夢を食べても眠りは妨げないで 2/5 


Side:Hadassah

 シズクの部屋の扉を開けた瞬間、真っ先に届いたのは「ぎゃーー!」という悲鳴だった。額に熱冷ましの冷却シートを貼っているシズクの髪はボサボサで、ただならぬ事態が起こったのだと察する。


「げんこ、いや、それよりも君! 猫にコーヒーがよろしくないのは流石さすがに僕だって知っ、ウワッ君の足濡れて……ちょ、ちょっと待て、そうはさせるかよぉ! その足を舐めようとするんじゃない、じゃじゃ馬め!! よし捕まえたからなァ!?」


 革靴を履いているかのように茶色く濡れた前足を二本とも掴んで持ち上げられた白猫が、捕獲された宇宙人のような格好で宙に浮いている。
 机に目を向けると、原稿用紙を真っ黒な液体が殺人事件現場の血さながらに濡らしていた。フムなるほど、と状況を理解してどうしたものかと考える。
 猫にコーヒーが駄目だとか、正直私は心底どうでもいいのだ。猫がコーヒーのついた足を舐めてしまって中毒症状を起こそうが、シズクが自業自得だと放っておくならこれ以上部屋を汚されないように外に放してシズクにコーヒーを淹れ直すだけ……いや、今はコーヒーではなくスポーツドリンクのほうがいいかもしれない。


「シズク、頼まれたものは書斎の机に置いておきました」
「あ、おかえりハダサ。随分と早いんじゃない? 一仕事終えたところに悪いけどこのお転婆なお姫様のことを風呂に入れてやってよ。この部屋のでいいからさ」
「承りました」


 なぜ私がシズクではなくポッと出の猫の世話をしなければならないのですか。
 そう言いたい気持ちを抑えて、シズクから猫を受けとる。私が今一番するべきなのは、恐らく熱が上がっているだろうシズクをベッドに縛り付けることと、汚れてしまった机を片づけることなのだ。


「シズク、この猫を飼うつもりですか」
「いいや? 生憎あいにく僕には器がなくってね。とある一人の主人をやっているだけで手一杯なのさ」


 シズクはヒューと演技がかった汗を拭う動作を見せた。「何せそいつは使用人のくせに癇癪かんしゃくだって起こすんだから」「まあそれは厄介な使用人ですこと」「君もそう思うだろ?」「ええ思いますとも」抱えている白猫がジタバタと私の腕の中で暴れる。敗者のもがきなど気にならない。もちろん勝者は私だ!


「彼女がここにいたがるならいさせればいいし、食料を求めて鳴くのなら与えるさ。汚い体で部屋を彷徨うろつかれるのは堪らないから風呂には入れるけれどねェ? あくまでそれだけさ、僕は責任なんて背負わないよ」
「その言葉が聞けて安心しました」


 仕方がない、別に私とてこの白猫が憎いわけではないし、仕事として仰せつかった以上は丁寧に洗って差し上げよう。最初こそいろいろあったけれど、今では立派に仕事のできる女なのだ。
 今だってほら、申しつかっていないけれど猫用のシャンプーや桶だって買ってきているのだから。明日あすには病院に連れていく予定も立てている。
 頭から尾にかけて、そっと濡れた手を滑らせる動作を繰り返しながら、ぶつぶつと呟く。
 明日あすは月曜日だけれど、あの様子ではシズクの体調は今夜中に戻らないし、先ほどまで原稿用紙を広げていたということは休養よりも仕事を優先すべきだと彼は判断している。完治まで時間はかかるだろう。
 中学生の頃は没頭してしばしばあったこととはいえ、優等生のくせして今週学校を欠席するつもりなのだろうか。


「まあシズクにとって今学校へ行く意味はないみたいですからね……いいのでしょう」


 時折「これでは誠凛を選んだ意味がないじゃないか」と愚痴をこぼすことがある。
 その度に私は自分が何もしてやれないことに心苦しい気持ちになるのだ。何をやっているのだあの男は、なんて腹立たしい気持ちすら生まれもする。


「お姫様、ハダサの洗身はどうだった? まァ、少なくとも僕よりは器用にやってくれただろ?」


 二日目にしてもう慣れたのか、されるがまま大人しく毛を乾かされた体は白く輝き、流線的な体も相まって素直に美しい。
 寝転ぶシズクの顔を前足で踏みつけても、シズクは怒るどころか「もうコーヒーの香りすらしないね」と満足そうに微笑わらうだけだった。
 自分のてのひらを見つめてもそこにはシワがあるだけで愛らしい肉球の一つもないことをひっそりと呪う。
 ……まあ、そんなものは紅茶を淹れるのに邪魔だから不要ですけれど?


「そのお姫様というのは何ですか」
「ふざけただけだよぉ。便宜上この猫をトラヴィアータって呼ぶことにしたのさ」
「なるほど……椿姫というわけですか」


 紙幣の肖像にもなったイタリアの作曲家ジュゼッペ・ヴェルディが発表したオペラ『La traviata』――日本では『椿姫』として今日まで親しまれている――からシズクはとったらしい。
 ここで私が『私以外にも名をやるなんて』と子供のようにいじけなかったのは、その名前が良い意味ではないと知っていたからだった。
 道に迷った女、道を誤った女、道を踏み外した女――
 たしかにシズクについてくるだなんて、猫とはいえ気が狂ったとしか言いようがない。ただの野良として死んだほうがよかったかもしれないというのに。


「シズク、近いうちにこの子にピアスが空くと思います」
「それはどうして?」
明日あす病院に連れていこうと思っています。勝手ですが予約はもう済ませました。どうやら予防接種や不妊手術をボランティアによって行われた野良猫は耳の先端をV字にカッティングするかピアスを空けるのだそうで」
「切ってもらったほうが衛生的にいいんじゃないのぉ? よくわからないけどさ」


 そう言うシズクの耳たぶには左右合わせて三つの穴が空いている。どの口が衛生だと言うのだろう。そもそも野良に衛生などあってないようなものだろうに。


「だってこの猫、美意識が高そうなんですもの」


 きょとん。そんな効果音がついていそうな表情だった。しかしそれもすぐに困惑したものへと変わる。どう反応したらいいのかわからないとでも言いたげだ。


「耳が欠けたらきっと拗ねてしまいますよ。それでシズクが耳を食いちぎられでもしたら、私は悔やんでも悔やみきれません」
「へ、へぇ……? よくわかるねぇ……?」
「種族は違えど同じ女ですから」
「アー、わかった任せるよ、君たちの好きにして。僕は彼女に合う石を探すね」


 至れり尽くせり、そんな言葉がぴったりだ。
 カッティングではなくピアスを選択したのは嘘偽りなく私からトラヴィアータへの優しさであった。けれどそもそもの話、カッティングまたはピアスを開けさせるという行為が野良の象徴であるからして、それをさせるのはシズクを主人に持つ者が私しかいないという事実を目に見える形にしたかったからだ。
 ――ピアスさえ開けさせてしまえばこちらのものです。


「何か言ったかい?」
「いいえ、何も」


 トラヴィアータを抱えて床に下ろし、「ン」シズクの額から冷却シートを剥がす。もうすっかり熱を吸いとったそれは薄く固くなっていて、時間の経ったパンケーキのようだった。


「シズク、あなたの体調が戻ったら久しぶりに『アンナ・カレーニナ』を読み聞かせてくださいませんか」
「これまた随分と長いものを選んだねぇ、いいけどォ?」
「少しだけでいいんです、私、ウロンスキイヴロンスキーのあの言葉が聞きたくって。『大体、安らぎなんて』――」


 記憶を頼りに貴族出身の青年将校の言葉を口にしようとして、しかしそれは私の手から引ったくられた薄いパンケーキがぺちりと音を立てて私の口もとに投げつけられたことで途切れてしまった。シロップとは似ても似つかないメントールの残り香がごくわずかに鼻先をかすめる。


「皆まで言うな、知っているとも、知っているとも」


 人差し指が添えられた薄い唇の間からは白い歯が覗く。食物を噛み砕くためのその凶器は、美しく並んでいることもあって今はただの装飾品に見えた。
 トラヴィアータが近づいてしまわないうちに、落ちた冷却シートを拾って制服のポケットへと深く押し込む。人間の体はいっそ愉快なほどに馬鹿であるが、人間以外の動物たちにとっては時に人間が驚くほど人間にとって日常的な成分が毒になることも多々あるのだ。これもそう。


「――『大体、安らぎなんて僕は知りませんし、差し上げるわけにもいきませんよ。でも、僕の全部、僕の愛なら、喜んで』」


 そう言ったシズクの表情はまるでスコーンを一片たりとも崩さずに食べることができたかのようだった。
 今日会ったあの男子生徒やシズクを慕うクラスメイトたちはきっとまだシズクのこの表情を知らないに違いない。


(P.82)



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