狼はどの物語でも救われない 3/4
図書館で暇を潰すにはやや時間が足りないだろうと、放課後の教室で最後の人が閉め忘れたであろうわずかに開いた窓から吹く
油風に肌を撫でられながら、グラウンドから聞こえる野球部の声や廊下や階段を使ってトレーニングに励むどこかの運動部の掛け声に耳を傾けていれば、案外時間が過ぎるのは早いもので予定していた二十分はすぐに訪れた。
入学式の日の
花風はつい先ほどのことのように思えるものの、あの日
綻んでいた桜はアスファルトの隅に
花弁がいくらか残るばかりで、今近いのは過ぎた
花嵐よりこれからの
青嵐かなァ、などと考えながら体育館に戻ってくれば見立て通りギャラリーはもう誰一人としておらず、普段通りの体育館がそこにはあった。
「色無ぃ!」
僕が体育館に足を踏み入れるなり、練習を再開していたみんなが異極を見つけた磁石のように即座に首から上をこちらに向ける。よく訓練の行き届いた軍隊のように揃いも揃って一斉に頭を向けられると、砂鉄の上に垂らされた磁石の気持ちがわかるような気がした。
少しの恐ろしさを感じていると、直後、
鞭を打たれた動物のように駆け寄ってきた誠凛高校男子バスケットボール部御一行様に思わず数歩後ろに下がる。何かしたっけなァ、なんて思っても、この休憩中での僕自身のことに関しては何も心当たりが無い。
「おっ、オマエ帝光だったのか!?」
待っていましたと言わんばかりで詰め寄ってくる先輩や同級生たちに、これは駄犬がやらかしたなと気づくのにそう時間はかからなかった。カントクは「黒子君はさっきから何も教えてくれないのよ……!」と、拳を激しく上下に振ってもどかしさを表現する。
テツくんを見るといつもの無表情にさらに磨きがかかっていて、まるで魂が抜けてしまっているかのようにも見えた。俺に怒られるとか思っているんだろうけど。
「……テツくんは頑張ってくれたんだよね」
「雫君……!」
泥水の中に繋がれていた風船が浮き上がったかのようにテツくんの顔が生気を取り戻す。無表情に変わりはないものの、先ほど思い出していた入学式の日のはらはらと
花風に舞う桜のようにその心が軽やかになったことは、観察の必要も無く読み取れた。
「きっと涼ちゃんが『色無っちがどこの学校に行ったのか心当たりないっスか?』なんて言ったんじゃないかな」
「結構似ていますね。何か無駄に爽やかな感じとか。ていうかまさにその通りです」
無駄に爽やかな感じ、という言葉にテツくんの中での涼ちゃんの扱いが雑であることを知る。……いや、今に始まったことじゃないけどねぇ?
僕が残ったほうがもしかしたら上手く事は運んでいたかもしれない、なんて思うものの、過ぎたことを嘆いても仕方がない。まァ、涼ちゃんも悪気は無かっただろうしぃ、と多少の苦々しさは無理矢理
嚥下した。
「本当に二人は同じ中学だったのね……。いつの間にか黒子くんからテツくん呼びになってるし……。黒子君が色無君だけは名前で呼んでいたのにも納得できたわ」
カントクが並んだ僕たちを見て薄く笑顔を浮かべる。察しのいいテツくんのことだ、僕が彼を黒子くんと呼べば、わざわざ皆まで言わずとも僕への呼び方をかつての色無君に戻すかと思ったのだが、頑固とすらも思えるほどに一向に変える気配が無かったのは内心気になっていた。……変な事を勝手に背負っていないといいんだけどねェ。
テツくんを横目で見る。ラムネ瓶のような澄んだ瞳はここを見てはいないようだった。交じることはない視線を早々に外して、先輩たちの方に向き直って軽く頭を下げる。
「結果的に騙していた形になってしまって申し訳ありません」
「……でもどうして?」
「帝光だとわかるとマネージャーではなく選手としてしか入部届を受け取っていただけない可能性があると思ったので」
「ええ、まあ、私たちとしては今すぐにでも練習に混じってもらいたいんだけど……」
眉尻を下げて目を伏せる。床のラインテープはどれもまだ綺麗で、剥がれかけているものは見当たらない。悲しそうに、苦しそうに。けれどはっきりと「それはできません」と口にする。
「怪我を、負ってしまって……」
はたして最後までみんなの耳には届いただろうか。震える声で拳をきつく握りしめながら言ったそれは、言葉尻になるにつれ帯びた悲哀に押し潰されて空気に溶けていってしまった。僕は思いのほか大きな哀切を
孕ませてしまったらしい。体の内側から心臓を握られたように自分でも無性に泣きたくなった。
僕へと集まるそのいくつもの瞳には“大好きなバスケで努力をしていたにも関わらずできなくなってしまった可哀想な青年”が映っていることだろう。
「嫌なことを喋らせてしまったわね……ごめんなさい」
「え、いや、頭を上げてください、カントク……! 僕はこの高校で頼りになる先輩や優しい友達をサポートできて――何より、大好きなバスケから離れずにいられてとても嬉しいんです。……こんな僕でもまだやれることがあるんだな、と思えて」
きつく口を結ぶ先輩たち、揺れる瞳で僕を見る同級生、コート上に転がるバスケットボール。それぞれにゆっくりと視線を滑らせながら、
萎む花を看取るように慈愛の衣を羽織って目を細める。
「で、でも……」
「それに、リハビリも上手くいっていますしそう遠くないうちにバスケができるようになると思うんです」
「ほ、本当!?」
「はい。その時は……僕もみなさんの輪の中に入れていただけますか……?」
「あったりまえだろ! つーかすでにオマエはもう誠凛高校バスケ部の一員だ!」
「よ、良かった……ありがとうございます……!」
安堵の息を吐き、
蝋燭に火をかざしたようにぽっと幸福を顔に灯す。しんみりとしていた空気が励ましの言葉で埋め尽くされていった。
――嗚呼、なんて簡単。なんて簡単なんだろうねェ!
そうは思ってもおくびにも出さずに感謝の言葉を繰り返した。
ドラマで悲劇の主人公がもてはやされるように、自分の魅せ方さえ理解していれば所詮現実なんてそんなものなのだ。もちろん、度をわきまえることは大事だけれどねぇ?
◆ ◇ ◆
「失礼しました」
教師たちの
労いの言葉に小さく礼をしながら、濃いコーヒーの香りに満たされた職員室の扉を閉める。部室と体育館の鍵を返すまでがマネージャーとして僕に与えられた仕事だ。
職員室に入るために廊下に置いていた荷物を取ろうとすると、どんな気まぐれなのかテツくんが僕の荷物を持って立っていた。いつもは支度を済ませるなりさっさと帰っているのに、まだ帰っていなかったのぉ?
「……嘘はよくありませんよ、雫君」
「やァっぱりテツくんはわかってくれたねぇ」
テツくんから僕のスクールバッグを受け取る。
例えば休みたい日に電話口で「体調不良です」と告げるような、本気で騙すつもりなど無く追及を
避けられさえすればよかった騙りが、想像以上に重たい哀切を宿してしまったのだ。理由など考えたくもない。
「バスケをしない本当の理由はなんですか?」
「しょーごくんの提案さ」
「……
灰崎君が?」
テツくんは「そういえばキミたち結構仲良かったですよね」と付け足した。
仲良しとかそんなんじゃないと思うんだけどねぇ。だってしょーごくんは僕のことを好きにはならないよぉ?
「あー……つまんね」
「あァ? そこは『つまんなぁい』じゃねーのかよ」
「やめろって。お前が言うと気持ち悪さが倍増。うぇー、トリハダが立ちました」
よく晴れた日の午後、屋上のフェンスのそばで二つの影がじわりと焼かれる。一人は白いジャケットなどまるで気にせず頭をフェンス側にしてごろりと寝そべり、もう一人はそのフェンスに背中を預けて腰を下ろしている。
両者が互いに手を伸ばしたとしても
掠りもしないような、隣と呼ぶには離れ、遠いとするには足りない空間が二人の間には空いていた。――なァんて言っても、まァ
祥吾と俺なわけだけど。
「ハッ! オレはあの喋り方キライじゃねーぜェ?」
「わぁい、うっれしィなァ!」
溌剌とした声に笑顔のオプションも付けて、寝転がる彼に四つん這いで近づき顔を横から覗き込む。太陽を背にした俺の体によって影が落ちた彼は眉間にしわを寄せて「ウゼェ」と吐き捨てた。
そーんなこと言って、口もとがちょっと笑っているよぉ、しょーごくん?
「……で? 何がそんなにつまんねェんだよ」
声色こそダルそうな低いそれだったものの、珍しく真剣に心を傾けてくれそうな様子の彼に驚いてもたもたと言葉を探していると、「欲求不満かァ?」と
下卑た表情にころりと変わった。
あちこちにまばらに放っていた沢山の本のうちの手近にあったものを手繰って、「お前と一緒にするな」と顔に振り下ろす。鈍い音とともに「っでェ!」と叫んだ彼は、顔を覆ったその本を退けて鼻を赤くしながら俺を
睨めつけた。おー、こっわ。
「……これ重いヤツじゃねェか。えーと、ハ、ハード……なんつった?」
「ハアドカバア。上製本」
「アー、それだそれ。ハードカバー、ジョーセーボン」
本製本、ハードバック、厚表紙本……呼び名はさまざまだが、重いヤツでも十分に伝わるからいいと思う。「叩くならせめて小さいヤツにしろよなァ……」と言った彼に、周辺を見回して文庫本を探す。少し離れた場所に見つけたそれを取りに行って彼のもとへ戻ると、俺が振り上げるよりも先に彼が寝転んだまま腕を伸ばして俺の手から文庫本を奪った。先ほどよりは幾分か軽い音が空気に霧散して消える。
「いって……」
「バァカ、仕返しだ」
ハッ、と意地悪く鼻で笑った彼は手に持った文庫本を投げ捨てる。それ俺のなんだけど、なんて思ったが、まァいいかとすぐにその本から視線を外した。
「つーかまた叩こうとするってどんなアタマしてやがる」
「文庫本で叩かれたいって言わなかった?」
「マゾかよ。オレはせめてハードカバー以外にしろっつったんだ」
「叩くのは許してくれるんだ……。結局マゾだろ」
「あァ?」
「……マゾ崎祥吾」
「シズク、テメェこっから突き落とすぞ」
少年Mが腕を振る。当たらないように後ろに下がって人一人分の距離を置けば、すぐに諦めがついたようで彼は腕を下ろした。ふむふむ、そう照れなくともよいぞ。「ぎゃ」文庫本が飛んできた。心を読むなんて、こやつめなかなかやりますな。もしかして僕の恥ずかしいあーんなことやこーんなことももうすでにバレて
「全部口に出てんだよ」
「おや、何たる失態」
「ざけんな、わざとなくせに」
再び本が僕の方へ向かってきた。容赦なく顔を狙ってくるあたりが彼らしい。左手で叩き落としたものの、それと同時に走った違和感に数秒の間じっと手を見つめた。
「……うっそ、突き指した」
「ダッセ」
「…………」
「何で口もとだらしなくユルめてんだよテメェのほうがマゾだろ」
じくじくと早くも痛みを訴えだした第二関節は、焦燥と恐怖に混じって確かに高揚を生み出していた。けれど俺はマゾヒストじゃない。痛いのも責められるのも嫌いだ。
「……背徳的だな、と」
発赤し始めた指にそっと口付けを落とす。
いつまでこの痛みは続くのだろうか。たしか突き指にはRICE処置だったはずだ。Rest(安静)、Ice(冷却)、Compression(圧迫)、Elevation(挙上)――どれもやる気になれない。早く適切に治さなくてはいけないのに、長引いてしまえばいいという思いがあった。
「あ? 何に対してだァ?」
「んー……」
真っ白な太陽に向かって
掌を掲げる。指の隙間から降り注ぐ陽光を遮りたくて手首を動かしてみてもそれは矢のように降り注ぎ、ならば太陽の灯を握り消してやろうと足掻いても当然掴めるはずはなく指がじくりと痛んだだけだった。……あ、これ心臓より高く上げているからElevationになる?
「ナイショ」
腕を下ろしてからぱちりとウインクをしてみれば、「そーかよ」なんて投げやりな声が返ってきた。彼は自分勝手にズカズカと容赦なく土足で踏み荒らしてきそうな雰囲気をしておいて、
引くことが上手な男だ。「んで? 何がつまんねーんだよ、シズク君はよォ」と話題の軌道を修正した彼に、一拍置いて「お前さぁ」と口を開く。
「高校では完全にバスケから離れるつもりだろ」
「もしかして『しょーごくんとバスケットボールがしたかったのにぃ!』ってか?」
彼が気持ち悪い声を出す。再び「うぇー、トリハダが立ちました」と決まり文句のように言えば、彼は硬い地面の上でごろりと寝返りをうって、
膝を立てて座る俺との微妙な間隔を埋めてきた。
彼が俺の緩いネクタイを手持ち無沙汰の慰めに
弄るのを見下ろしながら「それもあるけれど」と半端な肯定を落とす。たしかに再び彼とバスケができるのなら少しは気も紛れるだろう。こいつが俺のことを好きにならずとも、否、ならないからこそ俺は灰崎祥吾という男を気に入っているのだ。オトモダチの関係は心地が好い。
「……実際はバスケットボール自体がもう、って感じで」
そう告げた途端、遠慮の無い力でネクタイが引っ張られた。されるがままに背中を丸め、前傾姿勢を許す。
「もう
虐め飽きたって? いいねェ天才サマはよ!」
眼前に彼の苦々しい嘲笑が広がる。突き刺さる三白眼気味な濃い灰色の瞳に痛覚すら刺激されそうになりながらも「勝手に俺を作るなよ」と視線を逃がさず答えた。互いの鼻がぶつかる。
「――少し。少しだけ、疲れたんだ」
溢した声は小さく頼りなかった。情けない、と心の中で吐き捨てる気にもなれず、
瞼を下ろして彼を視界から消す。再び鼻がぶつかり、そのまま一分か二分か、両者の間に息苦しい沈黙が続いた。
「……ならよ、ここはオトモダチ思いのオレが一つ提案してやる」
彼は掴んでいた俺のネクタイから手を放した。解放されて前屈みになっていた体を起こせば、彼も起き上がって
不躾さを表現するように歪んだ体勢で
胡坐をかいた。そのままニヤリと笑った目の前の男に「珍しいこともあるものだ」と返しながら、ずれたネクタイを直す。
「オレは高校でバスケをやってやる。だがお前は選手をただ見てろ。目の前でバスケをやられてずっと見てるだけってそう長くは持たねぇと思うぜ? きっとすぐにでも飢えるだろーなァ」
「そう……か?」
「シズクがバスケをどう思ってんのかなんざ知らねーよ。知らねーしキョーミもねェ。だがお前がバスケに執着してんのはオレでもわかる」
「わお。マゾヒズムだなんて的外れなことを言ってきたかと思えば」
それ以上は言葉が見当たらなかった。まァいいか。
にしても、まさかこいつがそんな提案をしてくるだなんてなァ? 一体何を企んでいるんだか。
彼は「お前にとって悪いことはねェだろ?」と形のいい眉を歪に寄せた。おそらく彼は俺がプレーを嫌になったと思っている。だから見ているだけなら悪いことはない、むしろ、見ているとまたプレーを望むことができるのではと言っている。しかし俺はプレーが嫌になったのではなく、ただ解放されたいだけだ。
とはいえ、逃避や忘却への欲さえ我慢すれば、たしかにバスケを続けていたほうが俺にとっては都合がいい。結局のところ、思い通りにいっていないから逃げたいだけなのだ。続けていればいつかは叶うかもしれない。何が、とは言わないけれど。
「
賭るか?」
「……
You bet.」
「――まァ、僕は精々“リハビリ”を頑張って早く大好きなバスケができるようにするよ」
「ええ、そうしてください。……キミのバスケは好きですから」
テツくんの口角がわずかに上がる。廊下が薄暗いせいか彼が本物のゴーストのように思えた。
「……光栄だねェ」
「だから
あのバスケは余計に嫌いなんです」
「それは残念だ」
ジェスチャーでオーバーに残念さを表すと、「信じていますから」と彼はそれだけ言って自分のクラスの下駄箱の方へと歩調を速めて行ってしまった。取り残されたようにその場に立ち尽くす。
僕の何を彼が信じているかなんてどうでもいい。試合ですら、勝ちたいとは口に出せど勝てると信じることはない彼のその言葉は酷く重い。脅迫にもなり得るそれに、下唇を噛み締めた。
「……信じんなって」
嗚呼、もう。
(P.14)