朝。時刻は七時半。
早く出ないと遅刻する時間に、私は布団の上で静かに格闘を繰り広げていた。

「むー」

ぐらぐら。

布団の上に積み重ねた本の山の中から、慎重に目的の本を取り出す。
それを鞄の中に丁寧に仕舞うと、私は布団の上のプリントや違う本の山を片付けて玄関へと向かった。

「おっとと…お父さん、お父さん!」

出掛けえる前に地下室への薄暗い階段を下りて、『開放厳禁』という張り紙が貼られた研究室の扉を少しだけ開ける。

中からジーとかカタカタという機械音が聞こえてくる。
暗い室内にパソコンの明かりだけが点いていた。

白衣を着た大きな背中が見える。
一心不乱にパソコンのキーを叩いていて、少し怖い。

「いってきまーす。お父さん」

その背中に小さく声を掛ける。
なるべく明るい声を心掛けて。

返事を確認しないで、私は扉をそっと閉めた。

それから玄関に戻って、外に出る。

「いい天気だなー」

青空だー、青空だーと言いながら私は学校へと急いだ。
CCMで時間を確認する。

あ、やばい。本当に遅刻かも。


***


「ユイが本を読んでるなんて、明日は雨か…」

「え、ひどいっ!」

本の山から発掘した本を私が読んでいると、カズ君が驚いたようにそう呟いた。
そういうカズ君の手にも図書館から借りてきたらしい本が握られている。

カズ君だって普段本読まないし、お互い様じゃないかなあ。

「だって、読書感想文書くんだから、本読まなきゃいけないんだもん」

「そりゃそうだ。
しっかし、今日の国語が読書感想文って寝る奴多いだろうな」

「うん。
私も寝たいけど、感想文は時間かかるし…本読むの遅いからなあ」

「まあ。がんばれ…って、お前の本、児童文学じゃねえか」

「ふふん。『ピーター・パン』なのです!」

私は自分の読んでいた本をカズ君に見せる。
ジャーンという効果音も忘れない。

彼の言う通り、確かに子供のための本という印象だけど、『ピーター・パン』は本当は戯曲でそれが小説になったものなのだ。
実はとっても深い作品なのである。

「…お前にはちょうどいいか」

「ぴ、『ピーター・パン』はとっても文学的なんだよ!」

「あー、はいはい」

私の言い分を適当に流したカズ君は自分の席に着いてしまう。
本当はもっと語りたかったけれど、彼にその気がないんじゃ仕方がない。
私も大人しく読書に励むことにする。

でもこの本は昔から読んでいるので、実は内容はほとんど頭の中に入っている。

ウェンディはお姉さんだなあ。
ピーター・パンはやっぱり永遠の少年だあ。

頭の中にネバーランドを描きながら、登場人物たちを動かしていく。
本当に楽しい。
私も妖精の粉を浴びて、ネバーランドに行きたい。
あそこでなら、大人にならずにすむのに…。

「ずーっと子供なのも嫌だけどなあ」

でも、あんまり関係ないかもしれない、私には。

ぺらぺらとページを捲りながら、私が追いかけるのは妖精のティンカー・ベル。
物語を読み込んでいくとき、私は追いかける人物を変えていく。
視点を変えて物語を読むと物語は全く違う形になっていく。

幸せが不幸になったり、嘘が本当になったり、正義が悪になったり…。

うん。面白い。

中でもティンカー・ベルは昔の映画にピーター・パンとの始めて会った時のエピソードがあって、それを思い出しながら読むと面白い。
有名な映画監督の創作が入っていて、原作とは違うけど、頭の中でそれをちょっとずつ合わせて読んでいく。
そうすると、彼女はまるでお母さんみたいで、お姉ちゃんみたいで、ピーター・パンの救世主のようだった。

「いいなあ。いいなあ」

テディ・ベアも直せて、空も飛べて、大切な人のためになんだって出来る素敵な妖精。

こういうふうになれたら、いいなあ。
大好きな人を守れたら、いいなあ。

「おお! 書けそう!」

私は筆箱からお気に入りの桜色のシャーペンを手に取ると、すらすらと感想文を書き上げる。
今日は調子がいいのか、自分でもこの言葉がいいね! というものがいくつも浮かんできて、なんだか嬉しくなった。

「出来たー!」

「鳥海さーん、うるさいですよー。
眠ってた人が起きちゃってます。
起きた人は今すぐ感想文書いてねー」

あまりの大声に居眠りしていた人から恨めしげな視線を受け、先生からは注意されてしまう。
恥ずかしさに原稿用紙で顔を半分隠しながら、ちらりと周りを窺うとカズ君と目が合う。

『バーカ』

口がそう動いたのが確かに見えた。

「うっ」

思わず声が漏れて、あわてて手で押さえる。
分かってます。私は馬鹿だもの。
ぷいっと彼から顔を背けて、もう一度感想文を見直すことにする。

馬鹿でも見直せば、欠点を直せたりもするのです。

《きっと迎えに来てくれると信じながら、幼いピーター・パンは泣いていたんだと思います。》

最初の一文は今見てみると意味不明で、失敗したかなあと思ってしまう。
私は消しゴムを手に取って、消した。
消えていく文字が寂しげに掠れていく。

「いいもん。どうせ馬鹿だもん」

気分を変えるみたいにわざと拗ねてみた。
なのに、ちょっとだけ気分が重くなる。

本当、なんでだろう。

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