爪先立ちのバンジージャンプ 2/4
「やっほー、元気ィ?」
女子高生のような軽い挨拶をして、待ち合わせ場所へやってきたしょーごくんを迎える。新幹線を使って約一時間。静岡は案外近いらしい。これならたまに来てもいいかもねぇ、そう思っているとしょーごくんはキョロキョロと辺りを見回し出した。
「ここだっつーの」
「ッでェ……! ……は? ……シズク、か?」
「久しぶりだねぇ、しょーごくん!」
笑い掛けると、彼は数秒固まった後、ギャハハハと駅の中で下品に笑い出した。ほらほら、そんなに大きな声を出したら視線を集めちゃうよぉ。
「うーん、似合っていないかなぁ」
「いっ、いやっ、ふはっ、そーじゃねー、……っけど、っふ、何だァそのカッコ」
「僕ユートーセーってやつやってんの」
咳払いを一つしてから「祥吾くん、急な呼び出しにも応じてくれてありがとね。とても嬉しいな」なんて言うと彼はまた笑いだした。息をするのもやっとというようにヒイヒイと空気の音を鳴らすものだから、まぁイメージチェンジには大成功したと受け取っておこう。
流石にやりすぎだったのだろうか、「だ、大丈夫?」と心配そうな表情を浮かべた親切な僕が背中を
擦ってやれば、もう限界だというように目に涙を浮かべながら殴られてしまった。僕の顔に手を出すのはこいつくらいだ。
しばらくしてようやく笑いが収まったらしい彼が「華々しい高校デビューオメデトウ」と口の端を歪めて笑った姿は、相変わらず元気に悪役をやっているらしくて安心を呼んだ。
「しょーごくんも高校デビューをしてみるといいよぉ、楽しいからさ。大事なのは中身だって言うけれど中身の一番外側が外見なわけだし、ほとんどの人は外見でしか知らないもの」
「へぇ、んなに楽しいのかよ? 考えとくわ」
「でさぁ」
息継ぎをせず『本題なんだけど』と続けようとした言葉は警察官が駆けつけてくる声に遮られた。
後ろを振り返る。おかしな行動をしている人がいるわけでも、乱闘騒ぎが起こっているわけでもない。彼らが向かってきているのはほかでもない、僕たちのもとらしい。訳がわからずしょーごくんと顔を見合わせた。
「お巡りさんっ、その人です! 灰色の髪のっ……!」
息を切らして走る中年の女の人差し指がしょーごくんを指した。ここに来るまでの間に何かやらかしたのだろうかと隣の男を見るも、この苛立った表情は心当たりがなさそうだ。
しかし「さっきそっちの子に暴力を」と続いた言葉を聞いて、「げ」と二人の声は重なった。
まさか先のじゃれあいを誤解しやがったのかクソババア……!
「僕はこのまま立っていても問題は無いか」
「んなことしてみろ、テメェのそのお綺麗な顔潰してやるぜ?」
「はいはい。んじゃ……逃げるよお!」
二人、ほとんど同時に駆けだす。
体育祭の時、リレーの集合へと遅れないようにちひろちゃんを引いた手で同じようにとった男の手は、彼女のものとは異なり、柔らかさの欠片もない。すぐに離して走ることに専念する。
かっちりと紺色の制服を
纏った姿はあっという間に小さくなっていった。
朗らかな天気のなか、仲良しこよしで逃げる優等生と不良ってどう映るのだろうか。ああ、面白い。
◆ ◇ ◆「ふう……撒けたねぇ」
古ぼけた小さなビルディング同士の奥、昼間とは思えない薄暗さのなかで風に当たる。少しカビ臭さのある湿った香りが鼻孔を
掠めた。
ビルディングの壁を這う大小様々な配管に真っ白なものは一つとして存在しない。結ばれた状態で積まれた青年誌は手に取れば崩れてしまいそうなほど劣化している。
色
褪せたプラスチック製のごみ箱を爪先で軽く蹴ると響いた音は、中が空洞であることを僕に知らせてくれた。答え合わせに蓋を取って中を覗く。相当に古い、猫と思われる死体が一つ。おっと残念、不正解だ。
生暖かさに乗って腐臭が立ち上ってきた。眠りを妨げてしまった仕返しだろう。これはこれは、失礼しました。
蓋を閉じて見なかったことにして……というのも少し非情すぎるだろうかと、近くにあったビールの空き瓶をひっくり返して中に溜まっていた雨水をどぼどぼと掛ける。ほうら、喉が渇いたろう。たっぷり飲むといいよお。「テメェ、死体にまで容赦ねェのな」嫌だなしょーごくん、僕はこの子があまりにカラカラな姿をしているから水を与えただけなのにぃ。死体を
嬲る趣味はない。
まァ、国土交通省の道路緊急ダイヤルを使わない時点で責められても文句は言えないけれど。きっと次に見つけた誰かが通報してくれるさ。
「そういやバスケしてなかった割には体力落ちてねェんじゃね?」
「していなかった割には、ね。トレーニング自体は続けていたけど部活の時間はできないし、朝と夜に少ししかできないとやっぱり落ちるよ」
割れたアスファルトの隙間で力強く咲いていた小さな花をぶちりと引きちぎってごみ箱の中へと放り込み、元あったように蓋を閉めれば弔いは終了だ。
通学路でまれに白い毛を持った猫を見かけるが、あの子は野良のはずだ。死んだらこの死体のように、ほとんど誰にも気づかれず、渇いていくのだろうか。そうしたら仕方がない、水をひっくり返して花を添えてやろう。
ここは歌舞伎町の路地裏よりはずっと綺麗だが、どこにだって
翳はある。しかしそれを僕たちなりに礼讃してやれる手持ちが今は無い。僕たちはこの場所に敬意を表してスプレー缶の一本でも買ってくるべきだろうか。
「きちんと練習は出たほうがいいよぉ」と小突けば彼は「ウルセェ」とそっぽを向いてしまった。
「で、あー、そのことなんだけど」
「『またバスケットボール始めるよぉ』って?」
「へえ、さっすがァ! トモダチ思いな君の言う通り、たまには抑えることも必要だねェ。今なら楽しめそうだ」
「ハッ、感謝しろよ、シズククン?」
誰かさんが恋しいなんて言ったのも再開を早めた理由の一つであるのだから、僕のほうこそ感謝してもらいたいところだ。しかし実際、彼の提案で休んだことは僕としてプラスになっている。「うん、ありがとう」と素直に求められた通り感謝の言葉を吐けば、しょーごくんはらしくもなくどぎまぎして「オウ」と短い言葉を漏らした。
「……ったく、調子狂わされるっつーの。でも本当にいい子ちゃんなんだなァ? 実際小さいころからさぞキビシイ
躾はされてきたんだろ?」
「わかりきったことを訊くなよ。誰の前に出しても恥ずかしくないように、なんて何度言われてきたことか!」
しかし苦だったかと訊かれれば、一概にそうだとは言えない。両親は確かに色無雫を愛していたし、実際今も愛されている。僕が嫌だと喚けば、無理に押しつけるのではなく、作法の必要性を説いてくれた。
子供は“愛の結晶”だと表現されることがしばしばあるが、色無雫は誰よりも――少なくとも、東京二十三区の中では一番――その表現に適当な人間だろうと思う。
帰宅を促すEメールも、買い与えられる服も、テーブルに並ぶ美しい料理も、頭を撫でる指の一本だって、僕という人間が実際それらをどう受け取っていようとも、彼らにとってすべて色無雫への愛にほかならない。
目の前の男と視線を合わせ、すぐに彼の体へと移す。ここまで逃げてくる最中にも見たが、動きに不自然なところは見受けられなかった。服の下にだって
痣は散らばっていないだろう。一人暮らしを始めるがために静岡の高校へと進んだのは良い選択だった。
家賃も学費もトモダチ思いな僕が出してやっているのだ、彼らしくのびのびと暮らしてもらわなければ困る。彼に似合うのは凶悪面であって、苦痛で歪んだものではない。
「金は足りているかい」
「じゅーぶんすぎるほどな。余ったのは返せばいいのか?」
「いや、貯金しておくといい。君に借金を負わせたつもりはないし、返されたって金の使い道が無いんだ。世の中には金で買える幸せも多くある。それらを買いたくなったときに使えばいい」
しょーごくんの体のあちこちを少し強めに触ってみても、やはり彼が痛がる様子はない。
先ほどの逃走劇もだが、今の僕たちも傍から見たら可笑しな光景だろう。まるで僕が男娼でも買ったか、あるいは僕が男娼であるかのようだ。
「ほとんどの人間にとって金っつーのは、テメェが思っている紙切れとは違う。シズクがオレに渡すような金額のために人を殺す奴だってごまんといる。金さえあれば死なずに済んだ奴もいる」
「存じております」
彼のTシャツを
捲る。脇腹に、薄い代わりに少し大きめの
痣が一つ。
おっ、これは僕がさっき蹴ったやつですな! 名探偵シズクの推理が光る!
日曜日なんて名前をしているのに水曜日に発売する週刊誌で連載している探偵漫画の主人公と眼鏡の形状が似ているし、そのうち『見た目は高校一年生だけど本当は君たちよりずっと年上だよ!』なんて言う日が来るかもしれない。言わないけれど。ああ、猫の件で外したのは忘れてくれ。
「ねぇ、痛い?」ぎゅう「ねーえ」ううぎゅうう「ねェねェ」うぎゅううう「痛ェわクソ」ううぎ。痛いらしい。……ぎゅう。
「ごめんね、次は
痣ができないように蹴るね」
Tシャツを下ろして彼が寄り掛かる壁の向かいに同じように寄り掛かれば、吹いた風が僕たちの髪を揺らした。鼻にこびりついていた腐臭が流される。
「なァ」と言った彼の視線を追って上を見れば細い青空があった。ここが暗いからだろうか、一層明るく鮮やかに見える。
不躾に立てられた彼の中指がそれに向かって掲げられた。
その姿を勝手にスマートフォンで写真に収めても彼は僕を咎めようとはせず、ただいつものように口の端を楽しげに歪めたのだった。
「スプレー缶、買ってこねェ?」
「大賛成だよ」
(P.57)