*「神様も知らない (前後編)」の続きとなります。
後編を読んでいないと分からない部分も多いと思うので、そちらを読んでから読んで頂けると幸いです。
時系列としてはイノベーターがシーカーを襲撃した後ぐらいのお話となります。



美しい庭園を見たことがある。

適度な水と養分が与えられ、当たり前のように光が注がれる綺麗な場所。
色とりどりの花が咲き誇り、季節ごとに違う顔を見せてくれる。
その庭園には何人も庭師の人がいて、毎日丁寧に庭木の世話をしてくれる。

私が庭園を見ていると、私の目の前で庭師の人は木や花に徐にハサミを入れて、その枝を伐ってしまう。
それは剪定という作業で、庭木を美しく保つためには必要な作業なのだという。
他の美しい花のために必要なことなのだ。

まだ綺麗に咲いている花も枝と一緒に地面へと落ちる。

私はそれを拾い上げて、じいっと見つめてから、こっそりとその花を両手で包んで持ち帰った。

私はあの花をどうしたんだっけ。

今でも十分な栄養と水を貰って、光が溢れる中、あの庭園は美しく咲き誇っているのかな。


***


「忘れないで」という言葉が頭から離れない。

忘れていたことを仕方がないことだったと言い訳する僕に、言葉が鉛のように重く沈んでいく。

あの言葉から逃れたい。でも、逃れられない。
離して欲しい。
これを背負っていきたくはない。

もしも、離してくれるなら、何だってするのに。

でも、離していけないんだとも、確かに思った。


「雨宮」という名前の札がある病室の扉を静かに開ける。

四人部屋だというその病室は不気味なほどに静かで、よく見れば、一番奥のベッドにしか人はいないようだった。
病室の窓は開け放たれていて、心地よい風が拭き、白いカーテンが揺れる。
しかし、病室の中は消毒液のような独特の薬の匂いが他よりも微かに強いように感じられた。

「…………」

足音を立てないように病室に入りながら、さっき廊下で聴いた話を思い出す。

「雨宮さんがまた暴れたのよ」「娘さんがまた怪我をして…」「傷だらけで可哀想…」。

ひそひそとした声は最初は憐れんでいたけれど、最後は病室の掃除が面倒だやいい加減お見舞いに来なければいいのに、という文句のようなものに変わっていた。

……薬の匂いが酷いのは、掃除をしたからか。
ならば、窓はその匂いを逃がすために開けているのだろう。

ゆっくりと唯一埋まっているベッドへと歩み寄った。
ぽたりぽたりと、点滴が落ちる音がする。

そこには思った通り、雨宮ヨルとその母親がいた。

母親は眠っていて、そのベッドの淵にもたれ掛るようにして雨宮ヨルがいる。
そして、白い手がだらりと力なく、それでいながらまっすぐに母親の腕に繋がる点滴の管に伸びていくのが見えた。

反射的に手を伸ばして、その腕を掴む。

「……っ!」

掴んだ瞬間に腕が小さく跳ねて、彼女が痛そうに呻いた。

けれども、その手を離さなかったのは、彼女の腕がまだ点滴の管へと伸ばされているからであり、微かに見えた青色がぞっとするほど冷ややかだったからだ。

腕を掴まれたまま、緩慢な動作で濁った青色の瞳が僕へと向けられる。

「………何?」

背筋に悪寒が走る。
その声が、目が、怖いと思った。

「いや、その……」

どう説明すればいいのだろう。

まさか、点滴を外そうとしていただろう、とは言えない。

彼女には理由が…あるから。理解出来てしまうから、言えない。

「少し……外で話せないか?」

とりあえず、この場から離そう。

彼女は僕を睨み付けてから、眠る母親をしばらく見る。

童話の登場人物のような無機質な美しさ。
長い黒髪がシーツの上に広がっていた。
その髪は毎日手入れをしているのか、艶があり、陽の光に当たって輝いている。

「……いいよ。
中庭の方に行こう」

「分かった」

その言葉を聞いて、僕は漸く彼女の腕を離す。
それを確認してから、音を立てないように彼女が椅子から立ち上がる。

「行ってきます。お母さん」

彼女はそう言って、母親に掛かっていた布団を直してから、僕の横を通り過ぎ、病室の扉に手を掛けた。
僕も彼女を追う。
彼女は病室を出る時、僕の後ろ、眠り続ける母親に寂しそうに視線を送った。

彼女の視線と僕の視線は混じり合わなかったけれど、痛いほどにその意味は理解出来る。

切なさが、激しさが、悲しみが、慈しみが、憎しみが、愛しさが。

それを抱えるのは、どれほどの痛みを伴うのだろうか。
そんな痛みは抱えるべきではないのに。

僕も痛みを失くすためなら、なんでもしたいと思ったというのに。


ぽつりぽつりと人がいる病院の中庭で、手頃なベンチを見つけると、僕らはお互いに間隔を空けて座った。

「……病室に来たのは、灰原君のお見舞いのついで?」

先に話を切り出してきたのは、雨宮ヨルだった。

ぼんやりと目の前の木や花を見つめながら、突き放すように訊いてくる。

「ユウヤの見舞いもあったが、アミ君が悠介さんが亡くなってから、君の様子が変だと言っていたのを聴いて……来たんだ。
君は近くで悠介さんの死を見ていたからではないかと、心配していた」

「そう。アミちゃんが。
………悠介さんのことが、原因じゃないんだけどな」

彼女の言葉に僕もそうだろうなと思う。

僕もその場にいたが、彼女は僕よりもずっと冷静だった。
加えて、僕は彼女の母親の状態を少なからず知っている。
おそらくは悠介さんは…時期が同じだけで、きっかけではないのだろう。
彼女にとって彼がそれほど優先順位が高いとは、どうしても思えなかった。

「……腕、怪我をしたのか?」

話題を逸らすように、僕は彼女に訊く。

彼女は左腕に視線を送り、その箇所を擦りながら、こくりと頷く。

「軽い打撲だよ。花瓶、受け止められなくて…。
シーツ、濡らしちゃった。
嘔吐もしたから、看護師さんにも迷惑掛けちゃった。
お母さん。私が来るといつもああだから、本当は来ない方が良いって、解ってるんだけど……」

左腕を撫でていた手が止まり、服をぎゅっと握った。

「お母さんに会うの、止めるのはいけない気がして…。
もうお母さんだけだから」

「そうか…」

母親しかいないから、あそこまで出来るのだろうか。
傷付けられ、叫ばれ、忘れられ……それでも親と思えるのだろうか。

「……忘れられても、か?」

―――忘れないで。

蘇る、いつか聞いた彼女の切実な声。
頭の中で、幾度も反芻される。
あの声が、僕の中から消えてくれないというのに、雨宮ヨルはそれを母親には赦すのか。

「……誰だって、もうすぐ死にますって言われたら、ああもなるよ。
以前は…あれほどではなかったんだけど、今はちょっと情緒不安定なだけ。
辛いのは、お母さんだから。私はいいんだよ。
……ごめん。ジン君。
『忘れないで』って言ったのは私なのに、なんだか、おかしいね」

そう言って、彼女はくすくすと笑った。

くすくす。くすくす。

大して面白くなさそうに、静かに、疲れたように。

「………お母さんが怒るのは、なんとなく解るの。
私はお母さんの望むものをあげられないから」

ぽつりと彼女が呟いた。
僕はそれをただ黙って聞く。

左腕に置かれていた手は膝へ。俯き、亜麻色の髪が零れ落ちる。

「お母さんはお父さんの愛が欲しいの。
でも、それは私にはあげられない。
あげたいけど、私はお父さんにはなれない。
それ以外なら、どうにかなるかもしれないのに」

「それは、父親を呼べばいいんじゃないのか?」

単純にそう思った。
姉は亡くなっていると聞いたが、父親については聞いていない。
離婚しているとはいえ、相手の死期近いとなれば話は別だろう。

「……お父さんも亡くなっちゃったから。
随分前に天井から吊る下がっているのを、私が見つけた。
……お母さんには、言ってない。
お母さんの耳に入るといけないから、お医者さんや看護師さんにも…誰にも言ってないんだ。
だから、言わないで。ジン君」

彼女の口から出た言葉と僕へと懇願する瞳に、冷たい手で心臓を握られたような気がした。

想像してしまった。
天井から吊るされた死体を。
それを見つけた雨宮ヨルを。

僕は彼女の父親のことを誰からも聞いていない。
彼女の仲間たちは誰もそのことを知らないのだろう。

これは秘密だ。

彼女の秘密にゆっくりと、ゆっくりと心臓を締め上げられ、息をするのも苦しくなっていく。

「ああ。言わない」

どうにか、それだけを吐き出す。

彼女の口から現状を聞くたびに、どうしようもない想いが込み上げてくる。

雨宮ヨルには出会った時から危なげな雰囲気があった。
それが雰囲気で終わればいいものを、近づくとそれだけ輪郭がはっきりしてくる。

危なげなのではない。危ういのだ。

底なしの闇の一歩手前、自分からその奥底を覗き込んでいるような気がしてならない。

彼女をこちら側に留まらせているのはなんなのだろうか。

答えは明白であり、そして、それはもうすぐその闇の中に落ちていく。

「君は……母親が亡くなったら、どうするんだ…」

後を追うのか、とは言えなかった。

雨宮ヨルを前にして、どんどんと僕の言葉は不自由になっていく。

先ほどの秘密であったり、「忘れないで」という言葉であったり、淀んだ青い目であったり、そういったものが言葉を奪っていくように錯覚する。

「……生きていくと思うよ。今まで通りに。
環境は変わるかもしれないけど」

その言葉に安堵する。

彼女の目は相変わらず深く淀んだままであり、諦めたような表情をしている。

「生きていくけど、お母さんがいなくっても、私……生きたいって、思えるかな。
お母さん自身や言葉が私をつくったのに……」

そう、本当は解り切っているかのように囁く。

生きていくのは、生きていくだけなら、それほど難しいことではない。
楽しいことや悲しいこと、そういうものを抜きにして、生きていくことは易しい。

ただ「生きていたい」「生きたい」と思えるかは、彼女の言うように別問題なのだろう。

「……思える、かな?」

青い目がゆらゆらと揺れ、渇望するように僕を見つめる。

答えが欲しい、と。

答えがない。
それに対する答えが。
雨宮ヨルの全てへの答えが、僕には見つからない。

見つめ合う。
青い眼差しを向けられるのが辛くなり、僕の方から目を逸らしてしまった。

それに対して、彼女は寂しそうに目を細めただけで、何も言わなかった。

「ごめんね。ジン君。
難しいよね。…でも、もう一つだけ訊かせてくれないかな?」

「……ああ」

「本当は…どうして、病室に来たの?」

冷たい声が耳を撫でる。

どうして来たのか。

そんなことは決まっている。
離して欲しいからだ。抜け出したいからだ。あの言葉から。

心配だからなんて、そんな理由ではない。

僕が押し黙っていると、雨宮ヨルは全てを見透かしたように、笑った。

「忘れても、いいよ」

澄んだ、どこまでも澄んだ声が僕の求めた言葉を紡いだ。

僕は間抜けにも目を見開いた。
そして、安堵した。………後悔も、した。

その言葉を言わせてはいけなかったのではないか、と。
本当は彼女の方こそ、赦されるべきであるのに。

「忘れてもいいよ。
お父さんのことも言ってもいいよ」

そう言ってから、彼女は立ち上がる。

「もう戻るね」と言いながら、くるりと回転し、僕へと向き直った。

その表情はいつものものと同じように見えた。

ただ青が、青色の瞳だけが、切ない。

「来てくれて、ありがとう。ジン君。
私もちょっと情緒不安定だったみたい。変なこと、言ったよね。あんまり気にしないで。
灰原君、早く目覚めるといいね。
気をつけて、帰るんだよ」

僕が何か言うよりも先に、その背中は遠ざかっていく。

亜麻色の髪が揺れ、白い手足をだらりとさせながら、歩いていく。

僕は自分の欲しい言葉をもらったはずなのに。
足が重くなり、動けない。

足が重い。身体が重い。

ただ、心が、心だけが、少し軽いのが……とても残酷だった。


***


病室のベッドの上で眠るお母さんの髪を梳かしながら、私はそういえば…と思った。

「思い出した……。あの花、捨てられちゃったんだっけ」




back

- ナノ -