夢を食べても眠りは妨げないで 3/5 


 とても喜ばしいことに、あの試合で僕は嫌な思い出を一つ消化できた。これでおもりは減ったはずなのだ。しかしどうにも気持ちのいい言葉が出てこない。
 書いては捨て、書いては捨て、次第にペン先にインクを吸わせる動作すら乱雑になって、机の所々には新しいインク染みが増えていた。


「ハダサにまたうるさく言われそう……」
「ええ申します」
「げ」


 今一番聞きたくなかった声が真後ろから聞こえてゆっくりと振り返る。いつも通り彼女がノックをせずに入ってきたから気づかなかったのか、それとも集中しすぎていたからなのかはわからないが、どちらにせよ僕の心臓が肋骨から飛び出てしまいそうになるほど驚いたことには変わりない。


「いいですかシズク、贅沢はいくらでもしてよいのです。ですが贅沢をすることと、物を粗末にすることは異なりますからね」
「知っているとも……」
「お返事」
「ハイ」


 席を立ってハダサが机に垂れていたインクを拭き取るのを横で見ながら、今しがた彼女が持ってきたらしいドロンマルを口に放り込む。ザクザクとした食感が気持ちいい。そういえば彼女はスウェーデンにルーツを持っていた。
 わかっていることを言われてつい反抗的な態度が出てしまうだなんて随分と子供らしかったな、なんてココア味のほろ苦さのなかで思った。


「先ほどからスマホが光っていますが」
「メッセージが届いていたみたい……。うわァ、これ全部に返信するのは面倒だな」
「多くの方に心配してもらえてよかったじゃないですか。中学生の時なんて誰からも来なかったのに」
「来なくていいんだよォ……」


 高校生になって初めて学校を休んだからだろうか。僕の欠席に慣れているはずのテツくんまで僕にEメールを送ってきていた。
 確認すると『どうしたんですか?』なんてまるで僕が仮病でも使ったかのような口振りで、『本当に体調が優れないだけだから大丈夫』と優先的に返信をした。……いや、どこも大丈夫じゃァなくない? まァいいか。


「ドロンマルの意味をご存知ですか」
Förlåtごめん, Jag kan inte prata svenskaスウェーデン語は話せない.」
「話せているじゃありませんか」
「英語を話せない日本人が『I can't speak English.』と言うのと一緒さ」


 以前道を訊かれた涼ちゃんがそう言って「話せてマスよ……」なんて返されたらしく、それを聞いたときはしばらく笑わせてもらった記憶がある。似たようなことが今僕の身にも起こったけれど。


「それで、意味は? 教えてくれるんでしょぉ?」


 少し黒ずみは残ったもののおおよそ綺麗になった机を一撫でし、再び椅子に座る。ハダサは僕が食べたココア味のそれではないもう一種類、プレーンを一つ指でつまむとエプロンのポケットから取り出したクロスにくるんでまたポケットにしまった。


「『夢』です」
「へぇ。素敵な菓子じゃないか」


 ザクザク、ざくり。夢を細かく噛み砕く。それは優しく素朴な味をしていた。


「夢をポケットの中に入れるだなんて、叩いて増やすつもりかい? 増えたものが悪夢じゃないといいねェ」
「……焼けすぎたものを見つけただけです」
「まさかこれ、君が作ったとか?」
「ええ、まあ……」


 これまで彼女が菓子を作ったことがあっただろうか。失敗作を見つけて回収するだなんてこの女にも可愛いところがあったものだとニヤニヤする僕から一歩距離を置いた彼女はわざとらしい咳払いを一つこぼした。


「誇っていいよ、君の生んだ夢はとても甘美だ」


 もう一つ口に入れようとしたところで、匂いに釣られたのか腕に捕まってきたトラヴィアータを剥がす。「君はバクじゃないからだァめ」僕もバクじゃないけどぉ。
 僕が心配だったのは厨房を一使用人である彼女が使ったことでクックたちが不機嫌になってはいないかということだったが、それを読んでか「二階の厨房を使ったのでご安心くださいませ」と彼女は言った。
 厨房はクックの領域だ。たとえ主人である父や母であろうとも立ち入ることは滅多にない。


「今度は菓子を手作りなさるご学友はいないのですか」
「さァ? まだみんなのことをよくわかっていないんだ。名前はかなり覚えてきたところ」
「料理上手な方は案外近くにいるかもしれませんよ」
「いたらいいねェ」


 そうしたら何をねだろうか!
 やっぱり好物のシフォンケーキがいいかなァ? ほかのケーキのように見た目が輝いているわけでもなければ味だって生クリームがなければ質素だけれど、不思議とあれは幸せの味がする。
 まァ、料理ができるのと菓子を作れるのは全くの別物であるから、料理上手がいたところで作ってもらえるとは限らないけれど。
 今は学校の誰とも広く浅くの関係でそれをやめるつもりは全くないが、いつか何かによってトリガーが引かれて、今の僕では到底予想もつかないことが起こる可能性は十分にある。
 起こる出来事が道に書いてある人生ゲームですら、ルーレットを回さない限りどうなるかはわからないのだ。春は計画と予想の季節だと『アンナ・カレーニナ』では言われていたが、ましてやゲームではない現実なんてどれだけ緻密に計画を立てようとも覆ることが当然のようにある。
 今この瞬間だってそうだ。通学路でたまに見掛けるくらいだった白猫と僕の部屋で第一次ドロンマル攻防戦を繰り広げるとは思ってもみなかった。


「あっ、こら!」


 菓子そのものが駄目なら僕の指についたやつを舐めようったってそうはさせないぞ!


(P.83)



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