この器物の白き瞳にうつる 2/4
喉の奥にいちごミルクの甘ったるさが残っているのを感じながら誠凛高校のために用意された控え室へ戻ると、
各々が適当に時間を潰していた。火神くんは寝息を立てている。
「ここ、しわ寄ってます。美人に似合うのは笑いじわだけですよ」
「へ」
自分の眉間を人差し指で叩いて見せると、リコ先輩は一転、間の抜けた表情へと変わった。それに伴ってナイフで切られたように深く入っていたしわも霧消して、彼女のアーモンド型の目に丸みが戻る。「……ははーん」しかしそれもすぐに細められて、口もとは得意気な笑みの形へと吊り上がった。
「そーやって女子を落としてきたのかしら?」
「落とす?」
「色無君を見掛けると周りに少なくとも一人は女子がいるんだもの」
よく見ている人だ、そう思った。彼女も見ようとして見たわけではないということはわかってはいるが、自分が知らないうちに見られるというのはどうも心地が好くない。カメラを向けるにしろ、一声を掛けてくれさえすれば得意な笑顔でも作ってやるのに。
「友人となるのに性別は関係ありませんよ」
友人、なのだろうか。少なくとも模範生の色無雫にとっては葵くんをはじめとするクラスメイトは友人と呼べるだろう。しかし今の僕をしょーごくんが見たら、悪趣味なごっこ遊びだと
揶揄するかもしれない。少なくとも
他人から見たら友人関係とは呼べないということだ。
まァ、しょーごくんも友人ではないけれどぉ。そんなことを思いながら「席が近いから親しくなりやすかっただけのことです」と口に出した。
「ま、そーゆーことにしといてアゲル」
「それはどうも。それで、難しい顔をして一体何を?」
「ああ、そうだった」
彼女が「これなんだけどね」と僕に見せたのは、自室の棚にも収まっている一冊の本だった。本、と読んでもいいのだろうか。そんな疑問は残るが、書籍の形になっているのだからそれで間違ってはいないだろう。
「『DIARY minus』、少年iの『DIARY』初版限定特典よ」
「……ええ、世間ではイカれていると言われていました」
そこには絵も写真も無い。白い厚紙に『DIARY minus』という文字だけが雑に書かれた表紙は、書店に並べば酷く浮くだろう。それを彼女は指先でそっと撫ぜると「だって百部しか出さなかったんだもの!」とわずかに楽しげな色を混ぜた表情で返答した。
「人気作家なのにたった百部よ!? しかもそのほとんどが
コネで流れたらしいし。……まあ仕方ないことなのはわかっているわ。私自身、運良く二冊手に入れていたパパの知り合いに頼み込んで譲ってもらったし、文句は言えない立場」
誠凛高校男子バスケットボール部が練習で利用するスポーツジムを経営している彼女の父、相田
景虎はバスケットボールの元全日本代表選手だ。交流関係はそれなりに広いだろう。
他人の日記に目をつけた出版社や、それを欲しがる者のほうがイカれていると僕は思う。そこに
綴られているのは物語でも何でもない、ただの悪趣味な現実なのだから。
「しかもこの表紙のタイトルね、印刷じゃないの。ほら、ここ少しインクが
滲んでいるでしょ? まったく……面白いことをするわよね、すべて少年i自身が書いたらしいわ」
普段よりも少し早口な彼女に若干気圧されながらも、その薄く色付いた唇が口内だけで喋る日本人独特の小さな動きをして紡いでいく言葉をしっかりと受け止める。「実質サインじゃん!! 見せて!」「まずは手を拭け!!」「イタッ!」小金井先輩が悲しそうな顔で叩き落とされた手を
擦るその背中へと、水戸部先輩はそっと手を添えていた。
「オレの記憶が正しければだけど、サイン会が開かれたことなんてないだろ? このご時世、作家だろうと人気があればクイズ番組にだって引っ張りだこなのに。その百部だけが世に回った直筆となれば……そりゃ誰もが欲しがるよな」
「伊月も知ってるのか?」
「あー、日向はたしかに少年iとか読まなそうだな。オレはカントクみたいに追ってるわけじゃないから数冊読んだことあるくらいだよ。あれが特に好きだったな、『意図の糸』」
伊月先輩はミステリー小説を好むのだろうか。それともたまたまそれが肌に合っただけなのだろうか。「イトのイト?」降旗くんが片眉を上げた。そんな彼へと答えるべく、次に口を開いたのはテツくんだった。
「屋敷に閉じ込められたっていうよくあるようなミステリー小説ですが、ほかと一線を画すのは主人公は推理する立場でもなければ、脱出劇を繰り広げるわけでもないところです。犯人の目星はつけておきながら物語の中盤であっさり殺されてしまうんですよ」
「そうなの!?」
「殺されるシーンがごっそり抜かれていたし、まさか殺されるなんて思わないから『真冬に一晩転がされるのは寒かったな』なんて言われても、しばらくは脳が理解を拒んだよ」
「しかも最後の最後で、今まで女だと思われていた主人公が男だってことがわかるものだから、その町でもともと起こっていた殺人事件の犯人の可能性が主人公にも出てきたのよ! 登場人物たちはきちんと主人公を男だってことは知っていたみたいだし、たしかに一度も主人公が女なんて書かれてはいなかったんだけど、主人公の一人称が『私』だったものだから……。読者だけが勘違いしていたの。映像作品ではできないことね」
リコ先輩はそこまで言い切ると、「閑話休題!」と女性らしい
掌を合わせた。それは酸素が凍ったような小気味好い音を立てた。
「『DIARY』は少年iが実際につけていた日記だから、書籍化を叶えた出版社には少年i側からはかなり多くの制約が掛けられたらしいわ。その一つに発行は百部まで、なんてものもあって……まあ、批判が来るのは目に見えていたことではあったけど、想定以上にその声が多すぎたのね。出版社が少年iに泣きついて、結局何とか
重版出来へと持っていったらしいの。ただし、特典の『DIARY minus』は無しという条件でね。特典が付いていた初版は何体もの福沢先輩召喚が求められる書籍らしからぬ高額さだったけど、百部限定に始まり、批判の殺到、特典は手書きの表紙、違約金発生の
重版出来となれば話題性は十分すぎる。今も売れているみたいよ」
よく知っているものだ、なんて
他人事のように考えて、「ここまで全部雑誌の受け売りだけどね」と歯を見せて笑った彼女に微笑み返す。「それで、そんな
稀覯本を入手できたカントクがどうして難しい顔をしてたんですか?」僕よりも先に尋ねたのはテツくんだった。
「それがね、何だかおかしいのよ……」
「おかしい?」
「……気難しい人なのかしら、少年iという作家はもともと公開されている情報が異様に少なかったわ。それが『DIARY』の登場によって少しずつ予想が立てられるようになったの。『DIARY』によると日記を書き始めたのが一月十六日で、『とくべつなひ』って言っていることや、その日記帳は両親からのプレゼントであることから誕生日じゃないかって言われているわ。その四日後には本来保育施設に通う年齢であることが書かれているし、翌年の四月には小学校に入学しているから日記を始めたのが五歳であったことがわかるの。そして小学校入学の年には二月二十九日が出てきていたから
閏年だったみたい。……ここまではいい?」
彼女の問いかけに全員が頷いた。まるで怪談を聴いているかのように、誰かが唾を
嚥下した音が狭い控え室の中でいやに目立った。
「子供の読み書きはたった一年でもかなり成長するわ。『DIARY minus』を見ると、読み書きの成長具合からして『DIARY』が始まった時とまるで大差ないのよ。ほぼ同時期……まずはそれだけでもおかしいでしょ? 二冊日記をつけていたわけでもあるまいし、日付が被るということは年が違うということよ。でも日記を読む限り小学校へと通っている様子もないからやっぱり五歳なんだわ。それなのにね……二月二十九日が訪れているの」
タルトタタンを食べたという二月二十九日の日記が載ったページを開く彼女の指先が小さく震えている。まだ怪談を語るには少し早い季節だ。
「あれ、『DIARY minus』は文字がきちんと打ち込まれたものなんですね。『DIARY』はただスキャンしたものだったのに」
「もし黒子君が読みたいなら後で貸すわよ」
「……本当にいいんですか?」
「ええ、だって黒子君も相当好きみたいだし」
契約を交わす二人を見ながら、厄介な事にはなってくれるなよと一人願う。黒子テツヤという男はなかなかに面倒なのだ。そのやりにくさは黄瀬涼太や緑間真太郎の比ではない。
「
閏年が噛み合わないこともおかしいけど、そもそも五歳の月日が二回訪れるのもおかしいだろ? 全く別の年で、文字の読み書きが全く成長しなかったって考えるほうがずっと自然じゃないか?」
「『DIARY』は五歳の一月十六日に日記を始めてから、七歳の一月十五日までの二年分が収録されているの。六歳に
閏年ってことは次の
閏年は十歳よ? 『DIARY minus』が十歳の日記だって考えるのは無理がありすぎるわ」
彼女が伊月先輩の考えを否定するのは早かった。それで間違っていたのなら隠さず大笑いでもしてやったところだが、それは叶いそうにないらしい。
口をつぐみ、たっぷりと時間を使って鼻から深く息を吸った彼女の体が緩やかに上下するのを、瞬きせずじい、と見つめる。その横一文字の唇が再び開かれたのは、それからさらに一呼吸置いた後だった。
「――『DIARY minus』を書いたのは、少年iじゃないわ」
「え……?」
そこには絵も写真も無い。白い厚紙に『DIARY minus』という文字
だけが雑に書かれた表紙は、書店に並べば酷く浮くだろう。何せ、著者名すら無いのだ。
――ようやく気づく者が現れたか。
唇の端を吊り上げたのは、歓喜によるものか、それとも絶望か。しかし目頭にじんわりと帯びた熱に隠れて恐怖という感情が渦を巻いていることだけはわかった。
僕を見るテツくんが驚愕でもともと丸い目をさらに丸くしているのと反対に、僕はつっと目を細めた。
喉奥の甘ったるさはもう少しだって残っていなかった。
(P.75)