見えないものに手を伸ばすのかい 2/3
「……うん、完成」
書き終えた一つの作品を前にしてふぁあ、と大きな
欠伸をする。カーテンを少し開けて窓の外を見ると、すでに空は薄い水色がかかって明るみ始めていた。耳を澄ませば鳥の細い歌声も聞こえる。
一時間は眠れるかな、とアラームをセットするためにスマートフォンを手に取ると一件のEメール通知が届いていた。誰だろうと通知の詳細を見ると、並んでいたのは『黒子テツヤ』の文字。気づけなかったのはサイレントモードにしていたせいだろう。
てっきり『どうして連絡を絶ったんですか』のように訊いてくるかと思いきや「メールアドレスと電話番号、もちろん教えてくれますよね」なんて再会当日に真顔で詰め寄ってきたものだから、あれは相当怒っていたと思う。「もうこういう事はやめてくださいね」なんて言葉には「ごめんねぇ」としか返せなかったけれど。
書き出しを『返信が遅くなってごめんねぇ』にしようと思いながら開くと、『
明日、朝早くに来られませんか。できれば人がまだ登校してこない時間がいいんです。雫君は何時頃なら都合がつきますか?』と、最初の文では許可を求めているはずが最後の文では断る道を塞いでいる本文が広がっていた。
別に構わないんだけどさァ。
『返信が遅くなってごめんねぇ。早くかぁ……遅くなっちゃったせいでテツくんを困らせちゃっただろうしぃ、僕は朝七時過ぎには学校にいるようにするからテツくんは好きな時間においでよぉ』
昨日宣言ができなかった代わりに何かをしようとするんでしょぉ? 時間がかかりそうだから結構時間をとったけれど、テツくんは一体なァにしようとしているんだろうねぇ。
どうせ返ってこないだろうと、アラームのセットが完了するなりスマートフォンのディスプレイを落として枕もとのACアダプターに繋ぐ。
しわ一つないシーツに倒れこむように体を横たえると、隠れていた疲労が顔を覗かせ始めた。柔軟剤の香りが
鼻孔をくすぐって、一瞬間だけ眠気を追いやる。
もう一度
欠伸をすると、朝日を遮るようにブランケットにくるまった。
◆ ◇ ◆
「起きてください、雫君」
「んー? あー……テツ、くん。…………おはよぉ」
返信の通りの時間に登校し、自分の席に着くなり浅く眠っていた僕を起こしたのはテツくんの声だった。寝ぼけ
眼を
擦りながらも黒板の上にある時計を見ると針は午前七時十五分を指していて、眠っていたのは十分間やそこらであったことを知る。
「……でー? 何をするつもりなのさ」
言いながらポケットに入れていた目薬を
点せば、眼球の奥までじんわりと液体が染み渡った。目頭を押さえた後に隣の席に放っておいた眼鏡を掛けながら「宣言の代わりでしょぉ?」と付け加える。
「はい。石灰を使ってグラウンドに大きな文字を書こうと思っています」
「わーお、派手だねぇ。それはたしかにカントクの気に入りそうな方法だぁ……」
もにょもにょと中途半端に抑えた
欠伸を漏らす。「お忙しいところすみません」テツくんは座っている僕の髪に手櫛を入れた。されるがままにその手を受け入れる。
チームの大切な選手の手をこんなつまらないことに使っていいんだか、とマネージャーらしく考えてみるものの、「お加減はいかがですかー」なんて珍しく冗談めかして言ってくるものだから、「くすぐったいのでもうちょっと強めにお願いしまぁす」とそれに便乗する。
時折首筋に
掠める手はひんやりとしていて、寝不足の脳を少しずつ鮮明にした。
「雫様、お綺麗になりましたよ」
「失礼な奴め。元から綺麗だろ?」
「失礼致しました。
さらにお綺麗になりました」
口端にうっすらと微笑みをたたえて言い直したテツくんに、「結構」と僕も口角を上げる。テツくんじゃないんだから寝ぐせを放置して来るわけないでしょぉ? ていうか朝にシャワーを浴びてきているしぃ。
「さて、この綺麗な僕にどんな
役割をお望みだい?」
「ボクはこの後グラウンドに行って文字を書くので、雫君はカントクの教室まで行って、そこから文字の調整を頼みます」
「調整? 電話で位置の指示をしてほしいってことぉ?」
訊くと彼は「はい」と小さく頷いた。たしかに巨大な文字を書きたいのなら一人でやるのは現実的じゃないよねぇ。
「何て書きたいのぉ?」
「そうですね……じゃあ、『日本一にします』で」
顎に手を添えて数秒思考した彼から出てきた答えにからころと笑う。わけがわからないというように首を傾げられた。
だァってテツくんらしいんだもん。日本一になるときはテツくんも一緒だってのに“します”だなんてさァ。
「さ、教師に見つからないうちに済ませちゃおー」
「はい、頑張ります。グラウンドに着き次第ボクから電話を掛けますので」
「ウム」
最後にへらりと笑ってみせ、先に教室を出たテツくんの背中を見送って、窓辺のこの席からグラウンドをぼんやりと眺める。
席替えをしたのが先週水曜日の七時間目だ。木曜日、金曜日、月曜日……今日は火曜日だからまだ四日目か。あぁ、そういえば
明日は日直だっけ。面倒だなァ。
プール練習――カントクの父親が経営しているらしいスポーツジムにて、営業前の早朝に朝練の代わりに行われる週三回のフットワーク強化トレーニング。誠凛高校男子バスケットボール部の名物らしい――も
明日から始まるとか言っていたしぃ。
閑話休題、一番前だろうが一番後ろだろうが自席の位置に特に興味は無かったものの、窓辺のこの席は時々陽射しにつらくなる。
一列が五人というなかで前から四番目の席になった眼鏡の僕を「目、大丈夫?」「見える?」だなんて親切にも訊いてきたクラスメイトたちには「ありがとう。心配しないで」と返したものの、問題は視力ではなく明るさだったのだ。
今まで運が良かったのか、窓辺の席になることが無かったためにその時は気づけなかったが、太陽がもろに降り注げば席替え早々にして明るくて敵わないことも少なくない。訊かれた時に『見えないかも』とでも言って窓から離れた誰かと席を交換でもしてもらえばよかったと思ってしまうこともある。……まァ、過ぎたことを嘆いても仕方がないんだけどさ。
「にしても、テツくんが日本一……ねぇ」
クラスが一緒だからかな、特に火神くんと仲がいいみたいだけれど、テツくんが日本一にしたいのは火神くん? それともこの学校? ……うーん、僕には関係が無いことか。彼が火神くんを新しい光とでも思っていようが口を出す権利は僕には無いしねぇ。
蚊帳の外だろうが文句は言わないよぉ?
だって僕のバスケにおいて、誠凛はおろか帝光だって
蚊帳の外だからねェ!
「あっは……。……僕もそろそろ向かおうかな」
後ろ向きになりそうだった思考を隅に追いやって、テツくんは器用な人だったっけ、なんて考えながら静寂が支配する
人気の無い廊下に身を投じる。
二人の少年によって生み出された名無しの校庭文字が謎のミステリーサークルとして設立間もない誠凛高校の七不思議の一つとなったのは、
詳らかに語ることでもないだろう。
(P.10)