じわんじわんと蝉の鳴き声が無数に木霊する中、僕は図書館でイオを見つけた。
いや、正確には図書館の外に設置されているベンチで眠っている彼女を発見した。

僕はその姿に足を止め、そして考えるよりも先に彼女に近づいていた。
音を立てないように、そっと。

近づくとわかる。
微かな呼吸の音、それに合わせて上下する胸。
左腕は膝の上にあるが、右腕はだらしなく投げ出されている。
額には玉のような汗を浮かべ、それがゆっくりと顔を伝って喉元まで落ちていく。
結ばれた黒髪は肩に零れ、少しだけ乱れていた。

「…イオ」

小さな声で彼女の名前を読んでみるが、起きる気配はない。

「君は用心深いのか、無防備なのか…よくわからないな」

彼女の目の前に立ちながら、僕は呟く。
捜してみればいなくなり、いつの間にかいることの多い彼女を僕はよく知らない。
勝負を持ちかけられたからといって、その内容は外面的なことの方が圧倒的に多い。

彼女の心を僕はよく知らないのだなと、その寝顔を見てなんとなく思う。
綺麗だと素直に思えるその寝顔に、いつもの笑顔はない。
ただなんでもない少女がそこにいるだけだ。

静かに、ゆっくりと、それすらも透明な彼女の寝息が聴こえる。
熟睡…といったところか。

ああ、でも…安心しきっているわけではないのだろう。
その寝顔は綺麗ではあったが、ただ疲れたから眠っているというだけで、生きるための睡眠と言った方が近く感じられた。

「それにしても…何故こんな暑い場所で…」

図書館の中ならもっと涼しいだろうに…。

熱中症になることをあえて狙っているのか、飲み物を持っている様子もない。
僕は生温い溜め息を吐きながら、自動販売機があったはずだと思って周囲を見回した。


***


ペットボトルの水を購入し、ベンチに戻って来ても、イオはまだ眠ったままだった。

問題は僕の手にあるペットボトルである。
買ってきたはいいが、どう渡すかは考えていなかった。

「………」

傍に置いておくにしても飲んでもらえる可能性は低い。
だからと言って、わざわざ起こして飲んでもらうほどのものでもない気がする。
いや、ここは飲んでもらうべきなのか?

悩みながら、表面に水が浮かんできたペットボトルを僕はおもむろに傾ける。

未開封だったが、泡が小さくごぽりと音を立てた、気がした。

「……んっ…」

整った睫毛が細かく震え、閉じられていたその瞳が開かれる。

焦点の定まらない青い瞳。
それはいつも思うことであるが、海をそのまま零したような色をしていて、とても美しい。
少しずつ、何かを確認するように開かれた瞳で、彼女は僕を見つめた。

何秒、何十秒…その瞳に吸い込まれるように、まるで水の中にいるかのように時間がゆっくりになる。

「…何してるのかしら? ジン」

しばらくして、彼女が小首を傾げながら聞いてきた。
額の汗がその動作でまた喉元に落ちて、消えた。

「君こそ、何をしているんだ」

「……寝てた」

「寝るなら図書館の中の方がいいだろう」

「…だって、中を見たら結構人がいたんだもの。
その点、ここなら暑いから人があんまり来ないし、寝首をかかれる心配はないでしょう?」

冗談めかして、イオはいつものように笑いながら言う。

僕は…それは嘘だなと思いながら、手の中のペットボトルを彼女に投げた。

「ほら」

「おっと……。ありがとう、ジン」

少しだけ慌てて、彼女はそれを受け取る。
それから、ベンチの空いていたスペースを軽く叩きながら、僕の名前を呼ぶ。

「ジン。
暇なら、少しだけ一緒にいましょう」

「…少しだけだ」

「ええ。少しだけ」

僕は彼女からほんの少し離れ、ベンチに座った。
僕が座るのを確認してから、イオは蓋を開けると緩慢な動作で水に口をつける。

少しずつ少しずつ、まるで大事な何かのように飲んでいく。

「ふう。生き返ったー」

「熱中症にでもなりたかったのか」

「うーん…。昼寝のつもりだったから、それほど眠るつもりはなかったのよ。
でも、疲れてたのね。久々によく寝たわ」

「よくこんな暑い中、熟睡できるものだな」

「あらら。暑いのがまたいいんじゃない。
この気怠い感じ、嫌いじゃないわよ。
それに、家の中は寒すぎるのよ」

「……?」

水を揺らしながら、彼女は微かに寂しそうな声を出す。
少しだけ顔を俯かせているために、髪が邪魔をして表情は窺えない。

風が吹く。

彼女の髪が靡き、その瞳が見えた。
爽やかな澄んだ青い瞳。
夏の海のようだったその色が、一瞬にして黒く濁っていくような錯覚を覚える。

もう一度、水を飲む。
こくん、こくんと喉を鳴らし、零れた水が唇を伝い、艶めかしく輝いた。

「…うん。美味しい」

もうだいぶ温くなったそれを、彼女は全て飲み干して、嬉しそうに寂しそうに…小さくそう呟いた。



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