優しさ、易しさ、謂ふならば 2/4 


「テツくん……!」


 コートに座り込んだままのテツくんに急いで駆け寄る。顔を上げた彼の額からは血が幾筋か頬の下まで流れていた。背中から涼ちゃんの息を呑む音が耳に入る。


「大丈夫か黒子!」


 ゆっくりと立ち上がった彼は、僕より一足遅く駆け寄っていった主将キャプテンに「フラフラします」といつもより少し弱々しい声を出した。


「おい……大丈夫かよ」


 足もとがおぼつかない様子の彼に不安そうな表情を隠すことなく火神くんも近寄ってくる。みんなに心配させまいとしているのか、テツくんは薄く笑顔を浮かべた。


「大丈夫です。まだまだ試合はこれからで」
「ちょ、テツく」
「黒子ォー!」


「しょう……」の声と共に重心が傾いたテツくん。幸い倒れた方向に僕がいたために彼が体育館の床と友情を育むことにはならなかったものの、彼の目は虚ろに体育館の照明を受けていた。


「君、倒れたところ悪いけれどベンチまでは歩けそ……いや、ごめん答えなくていい」


 鼻につくかな臭さに、言葉を最後までつむがずテツくんの脇から片腕を入れて背中に回す。ぐっと引き寄せるようにして持ち上げれば、彼は不思議そうに数度瞬きをして、すぐ下にある僕の顔をじっと見た。


「……重くありませんか?」
「普通に重いよ」
「そこはベタに『きちんと食べているの?』と言うところじゃありませんか」
「普通に重いよ」
「…………」


 落としてしまいそうというほどではないけれど。というか幼児ですら重いのに高校生を軽いと言えるはずがないよねぇ。
 黙ったテツくんに、「傷ついたの?」と尋ねれば、「いえ、特に」と彼はきっぱりと否定をした。体重自体に傷つくというよりも、重いほど負担を多く掛けてしまうことを気にした発言だったのかもしれない。


「まあヒョロいと言われようがこれでも立派な男ですからね。どうやらボクの体は一六八センチの五十七キロになったらしいんです」
「性別なんてどうでもいいよ。女の子でも一六〇センチメートルあたりだと五十五キロはあってもふくよかなわけじゃないと思うけど。むしろテツくんくらいなら六十キロあろうが不思議じゃない。……とりあえず今はしっかり手を回してくっついてくれないかな」


 あまり長い間支えるのも大変なんだけどぉ、と内心で文句を言う。きちんと安定した体勢になってから運びたい。怪我人だから余計に危ないことはしたくないしぃ。


「これでも気恥ずかしさは感じているんですけど」
「何も考えずに体を預けてくれたほうが持ちやすい……というか苦しくないかな」


 そう言うと、遠慮がちに外に逃がそうとしていた彼の重心がきちんと僕の下半身へと流れる。幾分か軽くなったように感じられて支えやすくなった。


「さて、目指すは教会ですか。この運び方、ブライダルキャリーって呼ばれるそうじゃないですか」
「目指すはマットの上でございます、プリンセス。貴女を待っているのは手当てですよ」


 ゆったりとした足取りでベンチまで歩く。「ボクは女性じゃありません」と肩に回されていた方の手で頬をつままれた。


「んぎ〜、ごめんってば。プリンセスキャリーともいうんだよお」


 謝るとすぐに手が離された。赤くなっていそうだ。
 あわあわとしながら何かすることはないかと隣を歩いて尋ねてきた降旗くんに水を汲んできてくれないかと頼めば、有能な彼は普段よりもずっと速く駆けていった。有能な彼は手ぶらである。


「うわ、こら、足をバタつかせないのー。力を抜いて自然に下ろしてくださいー」


 降旗くんが慌てて戻ってきたのを視界に入れながら、腕の中のテツくんを叱る。降旗くんに救急箱の中に折り畳み式の小さなソフトバケツがあることを伝えれば彼は再び慌ただしく去っていった。火神大我、今お前育児チャイルドケアっつったな。


「すみません。男がこうやって持ち上げられることってないじゃないですか。はしゃいじゃいました」


 テツくんが口もとを緩める。そんなこと言って、冗談が苦手なはずの彼がこうしてふざけているのは実際のところチームメイトに心配を掛けさせないためと、傷ついていそうな涼ちゃんへの気遣いが大半だと思う。それに乗ってやる義理は無い、そうは思ったものの、まァたまにはいいかと「それだけ元気ならすぐに試合に戻れそうだね」と少しだけ強調するように口にした。


「はい。問題ありません」


 慎重にテツくんをマットに横にし、降旗くんが汲んできてくれた水に、新しく封を切ったガーゼを浸す。そっと血を拭き取りながら傷口を確認すれば、浅く切っただけのようだった。とはいえ、頭部は皮膚のすぐ下に血管がある上に、血流量が多い。拭いてもまたすぐにだらだらと血は流れてきてしまう。傷口を抑えながら何とか片手でもう一枚ガーゼを取り出していると、「色無君、手当てはできるの……?」とカントクが不安そうに尋ねてきた。


「大丈夫です。僕は一介のマネージャーですから試合自体に必要はありませんが、リコ先輩はそうではありません。“カントク”として再開される試合を優先するべきかと」


 乾いたガーゼをテツくんの額に押し当てる。血が止まるまで十分か十五分あたりだろう。激しく動いていた直後だから通常より長くかかりそうだ。


「それもそうね……。うん、よし! じゃあ黒子君は任せたわよ!」


 カントクが力強くサムズアップをする。「はい。任されました」そう返したものの、すぐに放り出した文具の存在を思い出してテツくんに「自分で押さえて」と彼の手をガーゼの上に乗せた。
 金属製といえどボールペンには傷がついていそうだが、バインダーはプラスチック製ではないから割れる心配は無い。カバーが付いているおかげで挟んでいた紙も折れずに済んだことに安堵あんどの息を吐く。
 それらを拾ってテツくんのもとへ戻ると、テツくんは閉じていた目を開けて「おかえりなさい」と言った。床にひざをつき、放置されていた使用済みの濡れガーゼをソフトバケツ内に落とす。じわりとほぐれるように広がった血は水を染めた。


「さっき涼って呼んでいましたね、黄瀬君のこと」
「そう、だねえ」
「『涼、止まれ』でしたっけ」
「覚えるほどのことじゃないよ」


 色付いていく水とは反対に、色が抜けていくガーゼは水を吸い込んで身を重たくしていく。終いにはとぷりと水に浸かってしまった。手を入れて水を掻き回せば、浮かび上がることも沈んでいくこともなくそれは水中をゆらゆらと漂う。


「その甘ったるい喋り方、咄嗟とっさの時には崩れるところボクは嫌いじゃないですよ」


 布同士をこすり合わせてガーゼを洗う。「いつも素でいたらいいのに」と静かに言ったテツくんの頬に水から上げた手の甲をくっつけると「冷たいです」と彼は体をよじらせて僕の手から逃げた。


「……テツくん。悪いけれど、本当にまた試合に出てもらうよ」
「言われずともそのつもりですよ」
「うん。だから今は体力回復に努めて。試合のことは考えてなくていいから」


 ガーゼをつまみ上げ、きつく絞る。ぽたぽたと垂れるしずくは薄紅の水に波紋をいくつも生んだ。


「ボク、いつもより走り回ったせいで足が棒のようです」
「……はいはい、マッサージしてあげるよぉ」


 絞ったガーゼを小袋へ放って、濡れた手をタオルで拭く。淡い色のタオルにうっすらと血の色が移った。
 止血中に血行を良くするのもどうかと思うものの、選手が疲労回復を優先したいと言うのならマネージャーの僕は『エエ、ヨロコンデ!』と笑うべきなのだろう。「遠回しにしないで普通にそう言ってよねぇ」と彼の素直じゃない口に制裁を加えるべく片手で頬を掴んでぐにぐにとすると、舌っ足らずな声で「キミならわかってくれるから」と今度はストレートな言葉を届けてきた。


「そんなこと言って恥ずかしくないわけェ……? ほら、早く休みなよね」


 いつまでも閉じることのなさそうな彼の口にポケットから取り出した飴を一つ放り込む。彼は目を丸くした。「間違っても飲み込まないように気をつけるんだよぉ?」言いながら空いた飴の袋を見る。僕が彼に食べさせたのはソーダポップとクリームが半分ずつのものらしい。
 爽やかで甘ったるい? 甘ったるくて爽やか? む、甘ったるさ爽快? むむ、爽やかさとした甘々? うむむむ、さや……さや? さやわか? サヤワカだっけ?
 混乱してきた頭で、僕もついでにテキトーな飴を口の中に入れる。ノーマルなマスクメロン風味だった。


「じゃァ、マッサージするよぉ」


 まったく、僕にこんなことをさせる人なんて君くらいだ。
 テツくんは口の中に飴があるからなのか、声は出さずにコクリと頷いた。


◆ ◇ ◆



「優しいときは並の人。スイッチ入ると凄い! けど怖い! 二重人格クラッチシューター、日向ひゅうが順平じゅんぺい!」


 突然始まったカントクによる選手紹介に、マッサージはしつつも耳だけは傾けておく。本当は文字に残しておきたいけれど大人しく聞くにとどめることにした。


「沈着冷静慌てません。クールな司令塔! かと思いきやまさかのダジャレ好き! 伊月いづきしゅん!」


 たしかによく駄洒落を言っているねェ。『痛い所は一体どこ』だったっけ? つまらないを極めている。黙っていれば周りの女の子たちが放っておかないだろうに。


「仕事キッチリ縁の下の力持ち! でも声誰も聞いたことない! 水戸部みとべ凛之助りんのすけ!」


 ……そういえば僕、凛之助って初めて聞いたなァ。カントク以外の自己紹介は聞いていないような気がする。後輩の良い所は『先輩』だけで呼べちゃうってことだよねぇ?


「何でもできるけど何にもできない! ミスター器用貧乏! 小金井こがねい慎二しんじ!」


 試合そっちのけで小金井先輩は「ひでぇ!」と涙を流した。……器用貧乏な人って探せば大体誰の周りにも一人はいるよねェ。


「――生憎あいにく誠凛ウチは一人残らず諦め悪いのよ!」


 芯の通った声が放たれる。僕より一回りは小さいはずなのに、僕よりもずっと頼りになる背中をしていた。
 はたして彼女の言う“誠凛ウチ”の中に僕は含まれているのだろうか。


(P.24)



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