惑いは噛み砕くまでだ 2/4 


 ガツン。対戦前にもかかわらず細い川のように落ち着いていた体育館の中に、(かな)混じりの硬い衝突音が鳴り響いた。ボールがリングに嫌われた音とは異なる。
 あまりにも突然すぎた場違いな音に、各々おのおののペースで体を温めていた両校は手を止めて音の方向――出入り口に目を向けた。当然僕も、特に意識はせず動作の延長として音源へと視線を滑らせた。


「日本低イ、ナんデも……」


 自らの額をさすりながら不満そうに片言の日本語で体育館入りをしたのは、出入り口よりもてのひら一つ分は大きそうな人物だった。白いジャージがメラニン色素の多い彼の肌をさらに色濃く映している。
 どうやら音の正体は留学生パパ・ンバイ・シキが額を壁にぶつけた音らしい。「すみません遅れましたー」とやや違和感は残るものの、先の言葉に比べればずっと流暢な日本語を口にした彼に反省の色は無い。
 去年はいなかったというし、日本に来てから数箇月やそこらだろうか。もちろん片言ではあるけれど発音としておかしいわけじゃない。随分と良い耳は持っているらしい。


「あは」


 パパ・ンバイ・シキの登場で空気が乱れた体育館内に笑いを一つ落とす。
 早速主将キャプテンが新協学園高校の主将キャプテンと思われる人物と接触をしていた。どうやら海常に僕たちが勝ったことについての話らしい。


「なんだー、思ったよか大したことないんだ」
「カイジョー?」
「キセキの世代入ったとこ! 教えたろ!」


 僕が帝光中学校出身であることをみんなは知っている。これは聞き捨てならないと怒るべきだろうか。しかし怒りが沸いてくるわけでもなく、冷めていく自分がいることを感じた。冷静になろうと努めているわけでもない。大したことないと、そう思いたいのなら思えばいいのだ。
 非情だと言われるだろうか。……まァ、言われたところで傷つくわけでもないけどぉ。
 今最も非情と言われるべきはきっとテツくんだ。黄瀬涼太とただのチームメイトでしかなかった僕とは違って友人であるにもかかわらず、侮辱されたまま何かを言い返そうとする気配も無い。それとももしかすると黒子テツヤと黄瀬涼太も友人関係ではないのか? いや、口では毒の一つでも吐けど、テツくんは何だかんだ涼ちゃんを友人という立ち位置に置いているだろう。そのうち「イラッときました」なんて言うかもしれない。


「友人……ねェ」


 真っ先に思い浮かんだのは、火神大我とは異なり鮮烈な赤色の髪と瞳を持つ男だった。けれど“幼馴染”と呼ぶほうがしっくりとくる。幼少からの付き合いということに甘えていたせいで友情というものを育めた自信が無いのか、なんて尋ねられたら図星で口をつぐんでしまうかもしれない。
 その上、畏敬の念さえも混じっているものだから、正直自分でもわけがわからない。友人とは対等なものだと誰かが言うのなら、その誰かの世界で僕と彼は友人関係ではない。同じ目線の高さで彼と僕が景色を見ているとき、それは彼が腰を屈めてくれているからだ。
 それでも、わがままな僕にとって赤司征十郎は今も昔も友人だと言っていたい存在であった。


「ダーメですヨ、ボクー」


 パパ・ンバイ・シキの声は「子供がコートに入っちゃあ」と続く。同時にテツくんを軽々と持ち上げてしまった。パパ・ンバイ・シキがテツくんに気づかず衝突でもしたのだろう。わざと挑発するようなことを口にしていた先の人とは違って、どうやら本気で勘違いをしているらしい。
 たしかにテツくんはバスケットボールプレイヤーとしては随分と小柄だけれど、一般的な十五歳男子の平均身長はある。留学生として日本の学校に来ているなら一七〇センチメートル前後の学生も見慣れているはずなのにあの様子では、日本語が上手かろうが適応能力に欠けていると言わざるを得ない。


「色無、何考えてる?」


 アップが一段落ついたらしい。降旗くんに声を掛けられて、彼の方へと顔を向ける。


「ずっとお父さんを視線で追ってたから……。や、やっぱ試合厳しそう?」
「簡単に勝てる相手じゃないとは思っているけど、勝てない相手でもないんじゃないかな。ああ、彼を見ていたことに特別な理由は無いんだ。日本語の上手さに感心していただけだよ」
「『すみません遅れましたー』なんてスゲー流暢だったよな!」


 楽しそうに笑う降旗くんに、僕も「あはは、言い慣れているんだろうね」と声を出して笑う。「だけど、僕が驚いたのはもっと別のことさ」「別……?」ユニフォームを貰っているとはいえ、試合に出場しないことがわかっているからだろうか。付き合いは浅くとも小心者であることが垣間見える彼に緊張している様子は無い。


……多くの外国人にとって、日本語の清音と濁音の発音の区別は容易じゃない。聞き取ることすらできない者も少なくないんだ。僕たちが文脈から予測して補っているだけで、よく聞くと言えていなかった、なんて全く珍しくない」
「……あ、お父さん、ハッキリ言えてたかも」
「ああ、言えていたね。それに、テツくんにこう話しかけていたよ。『ダメですよ、ボク』……とっても凄くないかい?」
「な、何が……?」


 降旗くんは少しも戸惑いを隠さず、僕に疑問を返した。「――何が? あはは、全部がだよ!」からからと先ほどよりも大きく笑えば、困惑の表情は一層濃くなった。


「素晴らしいよ。というたった一文字を相手に語りかけるものとして使いこなせているのも、通常Iとして使うはずのボクという言葉をyouの意味で使ったのも。小学生やそこらならまだしも、二メートルもある外国人に『ボク、どうしたの?』なんて話し掛ける人もいないだろうに、一体どこで学んだんだか。何年日本にいるんだ? なんて思ってしまった」
「たしかに……。凄いこと……かも?」


 かも、などではない。セネガルは多言語国家であるらしいが、それゆえに言語の学習には慣れているのだろうか。セネガルで公用語として使用されているフランス語で「Très bien!」とでも褒めておけば彼の学習方法について聞けるかもしれない。
 いや、彼と会話したいとは思わないけどぉ。
 そんなことを思いながら腕時計を確認すると試合開始の午前十時が直前まで迫っていた。体育館の時計も同じ時刻を指している。


「っと……のんびりしている場合じゃなかった」


 小走りで準備を再開する。
 立夏より一足遅く、誠凛高校男子バスケットボール部の夏はここから始まるのだ。きっとそれは青い春を煮詰めたようなものなのだろう。
 梅雨つゆの訪れは遠くない。雨止まぬ時期となる前に、せいぜい僕はこの不自由を楽しむとしようか。


「私が殺されるのも時間の問題だ」


 細めた目は愉悦か悲痛か、それとも別の何かか、自分でもわからない。
 ただどこかの登場人物のように独りちた唇は、確かに吊り上がっていた。


(P.47)



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