美しいこの世界を泳ぎだす 3/3
ボクがシャツを着ている時、体育館の扉が開く音がした。誰だろうと思って見てみるとそこにいたのは真っ黒な髪に重たそうな黒縁眼鏡の男子生徒。当たり前だけど見覚えなんて少しもない。よく
糊が利いている真新しい学生服に、ボクたちと同じ新入生だろうと彼を目で追う。
「総合学習の時間に学級委員長に選ばれてしまって、早速仕事が……。遅れた上に連絡できず申し訳ありませんでした」
少し息を切らしている彼はきっと急いで駆けてきたのだろう。小さな輪郭にしてはやや大きな眼鏡が彼に真面目そうな印象を与えていた。
それにしてもこの声、どこかで聞いたことがあるような。
「いいのよ別に。そんなことだろうと思ってたから。じゃー自己紹介いってみよー」
「じ、自己紹介ですか……」
自己紹介を求められた彼は小さく咳払いするとボクたちの方へと向き直り、一度だけ目を軽く伏せてから真っ直ぐ前を向く。
瞼の動きに沿う
睫毛はいやに印象的に映った。
「マネージャー志望の色無雫です。マネージャーは初めてなので至らない点も多いと思いますが、精一杯皆さんをサポート致します。よろしくお願いします」
――色、無……雫?
ボクがよく知る名前を
紡いだ男子生徒に、反射的に息を吸い込む。薄く開いた唇と歯の隙間を通った空気は
掠れた音を立てた。
どうして……なぜキミがここにいるんですか。
そうそう同姓同名が見つかるはずもないその名前を耳にするのはいつぶりだろうか。彼へのメールも電話も繋がらなくなってから何箇月が過ぎただろうか。もう会えないのではと、不安と絶望に押し潰されそうになった夜は何度あっただろうか。
瞬きをすれば次の瞬間には
忽然と消えてしまいそうな、あるいは砂糖菓子ばかりが積まれたような馬鹿げた夢でしか会うことが叶わなそうな掴みどころの無さが無意識だとしたら、なんてタチの悪い人なのだろう。振り回される方の身にもなってくれと言っても、きっと『それなら手を離せばァ?』なんて世界の言語を統一してみせたかのような顔をして、決してボクたちが振り落とされてしまわないように握り返してはくれないのだ。
記憶よりもいくらか身長が高くなって大人に近づいた姿はまるでボクたちを置いていったことが正解だったと語っているようで、生まれたやり場のない
寂寥感を誤魔化すように、吸い込んでいた息を飲み込むことなく腹の中に溜まっていた空気と共に吐き出す。
息苦しさを感じながら彼をじっと見ていると不意に視線が交わった。
髪の色が違う。立ち方が違う。表情が違う。言葉遣いすら違う。それでも眼鏡の奥にギラリと光る色素の薄い瞳は何も変わっていなくて、目の前の男子生徒がボクの大切な友人の一人と同じ人物であることを知った。
「よーし、これで新入生も全員揃ったし、練習に入りましょ!」
マネージャーではなくカントクを務めているらしい女の先輩が切り替えるように手を打ってそう言うと、先輩やほかの新入生はばらけだした。それと同時に雫君のもとへ駆ける。彼はまるでボクが脇目も振らず来るとわかっていたかのように少しも動かず真っ直ぐに立っていて、たったそれだけのことだというのにふるりと身の
竦む思いがした。
「あの、雫君。どうして」
――ここにいるんですか。
そう訊こうとしたものの、ボクの口に添えられた彼の生白く細い指がそれ以上の言葉を音にすることを許さない。
……嗚呼、相変わらずこの人は距離が近い。
「ねェ……僕、テツくんなら話さないと信じているよぉ……?」
声量を下げたことで息混じりになった声が溶かしたキャラメルのようにねっとりと耳奥まで侵食してくる。いや、侵蝕と書くほうが
相応しいかもしれない。
見えずとも当たる息でわかる、今にも耳が
齧られてしまいそうな距離で
囁かれた彼本来の変に間延びしたそれに、ボクは黙って頷くことしかできなかった。
春には綺麗な花が咲くのです。
春には美しい蝶が舞うのです。
春には可愛らしい小鳥が仲良く歌うのです。
春には人々は優しく穏やかな気持ちになれるのです。
あゝ、春とはなんて素敵なのでしょう!
しかし注意しなくてはなりません。
春には忌み嫌われる害虫も蠢き出すのです。
(少年i 作『自由の終わり、希望の始まり』)
(P.4)