せめて楽しいふりをしよう 2/2
「失礼します」
誰に向けたわけでもなく、ほとんど一人言のように呟いて保健室の扉を引く。一つだけカーテンで隠されたベッドは、先ほど柿原ちゃんと戯れたその場所だ。
血でシーツを
汚してはいなかっただろうか、汗臭くなってしまってはいないだろうか、なんて今さらながらに不安がよぎる。
まァ、もし問題があったのならそのベッドに運ばれていないだろうし、大丈夫だとは思うけどぉ。
「井筒先生、いらっしゃったんですね」
硬そうな長いソファーに深く腰掛けて寝息を立てていた人物へと声を掛ければ、頓狂な声を上げて驚くと同時に
鞭で打たれたように背筋が正された。
「風峰ちゃんが起きるのを待っていてくださったんですか?」
「ね、寝てました申し訳ありません……」
「先生は感謝されこそすれ叱責されることはしていませんよ」
「ありがとう……」
「入ってきたのが僕ではなく教員だったらわかりませんが」
「で、ですよねえ……」
「ですねえ」
寝ているところを見られたからだろうか、生徒に接するにしては少しよそよそしい態度の彼女との会話はそこで途切れた。消毒液の香りが鼻先を
掠めているのを感じながら「ああ、そうだ」なんてわざとらしく言ってソファーの後ろに回り込めば、日本刀でも襟から差し込まれたようになおさら彼女の背筋は真っ直ぐ伸びた。
「ご自身の寝顔をご覧になりますか?」
スマートフォンを彼女の顔の横でゆらゆらと振る。「撮ったの!? 消去求む……!」わァ、見事な慌てっぷりだ。
彼女はすぐさま立ち上がり、日本人女性にしては高い身長で僕のスマートフォンに手を伸ばした。しかし僕も同じく手を天井へと向けていれば指先も
掠らない。
意地悪をしているとわかっていても彼女が跳ねるタイミングで僕も跳ねるのを続けていれば、数分の攻防も虚しく彼女は降参してソファーにどっかりと座り込んだ。彼女のわずかに上がった息だけが近くの音として存在していた。
「嘘ですよ」
「嘘?」
「盗撮の趣味なんてありませんから、僕は」
証拠としてアルバムのアプリケーションを開いて、今日撮影した写真の一覧を見せる。「でしょう?」今日一日だけで写真が随分と増えてしまった。近いうちに整理をしなくちゃねェ。
「これとこれと……あとここからここまで」
「……何ですか?」
「欲しい」
「度胸あるな」
おっといけない、思ったことがするりと口を
衝いて出てしまった。「まずどうやって差し上げるんです?」「それもそうか……無念……」案外諦めは早いらしい。
再び会話が途切れたところで、風峰ちゃんが寝ているであろうベッドを隠すカーテンを少しだけ開ける。背を向けられていて顔色を
窺うことは叶わないが、苦しそうな様子は無い。
回り込むことももちろんできるが、それは可哀想だろうと大人しくそこで丸椅子に座った。
「学年リレーの報告に来たんだ。君の代走はちひろちゃんが務めてくれたよ。本当は君を保健室送りにした僕が担うべきなんだろうけれど、アンカーは代走になれないみたいでね。五十メートルの担当は走ることが苦手な人が多いからか、もともと速い彼女は面白いほどに独走していた」
わずかに下がっているブランケットを肩まで引き上げた。外は蒸し暑いが室内は冷房が利きすぎていて、急速に汗が冷えていく。
「最初に応援してくれたのは君だったね。心配しないで、きちんと上手に走ってきたんだ。前の人を越していきながら、僕ってこんなに速く走れるんだ、なんて正直驚いた」
何百メートルもの距離を全力疾走するだけでなく、誰かと競う機会など、体育の授業でなければそう無い。しかしその貴重な機会を今まで吐いて捨ててきていたのだ、比較などできるはずもない。
小学生。律儀に見学していた。体操着は何度も購入した。物語を考えていれば時間が過ぎるのはあっという間だった。
中学生。欠席が増えた。体操着は購入すらしていなかった。帝光では遊んでくれる奴がいた。その男は灰崎祥吾という名前を持っていた。
「そろそろ戻るよ。……ああ、スポーツドリンクを買ってきたんだ。起きたら飲むといい」
持ってきたスポーツドリンクと彼女のスマートフォンをベッド横の荷物籠に入れる。「何か困ったことがあれば
委員長を呼べばいいさ」始終動かなかったその背中から視線を外してカーテンを引けば、金属製のレールが控えめに
擦れる音を立てた。
「……色無君さ、君って本当に十代?」
扉に向かっていると、今度は井筒先生から口を開いた。「老けて見えますか?」同じく質問で返せば、「そういうわけじゃないんだけど……」と煮え切らない答えが返ってくるものだから、にっこりと唇の端を上げる。
「周りの子よりも大人に見えるところがあるから……。輪から一歩引いている子は沢山いるけど、それとはまた違うものを感じる時があって」
「ええ。僕、実は二十二歳なんです」
「それこそまるで無理矢理子供みたいに振る舞……んッ!?」
「一九八七年――昭和六十二年一月十六日に生まれた、干支ならば
丁卯の山羊座です。とっくに結婚できる年齢なんですよ。どうですセンセ、僕と将来を誓い合うのは」
「待って待って待って待てぇい、ウェ〜イ! ト!」
首を絞められた時に漏れるものにも似ている殺した息が、僕の鼓膜にそっと触れた。やっぱり起きていたか、なんて先ほど閉めたカーテンの奥へと、顔は目の前の彼女に向けたまま一瞬間だけ視線を滑らせる。
自分で訊いてきたにも
拘わらず、彼女は交通誘導員のように大袈裟に手を振って僕を止めた。
「嫌だな、まさか本気にしたわけじゃないでしょう?」
「ああ、冗談か……」
「でも年齢について、もし僕がそれを本当だと言ったら、いや、僕が言わずとも僕の周りに転がる
数多の情報がそれを本当だと示したら、先生、貴方はどう思いますか?」
「えっ、んー……年が近くなったなー、みたいな……?」
「年上ならではですね」
口ではそう言いながらも、そんなに軽くていいものなのだろうかと考える。僕自身、年齢差は特に気にしたりはしないが、たった一歳違うだけで厳しい上下関係がある学生という身分において、十五と二十二は性別の違い以上に異なる生物のように捉えられても何らおかしくはない。
「そろそろ戻ります」
「おかげさまで私はすっかり目が覚めました」
「それは何よりです。では、失礼しました」
扉を締め切る。歩き出そうと体の向きを変えると突然地面が柔らかくなってしまったかのような浮遊感が襲ってきて、その気持ち悪さに耐えるがために
瞼をきつく閉じた。視界が無いなかで伸ばした腕はすぐに壁を見つけ、僕に安心感をもたらした。
もし僕が正者として命を与えられていたのなら、今この時支えてくれる友の一人でも隣にいたのだろうか。いや、正者であったのなら僕はここにいなかったはずだ。
「やあ、元気? 俺だよ」
眩暈が収まるとすぐにスマートフォンを取り出して、最も信頼のおける人物へと電話を掛けた。授業中かもしれない、しかしそんな不安は数回の呼び出し音の後で覆された。俺の発信はすくわれたのだった。
「少し先の未来、厄介なことになりそうでさァ……」
「
燻りだした火種は色無雫かな」
「……そう」
「お前の問題だろうに、その火種が
爆ぜる時は周囲を巻き込むんだ」
「そうだよ。いつかは
爆ぜる火種だけれど、それはもっと遠かったはずなんだ。それなのにそれが火種とも想像できず、酸素を供給する奴が近く表れるかもしれない」
きっとその者は悪意の皮など一枚も被っていないのだ。
あくまで可能性の話であるからして、そのような事になるという確信など無く、わざわざ僕という人間の根に興味を持つ者がいるとも思えないから辿り着かれるとも思わない。
しかしあの井筒という非常勤講師の言葉が俺を動かした。
「……ったく、世界ってのはつくづく生きづらく創られているものだねェ」
壁に背を付けていた状態からずるずるとしゃがみこむ。
テツくんだったらきっと真面目に拾って俺を励まそうとしてくるはずのその言葉も、電話の向こうの彼は水彩絵具で描かれた風景画のように穏やかに笑うだけで、それは心地好さを生んだ。彼にとっても世界は特別生きづらく創られている。
「それで、僕は何をしたらいいんだ?」
「訊くまでもないだろうに。君の判断に委ねるさ」
「そんなに大切なことを?」
「あっは、大切なことだからだよぉ。……な?」
これでいい。
人に頼りすぎ? 自分の考えを持て? 俺は俺の判断で行動を
委ねた。それを選択と呼ばずして何と呼ぶのか。
スマートフォンの向こうから承知をした声が聞こえて、感謝を返す。
一言二言の雑談の後、俺からのふざけた質問に彼は小さく笑いながら「お前と同い年さ」と答え、そうして短い通話は終わったのだった。
「――征くんさぁ、君も十代じゃなかったりする?」
「纏足――聞いたことあるよな? 古代中国の悪習だ」
「操り人形の糸を切ったの」
「足が大きくなってしまわぬよう、幼少の頃から足を布で強く縛るんだ。正しく言うなれば足の指を折り曲げ続けることによって足を変形させる」
「そうしたら動かなくなっちゃった」
「もしも、だ。首輪で試したらどうなる? 最初は余裕があっても、成長に伴って緩やかに窒息していくのか? それとも死を避けたい体は成長を止めてくれるのか?」
「私は自由にしてあげたかっただけなのよ」
(少年i 作/赤司征十郎 邦訳『ミセリコルデにくちづけを』 原題『misericordy』)
(P.45)