悲しみはいかなる夢をも育みえざる 2/5
「あ」
切れてしまったヘアタイがはらりと床に落ちる。広がった髪を手櫛で整え、落ちたそれを更衣室のゴミ箱へと食わせた。
雨が降っていなくてもじっとりと嫌な湿気が首枷のようにまとわりついて、高くない気分をさらに降下させる。
誠凛高校のジャージには未だに違和感を覚えているが、今の僕は間違いなく誠凛高校の選手だ。
目的を見失うなよ。今一度自分に言い聞かせる。
これから行われる
桐皇学園高校とのインターハイ決勝リーグ一日目の試合に、おそらく僕は出されるだろう。先週学校を欠席していた僕は前期実力テストを受けられておらず、その補習が
明日土曜日の決勝リーグ二日目と被るからだ。
あの人は観にきているだろうか。否、来ているはずがない。……まァ、あの人が僕を見たところで今の誠凛高校には何の感想も抱かないと思うけどォ。
そもそも僕のことなど新品の洋紙のように忘れてしまっていることだって十分にあり得る。
「雫君?」
「なあにテツくん」
「大丈夫ですか。顔、青いですよ」
両手でパチンと頬を叩くと、じんじんと熱を帯びた。
梅雨はどうも湿っぽい。
青峰大輝という文字通り大きな光を持つ人間との勝負に誠凛高校18番として挑むなら、はっきり言って勝算を見出だせない。木吉鉄平がいないこのチームで勝つ必要も素晴らしい連携を取る必要もないのだから、敗北することに問題はないが。
「『次頑張る』は決意じゃなくて言い訳だからね! そんなんじゃ次も駄目よ!!」
どうにも嫌な予感が拭えない。心臓が空気中の水分を吸って重くなっているようで、
気怠さが妙な息苦しさを生んだ。
ティップオフは目前だ。みんなで顔を突き合わせ、カントクの
叱咤激励に気を引き締める。ふりをする。
「絶対勝つぞ」の掛け声にしっかりと応じながらも気持ちが伴っていないことはテツくんも気づいていないようだった。
◆ ◇ ◆
体育館入りしただけで歓声が上がる。決勝リーグともなれば当然観客は多い。むせ返るような熱気は、改めて僕に場違いだと教えてくれている。照明を受けずともきっとギラギラと光る観客たちの瞳は選手であるはずの僕よりも勝利に貪欲だ。
眩しいものは得意じゃない。きっと僕の瞳孔は針と化しているに違いない、と一人口端を吊り上げた。
「あの、青峰は?」
声の方向を向くと、火神くんが桐皇学園高校の選手に話し掛けていた。大くんのことだ、姿が見えないなら寝坊でもしている。
詳しい理由までは教えてもらえなかったものの「遅刻だよ。あの自己中ヤローは」と相手選手は眉を寄せた。彼の様子だと、きっと普段から好き勝手しているのだろう。
いい子の僕とは正反対ってわけだねェ。
大くんは、言ってしまえば拗ねているだけだ。お気に入りのおもちゃがなくなったと。そして、理由は違えど誠凛高校にいる僕も拗ねているだけ。
みんな子供を謳歌している。
早々に興味を失ってテツくんから受け取ったボールを手に馴染ませていると、不意に覚えのある声が耳を貫いた。
「すまんのー。アイツおらんと
桐皇も困るんやけど……後半あたりには来るて」
ゾワゾワと肌が
粟立つ。あまり関わりを持ってはいなかったことは不幸中の幸いだが、今はまだ当たるべき相手ではなかった。
髪を黒くしようとも、眼鏡を掛けていようとも、さっちゃんの情報で色無雫が誠凛高校に在籍していることは筒抜けのはずだ。
「せやからウチらはまあ……前座や。お手柔らかに頼むわ。特にそこの、
オセロ君」
視線がかち合う。嫌な予感はこれだったのかと
腑に落ちた。
関西弁の彼、
今吉翔一と知り合いなのかとチームメイトの無言が尋ねてきていた。
「僕、ですか? あっはーすみません。こういう時の返し方がわからないので……。そうですね、こういうのはいかがでしょうか」
頭蓋の中で、記憶を呼び戻す。ボードゲームではない。今にも斬りかかってこようとする相手に、
正しくオセロが言ったあの言葉を。
「
Keep up your bright swords, for the dew will rust them.」
喧嘩も挑発も受けるつもりはない。この人には付き合うだけ疲れることを知っている。
彼がさっちゃんにどれだけのことを話したのか気になるところではあったが、さっちゃんのぽかんとした顔を見る限り何も聞いていないのだろう。
恩を売ったつもりか、それとも弱味を握ったつもりか――まァ、好きにさせておけばいい。
今吉翔一は仕掛けるという事のリスクを知らない盆暗ではないのだから。
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