薄く朝靄が立ち込める中、彼女はCCMを開こうとして、止めた。
遠くから足音が聞こえたからだ。

焦げ茶色の瞳をすうっと細めて、足音の聞こえる方向を見る。
朝霧の向こう側から彼が来るのが見えて、彼女は息を潜め、小さく深呼吸をしながら、彼を待った。

そして、彼が彼女の近くに来た時、わざと葉を揺らし、黒髪を枝に絡めた。

そのままじっとしていれば、見つからなかったはずなのに。


***


「………」

昨日の爆発で瓦礫が飛散し、無残な姿になってしまった庭を歩く。
被害状況を確認するでもなく、朝の澄んだ空気を楽しむでもなく、ただ「アルテミス」のことだけを考えて。

勝利することだけを考えて。

そうやって歩いていると、不意にガサガサと不自然に葉の揺れる音がして、CCMを構えた。
ジ・エンペラーが武器を構える中、慎重に音の先を辿る。

「………あ」

音の先にある樹を見上げると、朝靄の向こうにあった焦げ茶色の瞳と目が合った。

「……何をしている。鳥海ユイ」

その名前を呼ぶと、彼女は慌てたように勢いよく首を左右に何度も振った。

「ち、違うんだよ! また侵入しようとしたんじゃなくて、忘れ物取りに来ただけで!
ちょうど警備システムが切れてる場所で…!
不法侵入だけど、挨拶するわけにもいかなくて…!」

しどろもどろになりながら、そう弁明した。

僕はその様子に重い溜め息を吐く。
何をしているんだと呆れ、あの理由の分からない違和感にまた苛まれ始めたからだ。

彼女はそんな僕に首を傾げ、「幸せが逃げるよ」と場違いな明るい声で言った。

「忘れ物を取りに来て、何故君は樹の上にいるんだ…」

「えっと…それはですね。猫がいて…ですね」

「猫?」

「うん。猫が下りられなくなってて、それで助けてあげようと上ったんだけど…」

「下りられなくなったのか…。
それで、肝心の猫はどうしたんだ?」

猫など樹のどこにも見当たらない。
下りられなくなり、泣きそうになりながら、鳥海ユイが必死に樹にしがみついているだけだ。

「私が下りられなくなっている間に、自分で下りました…」

「………」

間抜けなものだと思ってしまう。
下りられないのに、何故上るのか。
昨日僕に見つかり、自分の実力を認め、潔く降参した彼女はどうしたのだろうか。

「……僕に助けろとでも言う気か?
それだと、誰か呼んでくることになるが…君は必然的に捕まるだろうな」

今通報してもいいのだが、彼女は「シーカー」の中でも大した戦力でもなければ、それほど分析能力に秀でているとは思えなかった。

僕にとっては違和感を与えるだけの、ある意味厄介な存在であるが。

それに彼女の言う通り、この場所は瓦礫ばかりで復旧には時間が掛かることや他にシステムを回すために、ここの警備システムは切ってある。
こちらに落ち度がないわけではない。

「あ、大丈夫です。
でもですね、ジン君にはちょっと頼みごとが…」

「………なんだ?」

敵ということを完全に忘れているのか、彼女は無邪気な声で僕に頼んでくる。
律儀に訊き返す僕も僕だ。
放っておけばいいものなのに、砂を食べたようなざらついた違和感がこの場に僕を引き留める。

「そこにある瓦礫をどけてくれないかな、と。
そうすれば、着地できるから!」

「……そうすれば、大人しく出て行くのか?」

「うん! あとは…その、この髪をほどいて欲しいなあって」

彼女の指差す方を見ると、その癖のありそうな黒髪が樹の枝に絡まっていた。

僕はその姿に、また溜め息を吐いてしまう。

「……自分でほどけばいいだろう。
それにLBXがあれば、瓦礫もどけられる。
一応、落ちた時には対処する」

「あ…いや、その…!
私、バランス感覚はないから、この状態では無理なので、お願い出来ないかな…と。
すぐに出て行きますので…」

本当に泣きそうになりながら、彼女が僕に懇願する。
樹にしがみつく手は震えていて、CCMを握れば落としてしまいそうでもある。

僕はその手を見て、僕の服の袖を握って来たあの時を思い出す。
あの冷たさを。
得体の知れない違和感が僕を現実に引き戻したのも事実だ。
そして、今もその泣きそうな顔に妙な違和感が背筋から這い登ってくるが、どうにか無視した。

………助けるか。

僕はCCMを構え直すと、ジ・エンペラーを樹に上らせる。

僕のその行動に、彼女はにっこりと花が咲くように笑った。

「あ、ありがとう!」

「まだ助けていない」

意外にも複雑に絡まっている黒髪を切らないように、注意してほどいていく。
指の力加減が難しいが、どうにか綺麗にほどけた。

次に下の瓦礫をどうにかするために、ジ・エンペラーをそのまま落下させる。
どけてくれという要望だが、ジ・エンペラーではどけることは難しい。
武器を構えて、振り上げ、瓦礫に叩き込む。
元々ひびが入っていた瓦礫は、必殺ファンクションを使わずとも簡単に砕けた。

「おおっ!」

頭上から感嘆の声が上がる。

「これでいいだろうか」

その声に溜め息を吐きかけ、また何か言われるのではと思って、どうにか止めた。

鳥海ユイはそんなことには気づかずに、にこにこと笑って、ゆっくりと樹の枝から立ち上がろうとしていた。

「大丈夫! では、行きます!」

そう言って、彼女は帽子とスカートを押さえて、枝から飛び降りた。

それなりの高さではあったが、軽やかに着地を決め、僕に笑いかける。
僕の目線よりも低い位置から向けられた笑顔の横の黒髪は、少し乱れていたけれど、問題ないようだ。

「あう! …ちょっと足がビリビリする」

直後に痛みを和らげるようにその場で跳ねてはいたが、どうやら大丈夫らしい。
帽子の位置を直し、服の汚れを払ってから、鳥海ユイはまた僕に向かって笑みを浮かべた。

それに対して、また違和感を覚え、顔をしかめてしまう。

止めてくれと言いたくなる。

「ありがとう! ジン君!
おかげで助かりましたあ」

現実感の薄い声が耳に届く。
その笑顔と声を複雑に思いながら、僕はジ・エンペラーを回収し、CCMを閉じる。

彼女が動くよりも先に僕の方が屋敷に戻るために歩き出す。
早くここから離れよう。
これ以上、違和感を抱えるのは嫌だ。

「用が済んだなら、早く出て行くんだ。
僕ももう行く」

「あ、うん。
本当にありがとう。ジン君。
またね」

鳥海ユイは大きく手を振って、僕が去って行くのを見送った。
少しだけ視線を後ろへ向けると、彼女の姿が朝靄の中に消えていくのが見えた。

その光景に安堵する。

違和感も同じように朝靄の彼方に消えていくのが分かるから。


***


彼の足音が遠ざかる。
その背中が朝靄の中に消えるのを待ってから、彼女は静かに溜め息を零した。

「………」

その場をすぐに去ろうとはせず、周囲をきょろきょろと見回して誰もいないことを確認すると、樹の枝に絡めた黒髪を弄る。

大丈夫だ。無理に千切られてはいない。
ただ少し乱れてはいるので、それを直すために彼女は慎重に白い帽子を取った。

するりと。
長い彼女の秘密の黒髪が背中に零れる。

長い黒髪を無造作に手櫛で整える。
彼女の視線はスカートのポケットの中に入れた忘れ物へ。

昨晩の爆破に使った爆弾の破片。
それを回収しに来たのだ。
ほとんど燃えてしまったけれど、見つかると厄介だと考えて。

「はあ。学校……行かなきゃなあ」

帽子を抱え、その目で今度はまっすぐに海道ジンの消えた方向を見つめた。

「…………」

たっぷりと時間を掛けて、無言のまま、朝靄の向こうを。

切なげに、寂しげに、何処か期待を込めて。

しばらく見つめて、見つめて、漸く視線を外した。

手櫛で整えた髪を慣れた手つきで帽子の中に仕舞う。
柔らかな頬をむにむにと触り、最後に笑顔。

「『アルテミス』楽しみだなあ」

明るい声に続いて、「ララルル〜」という妙な歌を歌う。
腕をブンブンと元気よく回しながら、鳥海ユイは駆け足でその場を後にした。


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