「ヒソカっ…も、やっ」

「ん、苦しかったかい?ーーごめんね」

やんわり押し返してきたナマエを腕の中から解放して表情をうかがう。上目がちに開かれた瞳は涙でうるんでいて、これはさすがにマズイ、と視線をずらせば紅潮したほおの下で小さなくちびるが息を乱していた。これでけして僕を誘っているわけではないのだから、彼女の存在はもはや暴力だ。煽り立てられてしまったこの劣情をどうしてくれよう。


3.奇術師も苦悩する


変態の快楽殺人鬼と各所で定評のあるぼくだけど、こと恋愛に関してはいたって真面目なつもりだ。遊びなら何のためらいもなく手を出せるけど、本気の場合そうはいかない。いけないんだ。そうだな、イルミあたりが聞いたら傑作だとめずらしく声をあげて笑うかもしれない。ぼくはおそれている。彼女にきらわれることを。

電話をしたのだ。いつものようにただナマエの声を聴きたいという100パーセント自分本位の理由で。そうしたら彼女がめずらしくしおらしい態度をとるので、どうしたのかとたずねると返事は途絶え、やがて受話器の向こうから激しいせきが聞こえてきた。彼女は風邪を引いて寝込んでいたのだ。医者の不養生とはまさにこのこと。
看病してあげると申し出たボクに、彼女は「いい」と即答するなり一方的に通話を切った。これを「看病しに来ていい」の意であると故意にポジティブに解釈したぼくはナマエの弱みにつけ込むようにしてお宅訪問を果たした。
チャイムを鳴らすとやや間があって、しんと静まり返った家のドアが開き、肩にカーディガンを羽織ったナマエがふらりと現れた。熱もあるらしく、赤い顔をして焦点の定まらない瞳で1秒静止していた彼女は、やがてボクを認識して覚醒すると瞬時にドアを閉めようとした。ボクは足をすべりこませて回避する。それでも遠慮なくドアを閉めようとするナマエと、ドアを開けようとするボクの攻防はけっきょく彼女が折れて収束した。

「なにしに来たの」
「言っただろ。ボクが看病してあげるって」
「いらないって言ったじゃん」
「"いい"って言ったんだよきみは」
「…は?」
「看病しに来て"いい"ってね」

ハッとした顔になったナマエはやがてあきれ顔になって、拡大解釈もいいかげんにしてよと毒づいた。それでもたったひとこと「帰れ」と言わないのはボクがあからさまに大きなスーパー袋(中に風邪薬や飲料やらが入ってる)を持って来ていて「さあ看病しますよ」と言いたげだったからなんだろうか。それとも単に彼女が来客を突っぱねられないきまじめな善人だからか。どちらにしても人を無下にはできない彼女の健気な性質を、ますます好きだと思ったボクはどうやら重症らしい。


ナマエには悪いけれど、風邪を引いている彼女はたまらなく魅力的で股間にうったえるものがあった。ベッドの横で寝顔を見ていたら「気持ち悪い。見るな。あっち行け」となじられた。

「…クックックッ…」
「もう…なんで喜ぶかな…」

辛そうに顔をゆがめながらも、ナマエはボクの相手をしてくれる。どこまでも真面目な彼女にゾクゾクする。

「ああ、もう食べちゃいたいなぁ」

ふと漏らしたひとことに、彼女はものすごい目付きになってボクをにらんだ。赤く潤んだ瞳じゃボクを興奮させるだけだっていうのに。

「さてーー…」
「…帰るの?」

立ち上がったボクを、ナマエは上目遣いに見上げて首を傾げた。

「さびしいかい?」
「いいえまったく。むしろせいせいする」
「ククク、帰らないよ。何か食べやすいものを作ってくる」
「いや帰れよ」
「台所借りてもいいかい」
「…食欲ないし、ほんとにいいよ。もう帰って」
「…ならせめて作り置きだけさせてくれよ。いい食材をたくさん買って来たんだ。まさか持ち帰れなんて言わないだろ?ボクだって食べたいし」
「……その言い方ずるい」

すねたように口をとがらせたナマエに、ボクはまた笑った。

「食器はどれを使ってもいいのかい?」
「……うん」

ボクはナマエの看病にひと肌もふた肌も脱いだ。額のタオルを変えることからはじまって、食事をつくり、換気に掃除、ゴミ捨て、猫の世話まで。いいという彼女を押し切って何から何まで面倒を見た。(ちなみに洗濯物もやろうとしたけど絶対にさわるな変態と罵られた。興奮してしまった下半身をしずめるのに大分時間がかかった)

「ヒソカ…」
「ん?なんだい?」
「………ありがと」

そこまではよかった。完全にボクのペースだったし、ナマエも何だかんだ言ってボクのお節介に助かっているようだった。
問題が起きたのは彼女が中途半端に回復したあとだ。膳を片付けようとノックして部屋に入ると彼女はベッドから起きて寝巻きのボタンを外そうとしていた。

「出てて」
「着替えるのかい?」
「…うん、まあね」

ナマエは嘘をつくのが下手だ。声の調子や間合いで簡単にわかる。ボクに後ろめたいことがあるって。

「どこへ行くんだい?」

核心をつくと彼女は少し黙り込み、それから早口に言った。

「…仕事」
「仕事?」
「手術しに行ってくる」
「…なに馬鹿なこと言ってるんだ」
「馬鹿なことじゃない。今、院から電話があったの。近くで大きい事故があって大勢運び込まれたから執刀する人間が足りないって。行かなきゃ」
「そんな身体で行くのかい?足元だっておぼつかないじゃないか」
「…どいてヒソカ」
「ダメだよ。行かせない」
「…どいて」
「ダメだ」
「どけって言ってるの!」
「そんな状態のきみに何ができるっていうんだ。手術なんかやれるはずないだろ。役立たずは寝てろよ」

感情まかせに吐き捨てて、ハッと気がついたときにはもう遅かった。出てしまった言葉は取り消せない。彼女はひどく傷ついた顔をしていた。
静まり返った部屋に時計の針が響く。言われなくてもナマエだって薄々わかっていたんだろう。今の自分が医師として使い物にならないことくらい。それでも彼女が見ないようにしていた事実をボクはえぐった。ボクのひとことのために彼女は傷ついている。なのに不思議となんの高揚も得られなかった。高揚どころか心が沈んで落ちていく。傷つけたのはボクなのに、傷ついたのもボクだった。
やがてナマエは乱暴にベッドに腰を下ろしてうなだれた。それから静かに

「お酒ちょうだい」

とだけ言った。
与えるべきじゃないのはわかっていたけど、医師として働けない無念さに打ちひしがれている彼女を、他に救う手立てがどうしても見当たらなかった。欲しいと言われたものを持ってくることだけ。それ以外にボクができることは何もない。口を開いて薄っぺらなやさしさを振りまくことはできでも、そんな言葉が今のナマエに届くはずもない。ましてそばにいるのがボクなんかじゃ。腹の底から無力さがこみ上げる。ついこの前ナマエを泣かせた男。あいつなら上手くなぐさめるのかもしれない。




「何でこんなときに熱なんか…馬鹿みたい。馬鹿すぎる…」

酔いがまわってきたナマエはしだいに饒舌になり、やがて、普段これでもかと敬遠しているボクにスキンシップさえ取るようになった。

「おかわり」
「ダメ。もうおしまい」
「なんだよーヒソカのけち…」

酒を取り上げるとナマエはあからさまに不機嫌になってボクをにらんだ。とろんとした瞳でそんなことをされたって、かわいいだけだ。いつもあんなに素っ気ないくせしてこっちが反省モードに入っていれば煽ってくるなんて、一体どういう小悪魔なんだか。

「もう寝なよ。治らないよ」
「えーえ、ねますよ。やくたたずはとっととねます」

ろくにまわっていない舌で拗ねたように言ったナマエは勢いよく寝転がった。ボクの膝の上に。

「ナマエ、寝るならベッドで…」
「んー…ヤダーここがいい…」

いつになくご機嫌で、無防備そうにふにゃりと笑うのを見て、ボクの理性が音を立てて崩れた。ーー魔が差した、としか言いようがない。
気がつけばナマエの脇に手を入れて抱き込み、貪るようにキスしていた。

「……ん…」

はじめてしまったらもう止められなかった。まだもう少し味わっていたいという気持ちに歯止めがきかず、ただただ口内を犯しつづけた。

「ヒソカっ…も、やっ」

「ん、苦しかったかい?ーーごめんね」

やんわり押し返してきたナマエを腕の中から解放して表情をうかがう。上目がちに開かれた瞳は涙でうるんでいて、これはさすがにマズイ、と視線をずらせば紅潮したほおの下で小さなくちびるが息を乱していた。
一度取り戻したはずの理性がぐらぐらと揺れ出す。
16/05/31
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