけた呼び方をするからだ」
速報だぜベイブたち! たった今タローもとい真ちゃんが全国の太郎に喧嘩を吹っ掛けた! これは激しい戦争になるかもしれねーぞお!
なんて馬鹿なことを考えるのはやめて、真ちゃん呼びを嫌がる男に尋ねる。「じゃあ戻してもいい?」最初に返ってきたのはため息だった。
「……好きにしろ。そもそも、オレがさらに嫌がることもわかっているだろうに真ちゃんへと変えたのはタローに戻したいがためだろう」
「ええ? どうだろうねぇ」
薬や生死から話題を変えたくて真ちゃんと呼んだが、見事に
逸れたのは運が良かっただけなのか、彼が簡単なのか、それとも彼の優しさなのかはわからない。僕は運がいいほうではあるし、彼は頭が良いくせに驚くほどチョロいところがあるし、けれどやはり思慮深い人間であるのだ。どれだってあり得る。
しかしどれであろうと、思い通りにいったことに変わりはない。
「ありがとっ、タロりん!」
「誰がタロりんだ誰が! 調子に乗るな!」
「わァ。目がこーんなに吊り上がっているよぉ、たろたろたろっぴ。本家を見てみなよ。とっても丸くて愛らしい目をしているというのに。同じ緑なのにこうも違うとは。目の吊り上がり方はバタローカップだ」
「オマエのネーミングセンスはどこから湧いてくるのだよ……!」
たろたろたろっぴもバタローカップもお気に召さなかったらしい。せっかく人気キャラクターの力を借りたというのにさらに燃料を注いでしまう結果となった。わざとだけど。丸い目で緑だったらタロロ軍曹とでも呼んでやったほうがまだ怒りも少なかっただろうか。
「薬のこと、赤司に言うぞ」
「征くんは咎めないよ。例えば僕が死にたいと言ったとして、『寂しくなるな』って答えてくれるのが彼だ。優しいから止めるだなんて意地悪はしない」
「……灰崎は」
「咎めないね。『一人でちゃんとイけるかァ?』――あっは、想像に難くない。手伝ってくれるかもしれないし、一緒にイってくれさえもするかもしれない」
ここも『
Sugar, spice and everything nice...』から物語が始まるような平和ボケした世界ならどれほど良かっただろう。しかし実際に僕の周りにいる人物は純度の高いケミカルXが混ざりすぎた者ばかりだ。間違って余計なものを入れちゃったどころの騒ぎではない。
だからスーパーパワーで悪い奴らをやっつけてくれる者なんて当然いないが、それで良かったのだろう。僕はきっとやっつけられる側だ。
「タロー、知っているかい。マザー・グースでこんな歌があるんだ」
肺が潰れるほど深く息を吐いて、そしてそれ以上に吸い込む。もうこの歌を
口遊まなくなってから随分と経ち、声変わりだって迎えているがまだ声は出るだろうか。
いや、そんなことは大した問題ではない。
今となっては死骸を飲み込んだ時のような吐き気を呼ぶ歌を最後まで歌えるかが一番怪しいところだ。
自分で勝手に設定した課題ではあるが、津川くんにもタローにも、ぜひとも僕がこの足でこれからも歩いてゆく手助けをしてもらいたい。僕は僕の両足が落とされる日が来るのを黙って迎えてやるつもりなど微塵もないのだ。
声が震えていようがそれも愛嬌、でしょぉ?
多少の不安は残りつつも、ゆったりとした調子を声に乗せ始めた。
(P.64)