「何処に行くんだ?」

夜明け前。
部屋のドアノブから手を離したヨルにそう訊いた。
彼女は緩慢な動作で僕の方を見ると、青い目をゆるゆると動かしてから口を開いた。

「海」

眠そうに気持ち悪そうに彼女は言った。
明らかに海に行くような体調ではなさそうであり、そもそも服装が冬の海に行くというのには薄着で不釣り合いだ。
それでもふらふらとエレベーターと向かう彼女を思わず呼び止める。

「ヨル」

呼び止めると無言のまま振り返る。
おそらく寝不足で濁った青色からも大丈夫でないのは明らかだ。
僕は小さくため息を吐く。

「僕も行く」

我ながら過保護だろうかと思ってしまう一言だった。


***


ガタンと電車が大きく揺れる。
それに対して反応も示さず、ヨルは淡い紫色と赤と青が優しく混ざり合う夜明けを無言のまま見つめていた。
僕も最初のうちは存外揺れることに驚いていたが、もう慣れて持ってきていた文庫本を片手間に読んでいる。
時々目の前に座るヨルに視線を向け、居眠りしたらそのまま連れ帰ろうかとも考えていたが眠る気配は微塵もない。

僕とヨルの座る位置はちょうど向かい合う形であり、これは散々話し合った結果だった。

何を話し合ったのかと言われれば、席のことも含めてここに至るまでのほとんどのことで、だ。
一緒に行くということに対して押し問答をし、せめてマフラーぐらいはしろと無理矢理首に巻いてやり、このローカルな電車に乗るかどうかで揉めた。
席に関してはほぼ彼女が押し切る形でこの位置になったのだが。

本当は海に行くというのも反対した方がいいのはわかっていたのだが、一度決めたらそうそう引かないのが雨宮ヨルである。
それに関しては早々に諦めた結果、今のこの状況だ。

「………」

「………」

お互い無言のままに電車に揺られる。
ヨルは目線すら合わそうとしない。
僕の方も文庫本のページを一定の時間が経ったら捲りながら、彼女の昨日までの予定を思い出していた。

一週間前から彼女は里奈さんと一緒にイギリスに行っていた。
旅行ではない。
イギリスに研究のために住んでいるという父方の遠い親戚に会いに行っていたのだ。
その人が彼女を引き取ってくれるという。
彼女はその人との話し合いやお互いの相性を見るために日本を留守にしていた。

体調が悪そうなのは時差ボケか。
それとも、その親戚と何かあったのか。

「ヨル。
何かあったのか?」

確認しておく必要があるかと判断して、彼女に問いかける。
ヨルは漸く車窓から視線を逸らすと僕の目をまっすぐに見つめて言った。

「…何って、何が?」

「イギリスで何かあったのか」

改めてそう訊き返すと、彼女は「ああ。そのことか」と言ってから首を横に振った。

「特には何もなかったよ。
おじさん…優しい普通の人だった。
ちょっと抜けてるところもあったけど、上手くやっていけそう」

「そうか……それなら良いんだが…」

ならば、体調が悪そうなのは時差ボケか。
僕がそう訊くと、少し視線を彷徨わせてから彼女はこくんと子供っぽく頷いた。

ヨルは時々年齢に見合わない動作をする。
幼い子供のような動作。
それが何を意味するのか、解りたくてわかりたくない。

僕をまっすぐに見つめる彼女に対して、僕も文庫本を閉じて見つめ返す。
意味のある行動ではないことはお互いにわかっている。

窓の外には夜明けの優しい光と彼女の瞳と同じ色をした海が見え始める。
それに気づいたのか、ヨルも目を細めて海を見つめた。
彼女の瞳の方が淀んで見えるのは気のせいだといい。

「どうして、海だったんだ…?」

「……どうして?」

彼女が首を傾げると、亜麻色の髪がさらりと揺れる。
肩から音もなく零れ落ちるそれは陽の光を浴びて、微かに金色に輝いた。

「なんとなくだよ。ジン。
最近、行ってなかったから行ってみたくなっただけ」

「……そうか」

僕はその答えに何も言えなかった。
簡素な言葉の中の感情を読み取れ切れない。
それが堪らなく怖いのだ。

お互いに視線を逸らしかけた時、電車のアナウンスが目的地に着いたことを告げた。


ヨルは軽やかな足取りで駅を出ると、そのまま海に向かう。
風が冷たいのを物ともせずに歩を進めていくと、砂浜へと降り立った。
僕はただその背中を追いかける。
もしも海に入るようなことがあれば注意しようとは思うものの、さすがにそんな動きはせずに砂浜に座るだけに留まる。

膝を抱えて座る彼女から少し離れた位置に僕も座った。

夜が明けたばかりの金色の光を二人で見つめる。
思ったよりも気温は低く、吐く息も白い。
薄着で風邪を引かないだろうかと心配になる中、ヨルの方を見ると膝に顔を埋め、青い目だけがただ目の前の光を眩しそうに受け止めている。

「……思ったんだ」

唐突に彼女が話し出した。
目線は変えぬまま、それでもしっかりと。

「何をだ?」

「…本当に私でいいのかって。
おじさんが優しくて、それどころか…今のこの状況が信じられないくらい優しくて、本当に私でいいのかって思った。
ただ、それだけ」

静かな声でそう言うと、そのまま黙り込む。

自分でいいのだろうか。
本当は……それを享受するべきのなのは、やはり姉の方ではなかったのか。

ああ。やっぱり、何かあったんじゃないか。

気づかれないように溜め息を吐きながら、僕は少し空いていた距離を詰めた。
青い目がじろりと咎めるように埋まった距離を見る。

でも、それだけだ。

それ以上のことはしない。
今は彼女の思考がひどく疲れているのを知っているし、他人の僕が口を挟むべきでもない。
いや、本当は僕もその答えなんて知らないから。
ただ助けることは、傍にいることは出来るから。
無言のままそこにいると、隣から訝しむような視線を感じる。

「………」

しばらくするとその視線も止んで、ぽすんという軽い音と肩に重みを感じた。
見ると金色に輝く亜麻色が肩に零れている。
憮然とした表情の彼女を少し見下ろすような形になっていると、多少澄んできた青い瞳と目が合った。

「………寝ます」

「それがいい」

僕が頷くのを確認すると、しばらくして微かな寝息が聞こえてくる。
息を顰めるようなその寝息にどこか切ない気持ちになる。

優しい夜明けの中、小さなぬくもりを肩に感じながら、僕もそっと目を閉じた。




back

- ナノ -