*前編と設定は同じです。ですが、読んでなくても問題ないと思います。
大体『アルテミス』直後のお話となっています。








「思い出して」じゃなくて、「憶えてるよ」でもなくて、ただ「忘れないで」と思う。


***


海のような青い瞳。
嫌に不揃いな亜麻色の髪。
病的な白い肌。

それを見た瞬間に既視感に襲われた。

そして、その正体を今理解した。

ユウヤの見舞いに久々に病室を訪れ、室内を見回し、独特の薬品の匂いを嗅いだとき、不意に思い出した。
思い出せずにはいられなかった。

母親に手を払われ、必死に後を追いかける姿。

あの姿を呆然と、ただ当然のように見つめていた自分。

ああ、思い出した。

僕は彼女を知っている。


ユウヤの病室から出て、下の階にいると何やら騒がしかった。
廊下に人が集まっていて、ひそひそと何か話している。

「あの病室の人、また暴れたんですって」

「いやねー。この前も点滴外して廊下が水浸しで――」

どうやら、どこかの病室の患者が暴れたらしい。
ユウヤの病室は上の階なので特に被害はないだろうと思って、一階のロビーへと下りる。
名前を呼ばれるのを待っている人やただ話しているだけの人、様々な人がいる中でその姿が目に入った。

翻る亜麻色。
そこに混じる青色が一瞬だけ見えた。

振り返ると、そこに雨宮ヨルがいた。

治療費を精算しているのか、背伸びをしながらカウンターでお金を払い、処方箋を出してもらっているところだった。

「ありがとうございました」

丁寧にお辞儀をしてから、処方箋を手に振り返る。
僕の気配に気づいていなかったのか、振り返ってすぐに青い目を見開いた。

「………え、と…こ、こんにちは。ジン君」

そして、僕も目を見開く。
困ったように笑うその顔、右頬には大きなガーゼが貼られていた。
よく見れば、服の袖から見える白い腕に真新しい包帯が巻かれているのが見えた。
年齢に見合わない幼い容姿にそれらはあまりにも不釣り合いだった。

「……ああ」

「その、ジン君は誰かの…お見舞い?」

少し視線を彷徨わせてから、彼女は自然に見える不自然な笑顔でそう言った。
さり気なく服の袖を引っ張り、その腕を隠した。
その動作を無意識に追ってしまう。

「ユウヤがここに入院している」

「あ、そうか。灰原君が入院してるんだ。
元気、だった?」

「まだ、目を醒まさない」

「そう…。でも、あれだけ頑張ったんだから、まだ寝てても大丈夫だよ。
起きるときは起きるから。
心配しすぎるのは、ジン君の体にも悪いよ」

そう不思議な言い回しをした。
彼女からすれば、あれは頑張ったということなのか。
その認識は酷く歪んでいる気がして、何も言えなくなる。
青い瞳が純粋さに濁っている気がしてならない。

「……そうだな」

目を逸らし、早々に立ち去ろうとすると、不意に袖を控えめに引っ張られた。
視線を動かすと、幼い真っ白な手が僕の服の袖を掴んでいる。

まるで幽霊のようだと。
実体があるのに、そう思ってしまった。

「何か用か?」

「……ええ、と…特に用はないんだけど、少し話せないかな?」

ロビーの時計を確認する。
時間はある。

ただ問題なのは、僕の方にあまりその気がないということで。
彼女もそれはわかっているのか、それほど強く言えないようだった。

僕はもう一度時計と彼女を交互に見ながら、静かに頷いた。

「わかった」

僕がそう了承すると、彼女は幼く笑った。
そして、少しだけ強く腕を引かれる。
揺れる服の袖からあの真っ白な包帯がちらつく。

次に、当然のように、その頬に目が行く。
あの白いガーゼの下にはどんな傷があるのだろうか。
それを想像してしまう。
遠い記憶の中にある彼女の母親を同時に思い出す。
彼女はあの時のように、今も母親にああいうように扱われているのだろうか。

僕が心配しても仕方がないことを、ロビーのソファへと導かれる短い間に考えずにはいられなかった。

「え、と……」

ソファに座ったら、それはそれで話題がない。
気まずさからか、彼女が亜麻色の髪を弄るとその拍子に包帯が目に入る。

「君は…どうして、この病院にいるんだ?」

結局、僕の方から話を振る。
彼女は腕を擦り、静かに視線を下げながらも微笑んで答えた。

「お母さんが入院してるんだ、ここ。
設備も良いし、お医者さんも優秀だから」

「……そうか」

彼女はまだ母親と一緒にいるのか。

その事実がわかってしまった。
忘れていた罪悪感を突き付けるように。

「…その、怪我は?」

「ああ。これのこと?」

自分の頬を指差し、にこりと効果音が付きそうな笑みを浮かべる。

その時に抱いた感情はなんなのだろう。
嫌悪感なのか、恐怖心なのか。
得体の知れないものが腹の底から込み上げてくる。

「ええ、と……上の階でちょっと患者さんが暴れたのは知ってる、かな?」

「ああ」

「それに偶々居合わせて、巻き込まれたんだ。
かすり傷だよ。
看護師さんが大袈裟に心配しただけ。
あと、腕も」

あはは、と。
頬を押さえて、笑う。
そんなことはつまらないこと、些細なこと、笑い話にしかならないとでも言うように。

ただ…青い深海のような瞳だけが、諦めきったような寂しげな色をしている。

その瞳からはかつて見た、母親に縋る必死さや切実さは奪われているようだった。
いや、母親を前にしたら全て蘇るのかもしれないが。

僕はその瞳を見て、彼女を、雨宮ヨルを知っていると言うべきか迷っていた。

「……ごめん。
引き留めたけど、大したお話出来なかった。
私、薬を貰ってこなくちゃだから、もう行くね」

僕が言うべきか迷っていると、彼女の方から先に立ち上がる。
時計を確認するとそれほど時間は経っていない。

「さようなら。ジン君」

そう言って、背を向けようとする彼女に僕は知らず呟いていた。

「君は、僕を以前から知っているのか?」

確証のない、相手に責任を押し付けるような言い方になってしまう。
失敗したと思いながら取り繕う言葉を見つけられないままでいると、彼女は数秒目を丸くした後、優しい寂しげな笑顔を浮かべた。

包帯が巻かれた腕を服の上から擦り、そして首を横に振る。

「さあ?」

今度はこちらが少し驚く番だった。
彼女は優しげな眼差しを僕に向け、そしてロビーの雑踏に紛れそうな程小さな声で呟いた。

「         」



ロビーに一人残された僕は立ち上がると、さっき患者が暴れたという階に上る。
一つ一つ病室の名札を確認する。
その中に見知った苗字の人物を見つけた。
見つけはしたものの、病室の扉を開けることは出来ず、名前を確認しただけで立ち去ることにする。
下の階に下りる時、すれ違った看護師の会話が耳に入った。

「それにしても、五〇二号室の雨宮さん。
娘さんが来ると、いつもああなるわね」

「そうね。でも、あの子、本当に雨宮さんの娘なの?
髪も目の色も全然違うし…それに言ってたじゃない。
『貴女、誰よ?』って」

「そういえば、『あんたなんて知らない』とも言ってたわね。
家族の事情にはあんまり首を突っ込めないけど、気になるわね」

そんな、世間話だった。

何処か上の空で病院を出ると、僕はさっき雨宮ヨルに言われた言葉を思い出していた。

何度も反芻する。



「ねえ、忘れないで」



何を、誰を、忘れないでいて欲しいのだろうかと。
淀んだ青が何度も訴えかけてくる。



忘れないで――、と。





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