どうせ悲しい人の世ならば 2/4
昼時もとっくに過ぎた頃、二人に付いていった先のファミリーレストランで「ご案内致します」と事務的な口調で慣れた愛想笑いを浮かべるウェイトレスに案内されたのは、二人の幼い天使が頬杖をついた絵画が飾られている、壁に面したテーブルだった。この絵のタイトルは何だったか、と頭を悩ませながら手前の椅子にジャケットを掛け、自分で引いて座ると二人は向かいの硬そうなソファーに座った。
「荷物、こっちに置きましょうか」
「隣の椅子に置くよぉ」
奪っていたサングラスを外して、涼ちゃんのシャツの襟に提げる。彼も彼でまるで物々交換のようにベースボールキャップを脱いで僕の頭に戻すものだから、「被りながら食べるわけないでしょぉ」なんて言ってそれも荷物の紙袋同様隣の椅子に置く。もちろん、紙袋の中身はさっちゃんへのプレゼントだ。
ラファエロ・サンティの絵だってことはわかるんだけど、と引っかかりを覚えながら、絵の天使につられるように頬杖をつく。倫理の教科書の表紙の《
Scuola di Atene》といい、やはり盛期ルネサンスの三大巨匠の一人と言われるだけあって彼の作品を目にする機会が多いのは当然のことなのだろう。
「イタリア料理のお店なんだねェ」
絵画からテーブルに広げられたメニューに視線を移して口を開く。一部例外はあるものの、整った盛りつけがなされた料理の写真が、黄味がかった明かりに照らされた厚紙に所狭しと並んでいた。
「色無っちはこの店知らなかった?」
「名前だけなら知っていたよぉ。ついこの間、代表取締役社長が退任して代表取締役会長に就任したって耳にした」
「オレらはそれがわからないんスけど」
「僕も何で知っているのかわからない。ネットニュースかなぁ」
情報に埋もれすぎているせいなのか、情報源があやふやになってしまうことがしばしばある。もしかしたらテレビだったかもしれないし、愛想笑いを浮かべながら流し聞いていた話の中の話題の一つだったかもしれない。脳が思考のための器官ではなく、ただの容器になりかけている。
この先加速度的に情報社会は発展していき、もう十年、二十年後にはとっくに僕たちの思考は停止しているかもしれない。十年後、二〇一九年――言葉を換えようと、感覚として掴むことができない。平成は続いているだろうか。人はまだ働いているだろうか。この国は武器を取ってはいないだろうか。
そこまで思考を巡らせたところで、ここに来てまで考えるようなことじゃないか、とパソコンやスマートフォンで開いていたタブを交換するように頭を切り替えた。すぐに脇道に
逸れて考え込んでしまうのは僕の悪い癖だ。
「……価格ってものがわからなくなってきた」
先日の村上牛のステーキ、イベリコ豚のカツレツ・キャビア・トリュフ・フォアグラのサンドウィッチ、そしてこのイタリア料理など、ここ最近出会ったもののその暴力的とも言える安さに自分の価値観が大きく乱される。
もしここが海外だったのならチップ有りきだからとまだ理解はできるものの、この日本という国では一般的にチップ文化なんて無かったはずだ。十五年間この国で生きてきたのだからその認識に誤りは無いはずで、やはり何度見直してもゼロがもう一つは付いていても全くおかしくないそれらに困惑を隠せない。
「あー、安いっスよねー。まあその分、味は
高級レストランと比べちゃ駄目っスよ」
「でも値段以上の味ですから、好みはあれどどれを選んでも大きくハズレはしないです。
大衆向けレストランの中では高水準だと勝手に思っています」
テツくんの手によって
捲られたメニューはパスタのページへと移る。イタリア料理は特に食事の順番を気にするが、
大衆向けレストラン、その上ランチなのだから、多少順番が変わろうが、
一皿目のメイン料理であるパスタが主菜である
二皿目のメイン料理に変わろうが、問題は無いだろう。制限中なのにパスタを食べた後で
肉料理あるいは
魚料理を食べてしまったら週末に泣きを見るのは自分だ。
「コースを前提にしていないはずだから絶対に一皿で一食分の量になっているはずだしぃ……」
大きく分けて
前菜、
一皿目のメイン料理、
二皿目のメイン料理、
野菜料理、
デザート、コーヒーと続くイタリア料理ではあるけれど、サラダを
野菜料理ではなく
前菜にしてしまおう。文句を言う人はここにはいない。
「色無っちなら食べられるんじゃないっスか?」
「容量の問題じゃないしぃ。……モデルだって制限くらいするでしょぉ? 三日前のステーキで今週キツいの」
「もっと太ればいいんスよ。……痛い! ちょ、待、そこ
脛! 色無っち! 蹴ってるのそこ
脛!!」
テーブルの下で窮屈そうにしているに違いない長い脚をガシガシと攻撃する。「僕の気も知らないで!」と男らしい節のある手の皮をきゅっとつまんで八つ当たりをしてみても気分が晴れるはずはなかった。
「ほら黄瀬君駄目じゃないですか。キミのせいで雫君がおこです」
「……色無っちおこ?」
「少しだけおこ」
「どのくらいおこ?」
「動画を見るときに毎回スキップができない広告が入ってほしいくらいおこ」
「地味……!!」
テツくんが勝手に作った『おこ』なんて単語が思いのほか会話に馴染んで面白くて、おこな気分はすぐに掻き消えた。何となくふわっと理解して答えたけれど、『怒る』ってことで合っていると思う。
「えっ、これペンネじゃないのぉ?」
ふと目に入ったアラビアータの写真に顔を寄せる。アラビアータといえば、ペンネ・リガーテ――側面に筋が入り両端が斜めにカットされた、ペン先のような形のショートパスタ――を連想する人が多いと思う。けれどその写真のアラビアータはショートパスタでもカットが斜めになっていない。エリコイダーリ――両端が真っ直ぐカットされた、少しだけねじ曲がっている筒状のショートパスタ――が使われている。エリコイダーリに合うのはトマトソース系とされるだけあってもちろんアラビアータも含まれるが、ペンネ・リガーテの代表メニューがアラビアータなせいか、エリコイダーリのアラビアータを目にする機会は少ない。というかそもそもエリコイダーリ自体、イタリアでも地元住民くらいしか口にしないと思う。まさかファミリーレストランで使われているとは思わなかった。
「僕はこれがいいなあ。エリコイダーリなんていつぶりだろう。楽しみだよぉ」
「オレは季節限定のにするっス。黒子っちは?」
「定番のドリアにします。量もちょうどいいので」
「僕はサラダも頼むけれど一緒に食べる? えーと……小エビが入っているこれなら
前菜代わりになるかなァ……?」
ページを戻り、看板メニューなのか特に大きく載っていた大皿のサラダを指先で叩く。サラダの中では一番人気らしく、クラウンが描かれていた。写真ではよくわからないものの、カクテルサラダというくらいだからカクテルソースがかけられているのだと思う。
「ありがとうございます、いただきます」
「正直野菜のこと頭に無かったっスわ……」
「じゃあ君は食べない?」
「食べます」
即答した彼に「取り分けはよろしくねェ」とビジネスライクな笑顔を向ける。「ソフトドリンクは?」「炭酸水がいいなぁ」「ドリンクバー、三つでいいっスか?」「はい。じゃあコールボタン押しますね。……雫君押します?」「舐めているだろ」「たまには先輩面してみたいんですよ」「じゃあオレが押」「もう押しました」「酷い!!」男子高校生三人、くだらないと吐き捨てられても言い返せないような中身の無い
戯れに興じる。
ウェイトレスはすぐにやってきて、特に何かを考えるわけでもなく涼ちゃんとテツくんがオーダーする様子を眺めていると、まるで立ち並ぶ背の高い棚の中で目当ての本が見つかった時のように、天使の絵画が《
Madonna Sistina》であることが記憶の奥から引き出された。
額縁の中の赤黒い翼を持つ二人は退屈そうに上方を見つめているが、この絵画はそれが絵の全体でもなければ、二人がメインなわけでもない。実際は横長ではなく、この上に幼児のキリストを抱く聖母マリアと聖人二人、背景として何十人もの天使がぼんやりと描かれた縦長の絵画だ。
この作品ほど芸術と宗教の融合あるいは
乖離の議論となった絵画はほかに存在せず、征くんは『世界で最も素晴らしい絵画の一つ』と称賛していたこともあった。もちろん異論は無い。
別の場所の壁にはラファエロと同じくイタリアの画家であるフラ・アンジェリコの《
Annunciazione》、サンドロ・ボッティチェッリの《
La Nascita di Venere》などがあったが、ウィリアム・ブグローの《
L'Amour et Psyché, enfants》があるあたり、イタリアの画家に縛っているわけではないらしい。もしくはフランスの画家でもイタリアに留学していたから良し、ということなのかもしれない。その選択にこだわりを感じるべきなのか緩さを感じるべきなのかは美術にもう少し明るくなってから判断しようと思う。
テツくんと涼ちゃんがソフトドリンクを汲みに立って一人になったテーブルで、手持ち無沙汰を慰めんとスマートフォンを取り出し、サーチボックスに『William Bouguereau』と打ち込む。ずらりと並んだ絵画はどれも柔らかな肌が光に優しく照らされていた。
「きゃー、雫クンのえっちー」
後ろからの声に顔だけで振り向く。裏声で雑に女の真似をした涼ちゃんは、両手にグラスを持ったテツくんが奥に座るのを待ってから彼自身も席に着いた。
「こっちが雫君のグラスです」
「ありがとねぇ」
テツくんが僕の目の前に炭酸水が入ったグラスをそっと置いた。ドリンクサーバーのタンクからグラスへと注がれ、圧力が下がったことで生まれた二酸化炭素が昇って昇って、昇り切って空気に霧散していく。グラスの側面を一周する網のような模様は檻にも見え、当たり障りのないようにデザインされているはずのそれにわずかな嫌悪感が
滲んだ。
生まれざるを得なかった気泡たちの中には、自らの軽さ
故に押し上げられるもの以外にも、その檻にしがみつくかのように内側にくっついているものがある。強い圧力の中では液体中に溶けて姿を見せず、圧力が低下したことで現れ解放を望むかのように上昇していく気泡は、傍から見れば自滅しているかのようだった。
いや、空気中に出ただけで二酸化炭素が消えて無くなったわけではない。檻と言うくらいなら自由になったとでも表現しようか。となると檻にしがみついているもののほうが
滑稽な存在なのかもしれない。
けれど液体の中だからこそ二酸化炭素は気泡という形での輪郭が存在していることは確かで、囚われなくなったものはもう目に見えず、触ることも、存在を確認することもできないのだ。
どちらがいいのかなんて今の僕にはわからない。そもそも二択かすらも視野の狭い僕にはわからない。……まァ、炭酸飲料にどちらがいいも何も無いけどぉ。
「で、涼ちゃん。僕が何だって?」
「えっち」
「ふむ、えっち。……僕はえっちに引っかかることをしていた覚えは無いよぉ? どんな行為が君の考えるえっちに触れた? それは褒め言葉として使った? それとも非難していたのかな。ねえ、僕はえっち?」
「いや、あの、すんませんっス。そう平然と繰り返されるとこっちが照れるっていうか」
少しは期待された通りに振る舞ってやろうと、節くれ立った彼の指先に僕のそれを交互に通す。
掌は互いにテーブルから離れず、真っ直ぐに一繋がりになったそれは雑に編まれた布のようによれて見えた。彼の手の甲に横たえている指の腹を引き寄せれば、彼の皮膚は寄せられていくつものしわが生まれる。
「マジすんません、死んじゃう」
初恋の味を舐めた乙女のように、その大きな
体躯が
萎んだ。もしかしたら僕が養分を吸い取ったのかもしれない、なんて特に面白いわけでもないことを考えながら指を引き抜く。
「きっとキミが見ていた画像の絵の女性が裸体だったことを言っているんじゃないですか?」
「ああ、そういうこと……」
納得してスマートフォンを机に投げ出す。そこに表示されているウィリアム・ブグローの傑作の一つ、《
Nymphes et un satyre》を二人は覗き込んだ。
「たしかに彼女たちは綺麗だと思うよぉ」
「色無っちはこういう顔が好みなんスか?」
「好み? そうだねェ……好ましいから好みなんじゃないかなぁ」
涼ちゃんの指先によって拡大された、髪紐を付けた二人の女性を前に曖昧な返答をする。「この顔って一般的な視点として綺麗に見えない?」と訊き返せば、「スゲー綺麗っスけど……」と彼も僕と同じく掴みどころの無い答えを返した。
「色無っち的に『この顔いい!』みたいなのは無いんスか? オレ、二人の女の好みがわからないんスけど。色無っちが中学のとき外で遊んでいたのは知ってるけど彼女を作ったって話は聞かなかったし、黒子っちは桃っちに言い寄られてんのに顔色一つ変えないし」
テツくんと顔を見合わせる。さっちゃんは料理のことさえ個性とでも思っておけば文句の一つも出ない玉のような子だ。テツくんが実のところどうだかは知らないし興味も無いけれど、僕自身が彼女に対して恋愛感情が少しも湧かないのはおそらく障るところが無さすぎて目につかず、右から左へと流れていっていたからだと思う。
そもそもどんな顔が好みかだなんて、見ていて不快感を覚えないものであれば何でもいい。眼球が付いていなくとも、口が裂けていようとも、鼻が削れていようとも、僕が求めているものに関係するわけじゃない。
「雫君は年上が好みなんじゃないですか?」
「そうなのぉ?」
「そうなの、って自分のことっスよ……」
「『何回か会っていた女がさぁ、まさかの隣の中学の教師だったの! 相手も僕の年齢を知らなかったしお互い様なんだけどぉ』ってけらけら言っていたことがあったじゃないですか」
何事も無いかのように言う彼に「あー……そんなこともあったねぇ」と記憶を呼び戻す。あれは中学三年生の時だったし、もしかしたら高校生とでも思っていたのかもしれない。違法なことに変わりは無いけれど。中学生に手を出すなよ。「きゃー、雫クンサイテー」うるせえ黙れ黄瀬涼太。
「あと中二のときの教育実習生さんで一人、キミに対応がとてもどぎまぎしていた方がいたのを覚えています」
「人間観察お疲れ様ぁ」
「は!? オレそれ聞いてないんスけど!?」
「言ってないっスもん。『今日やってきたあの教育実習生、遊んだことあるんだよねぇ』って言うの? 言わないよぉ。初日で征くんにバレて叱られたしぃ。明らかに未成年の僕を引っかける女も同罪じゃなあい? 僕と一緒に正座するべきだったよ」
たしかに思い返してみれば年上が多かったかもしれない。きっと遊びということを
弁えている人が年上に多かったからだと思う。甘酸っぱさや爽やかさの欠片も無い、粘度の高いグロテスクな関係ばかりだ。
「キミよく正座させられていましたよね……。『正座は苦手なのにぃ』ってぶつくさ言いながらも科された時間分きちんと正座する姿も、足が痺れて介護される姿も、最高に似合わなくて笑えました。今の見た目ならまだしも、あの頃はヤンキーって言っても過言じゃないですからね。制服を気崩すどころかまともに着ないで」
人聞きの悪い。髪色だけで言ったらテツくんやらさっちゃんのほうが派手だし、私服のパーカーをカーディガンやセーターの代用にしていただけで、冬服期間はきちんと校章の入ったジャケットだって羽織っていたしぃ。
「ミーティングルームの床はきっと世界一硬い材質で作られているんだ。立ち上がらせてくれるのが一番上手なのはやっぱり体格がいいあっくんで、まァ……ほかの人と大差があるわけじゃないけどぉ。ただし黒子テツヤ、テメーはダメだ」
「重いんですよ」
「持ち上げている途中で落とす奴があるかってのぉ。手が離された瞬間の絶望といったら」
何とか座った体勢のままで耐えていたのに、崩れ落ちればついには倒れざるを得ない。共に倒れるならまだしも、「あ、無理です」なんて諦めたのは腹が立……おこである。
「生まれてきたことを後悔する生まれたての小鹿っスか?」
「誰が上手いことを言えと」
すっかり色恋から話題が
逸れていることに気づきながらも、正すことなく会話を進めていく。愛だの恋だの、僕が苦手なその手の話を持ち掛けられても『多分』だの『気がする』だの、返答は曖昧なものばかりになってしまうだろう。
届いた大皿のカクテルサラダを小皿に取り分けだした涼ちゃんを見て、お前こそ毎回長く続かないくせに、なんて心の中で毒づいた。
(P.41)