爪先立ちのバンジージャンプ 3/4 


Side:Tetsuya Kuroko

 火曜日の昼休み。二試合を連続でこなした土曜日の疲れはまだ残るものの、昨日きのうに比べたら筋肉痛も和らいだ。
 五時間目の授業は一学年のどのクラスも国語総合の古典だ。勉強が至って普通のボクでも国語は昔から得意な科目だと言える。今日の授業は六時間で終わるし、憂鬱な気持ちは無い。
 カントクの招集によって使われていない演習室に集められたバスケットボール部のメンバーの視線は、天井から吊り下げられたテレビへと向かっている。流されているのは昨日きのう、部活終わりに火神君と二人で見た正邦高校と北和田高校の試合のDVDだ。


「わかってたことだけど……正直やっぱキビシーな」


 先輩たちの表情は優れない。「てかスンマセン……泣きたくなってきました……」といつも明るい小金井先輩までもが首を垂れた。


「ハッキリ言って、正邦、秀徳とも十回やったら九回負けるわ。でも勝てる一回を今回持ってくりゃいーのよ!」


 その通りだと思う。口で言うほど簡単な話ではないけれど、残り数日で実力を上回れるわけでもないボクたちにはそれしかない。土曜日、雫君が言った『下剋上』という言葉を、刻むように脳に焼きつける。
 ガラリと横開きの扉が開かれた。雫君が立っている。「お疲れー」「リコ先輩こそお疲れ様です」相変わらず忙しそうだ。


「どうだった?」
「教師から言付かっています。『そろそろ会議に代理を寄越さずお前が出ろ副会長!』と」
「あっちゃー。次はちゃんと出るわ、多分ね。でもこのまま行けば三学年には色無君が会長になっちゃうんじゃない? 推薦人にも現会長がなってくれるでしょ」
「役職持ちは今年限りの予定ですよ」
「そうなの? まー、面倒だしねー」


 雫君は手に持っていたプリントをカントクへと手渡して、試合風景が流れ続けるテレビを見上げる。しかし数秒も経たずして、人望の厚い優等生らしい笑顔は氷にひびが入ったように一瞬にして様相を変えた。
 まるで針山の上に頼りない縄で結ばれて吊るされているかのように、固まった体で目の前の何かに恐怖している。しかし気温が上がったわけでもないのに火照って汗が伝いだす彼の肌は、火刑に処されている罪人も彷彿ほうふつとさせた。


「つが、津川つがわ智紀ともき……」


 薄い唇の先だけで呟かれたその言葉に驚く。あまりに小さく動いた唇は、彼の整った歯列を覗かせず、上擦った声は細い糸のように痩せていた。
 昨日きのう僕は、津川君と中学時代に対戦したことがあり、バスケを始めて間もないとはいえ黄瀬君を止めた人物だと火神君に紹介したが、彼はその試合には出ていなかった――ベンチにすらいなかったはずだ。
 赤司君が二軍用にと別の練習試合を組んで、それに同伴させる一軍として雫君を指名したのだ。わざわざ日程を被せることもないだろうにと、少し不思議だったから記憶に残っている。雫君自身、どうしてだと赤司君へと文句を垂れていた。
 それなのに、何故なぜ雫君は津川君を知っている? 月バスで特集でもされていただろうか。いや、雑誌で見かけたことがある選手を見つけただけなら、雫君のこの反応はおかしい。
 今わかった事といえば、赤司君が説明もせず雫君をあの試合から遠ざけた理由が、今雫君が怯えているものにあるということだ。


「色無、君……?」


 カントクに呼ばれても映像から視線が離れない。ついには彼は口呼吸へと変わった。肩の上下動が次第に大きくなっている。


「色無君、ねえ、ちょっと――」
「触るな!」


 カントクが雫君へと伸ばした手がパシリと音を立てて跳ね除けられた。カントクの顔がぎょっとしたものへと変わる。「僕に……触らないで……」それは懇願だった。
 ――キミは一体、誰ですか?
 そう問いたくなる気持ちを抑えて、雫君をただ見つめる。過呼吸発作でも起こしそうだった彼の体は、カントクの手を跳ね除けてから反対に落ち着きを取り戻し始めた。


「すみませんでした。少し嫌な事を思い出しまして……」
「私は大丈夫だけど……」


 五分ほど経ってからようやく暑そうに制服の上着を脱いでワイシャツ姿になった彼は、先ほど自分で跳ね除けたカントクの手を自分から取って謝罪を口にした。もう訳がわからない。


「カントク、お話したいことがあるのでこの後時間を頂けませんか」


 雫君の顔の赤みが少しずつ引いていく。口調はすっかりいつも通りの、模範生らしい落ち着き払ったものへと戻っていた。
 先ほどはリコ先輩と呼んでいた彼がカントクと呼んだのだからおそらくバスケットボール部に関わる話だ。しかしそれが今起こった出来事に関係あることなのか、それとも全く別の事なのかはわからない。
 カントクが迷うそぶりも無く了承すると、彼は何事も無かったかのように、後方の席へと静かに着いたのだった。
 ああ、ボクは白昼夢でも見ていたのだろうか。


(P.58)



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