水溜まりは空ばかりで僕たちを上手く映さない 2/6
体育館の玄関先で「地区違うから次やるとしたらインターハイ本番スね」と
主将に握手を求めた笠松さん。
主将は差し出されたその手をがっしりと掴んだ。
その後ろでは武内監督が誰よりも悔しそうに顔を歪めている。ただ勝利に自信があっただけならまだしも、黄瀬涼太抜きでもトリプルスコアは可能だと言っていたのだから大層屈辱的だろう。
「絶対行きます、全裸で告るのやだし」
対してこちらのカントクは、それはもう満面の笑顔を振りまく。「アハッ」と声に出した彼女からは花が見えた気がした。「よっし、行くぞ!」掛けられた号令に運動部らしく元気に返事をして
踵を返す。二歩目を踏み出そうとしたところで「色無」と僕を呼ぶ声が背中から聞こえた。
「――
マネージャーだろう?」
低い声で言ったのは怪しげな笑顔を浮かべる武内監督だった。その言葉の意味を即座に理解して、僕含め僕が呼び止められたせいで足を止めていたチームメイトたちはピシリと石のように固まる。
「武内監督……? お手伝いは試合前の誠凛が来るまでって……」
嘘でしょぉ……?
今すぐにでも頭を抱えたい僕に「そんな明確な取り決めはしてないと思うが」と、余裕な態度で彼は言い放った。初めに「誠凛が来るまでの一時間半、頼りにさせてもらおう」って言っていたよぉ!
「色無君……」
表には出さないものの、内心
項垂れるしかない僕をカントクが気を使って覗きこんできた。カントクとはいえ結局は普通の生徒だから強いことを言えないのはわかっているけどさァ……ああ……。
「――よし。大丈夫です、カントク! ほら、僕は試合していた皆さんに比べて体力なら余っていますし!」
気力は余っていませんけどぉ。
それは口に出さず、申し訳なさそうな表情の彼女に元気なことをアピールすれば、「色無君……いい子……!!」と彼女の曇った顔は一瞬で元通りになった。そうそう、その通り僕はいい子なわけぇ。
ふと彼女の後ろに目をやるとテツくんが合掌していた。……うッッわあ。凄くイラッときた。
最後に「終わったら連絡くれよ」と伊月先輩に言われ、チームメイトたちは僕を残してぞろぞろと帰っていった。誠凛の面子が帰ったことで見送りの仕事を終えた海常の人たちは体育館内へ戻っていく。
ポン、と唐突に肩に置かれた手の方を向くと無言で5番のユニフォームの人が僕を見ていた。「森山ァ!」とか練習中に呼ばれていた気がする。
「……何だ、その……アレだ。オマエが一番頑張っていたと思う」
鼻を
啜って「優等生ってツラいよな」と涙ぐむ下手な演技をしだしたその人の、いまだに僕の肩に置いていた手を取って自分の肩からそっと外す。
「エッ……無言でそれやられるの傷つくっていうか、そんなにオレに触られたの嫌だったのか……!?」
「いいから早く仕事を言いつけてくださいよぉ。そっちが僕のことを引き留めたんだからさァ……。モップ掛け? ドリンク作り? 洗濯? それとも更衣室掃除ですかァ? さァ、僕にどれをやれと?」
「は、えッ、チョッ、ちょっと待て、色、無……?」
ブツブツと「ゆうとうせい、どこだ? いいこ、どこだ?」と呟いて、彼は隣にいた笠松さんをガクガクと揺らす。笠松さんはイラついたのか、彼を涼ちゃんの時のように一蹴りして怒鳴りつけた。
「見た目からだとにわかに信じがたいが、コイツはこういう奴らしい。わかったらその、この世の終わりみたいな顔すんじゃねぇ!」
「こういう奴らしいってそんな……。いつどこで誰から聞いたんだ笠松! ウェン、ウェア、フー!?」
「あぁ!? うるせーよ、黄瀬だ黄瀬」
「黄瀬が……?」
笠松さんは「コイツ、元帝光一軍」とダルそうに親指を僕に向けた。涼ちゃんからいろいろな話を聞いているだろうに、嫌悪を向けられるわけでもないことに拍子抜けしてしまった。見定められているのかと思いきや、そういう視線にも感じない。自ら探っていくというよりも、来たものや受け取ったものを判断する人なのだろう。『去る者は追わず』……かはまだわからないものの、『
来る者は拒まず』というのはたとえぴったり当てはまっていなくとも外れてはいなそうだ。
森山さんは僕が帝光中学校出身だと聞くとひらめいたかのように、拳を
掌にポンと置いた。
「だからあの自己紹介の時黄瀬はオマエを問い詰めて……」
「僕の高校デビューとやらが相当気に入らなかったみたいですよぉ」
指先でくるくると髪を
弄る。次はいつ頃染めればいいのかなァ。「そんなにか?」と訊いてきた森山さんに、「僕の肩が『痛いよう』って言っていますしィ」なんて返せば笠松さんが「強く掴まれてたしな」と代わりに答えた。
「多分ですけど
痣になっていると思うんですよォ。あ、これ持っていてください」
「おう。…………んあ?」
ジャージの上着を脱いで笠松さんに手渡してから、Tシャツの裾を両手で
捲り上げて脱衣する。「おわあ」予想以上に酷くて逆に抑揚の無い声が出た。
「これ、僕にナニカが
憑いていません?」
「凄まじい呪い感」
森山さんの感想に、だよねぇ、と心の中で
相槌を打つ。両肩は指の形がグロテスクに発色していた。色も形状もおどろおどろしさは文句なしのA+だ。今ホラー系のオーディションを受けたら間違いなく選ばれる自信がある。
ドクター・イロナシからアクター・イロナシへと転身か? ……いや、今日はドクター・イロナシとか言っていたら本当にドクター紛いのことをする羽目になったし、下手なことは言うものじゃないなァ。
彼と「ていうかさっき肩触っちゃったよな」「そうですねえ」「悪い」「別にいいですよぉ」と会話を続けるも一向に混ざってこない笠松さんに疑問を感じていると「脱いでんじゃねえ! せめて館内にしろ!」と押しつ……持ってもらっていたジャージをフルスイングで投げつけられてしまった。「ぎゃあ」「棒読みすんな、腹立つ!」「ギャー!」「いい感じだぞ、色無! もう一声!」「ギィヤアー!!」「なんっかスゲームカつく!!」理不尽である。アクター・イロナシは誠意を持って対応したのに。
「もー……。ていうか結局僕は何をすればいいんですかぁ?」
笠松さんが「つーかオマエも『もう一声!』じゃねーよ!」と森山さんに怒声を浴びせた(シバいた?)ところまでで特に中身があるわけでもない馴れ合いは打ち切って二人に尋ねる。唇を
尖らせながら服を着直していると、返ってきた答えは「何か適当にしてくれ」「いい感じに片づけとか」という、僕のほうが腹を立てたいものだった。
◆ ◇ ◆
「色無ー、こっちのベンチー!」
「こっち終わったらすぐに行きます!」
「おー!」
そういえば、先から涼ちゃんの姿が見えないような。
モップを暗い体育用具室の既定の場所に立て掛け、ため息をつく。外部の僕がこんなことをしているっていうのに一体どこで油を売っているんだか。『ため息をつくと幸せが逃げる』だなんて俗信があるけれど、こんな
埃臭い場所では吸い直す気にもなれない。
きっとどこかで落ち込んでいる彼の先ほど見せた涙を思い出し、すぐに思考を掻き消すために体操用のくすんだ白いマットに拳を打ちつけた。
ベンチを片づけたら帰ってしまおう。
足早に体育用具室から出て、誠凛が先ほどまで使っていたベンチのもとまで行く。重そうなそれを持ち上げようとすると森山さんが協力を申し出てきた。二人で運ぶために律儀に待っていたらしい。
「あの、手伝っていただく必要はありません。ここは僕に丸投げして、お疲れのレギュラー様はドウゾお休みになってください。僕は“マネージャー”ですから」
少し嫌味ったらしく言うと彼は「オマエだけ帰らせなくてほんと悪かったって……」と口をへの字に曲げた。
「でもホラ、それ長いし重いだろ? 一人で持つより二人で持ったほうがいいと思う」
「僕一人では運べないって?」
「大の男を横抱きにしていた奴にその心配はしない」
彼は僕に
掌を向けてきっぱりと僕の言葉を否定した。あれは腕力はもちろん必要だけれど、それよりも持ち方や重心のほうが重要だと思う。
「誠凛の選手は至れり尽くせりだな」
「そうですかあ?」
いい子として仕事をきっちりとやっているだけで、別に特別待遇をしているわけじゃない。言葉の意味を掴めずに「普通だと思いますけどぉ」と続けると、「大切に育てられたんだな」と微笑まれた。ますます意味がわからない。
「自分の行動ってさ、今まで自分がやられてきたことが少なからず出るだろ? 風邪の看病一つでも、してもらったことがその人の当たり前になったりすると思うんだ。
林檎を
剥いたり、お
粥を食べさせたり、濡れタオルを干したり、その人が好きなDVDを借りてきたり。後は……寂しくないようそばにいたり、とか」
彼が言いたいことをようやく理解する。切れ長の瞳が柔らかに細められた。
「受け取ったものが多い人ほど
他人に対して自然に与えてやれるものの選択肢が増えると思うんだ」
「そうですか」
たしかに僕を育ててくれた人たちは大切に扱ってくれた。それこそ、まるで割れ物注意のステッカーが貼ってあるかのように。大事にされすぎだと言われても否定はできない。その分求められるものは普通とやらよりも多いとは思うけれど。
「きっと今、色無は
他人に喜びを沢山与えることができているよ」
――やられた。
奥歯を噛みしめる。この人は単に二人で話す機会を
窺っていただけだ。僕という人間を見極めようとしたのか、それとも
牽制のつもりなのかはわからない。
笠松さんと違って彼は涼ちゃんから僕のことを聞いたわけではないが、いい子の皮を剥がしたのだから
避けてくれればいいものを、“彼の作った色無雫”まで押し付けられてしまった。
「供給の過多は価値を落とします」
「……経済?」
「それはサポートについても当てはまることでしょう。僕の労力を当たり前のものだと思われてしまってはいい子ではなくただの都合のいい人になってしまう。となれば早速供給量を減らしてみましょうか」
「うん?」
「ということで僕は退散しますので、あとの片づけをお願いしますね!」
にっこりとした形式的な笑顔を向ける。「えっ? えっ?」と彼が困惑している声を背中で受けながら体育館を後にした。
◆ ◇ ◆
バッグにしまってあった端末を歩きながら取り出すとEメールが届いていた。誠凛の誰かだろうと予想を立てたものの、陽射しにバックライトの光量が負けてしまってまともに読めない。仕方なしに一旦手で影を作って何となくアプリケーションの位置を把握してから光度のメーターを最大まで引き伸ばした。
ようやく見えるようになったディスプレイを校門に向かいながら操作する。リコ先輩からの誠凛の現在地を知らせるEメールだった。ステーキだなんて派手だなァ。
祝勝会か何かかと勝手に予想を立てながら彼女宛に仕事が終わったことを打ち込み、顔を上げると可笑しな光景が目に飛び込んできた。というかすぐ隣をゆっくりとすれ違っていった。
「どうして自転車でカートを引いているわけ……」
それも結構な大きさだ。宅配業者のロゴマークが入っているわけでもない。
額に汗を浮かべ、荒い息で懸命に自転車を漕ぐ彼は高校生だろう。その姿をもう一度確認しようと足を止めたものの、「緑間テメェ!」と聞こえて振り返るのをやめた。
……すっごく聞き覚えのある名前が出てきたんだけどぉ。
「渋滞で捕まったら一人で先行きやがって……。何か超恥ずかしかっただろうが!!」
本人かただの同姓かは知らないけど、もう一人があれに乗っていたわけじゃないよねェ……? 運ぶものが荷物なら問題なくとも、人であれば羞恥以前に道路交通法が気にかかる。
あの制服はどこの学校だろう。詰め襟の学生服という点では誠凛と共通しているものの、誠凛とは違いオーソドックスな型のそれを思い出して頭を悩ませる。も、すぐにやめた。詰め襟の学生服は判別がつきにくい。
考えてもわからないものにこれ以上頭を悩ませてもどうにもならないだろうと、Eメールに添付されている地図を見ながら歩調を速めた。
(P.28)