75.Dearly Blue (76/76)


大粒の涙が青い瞳から止めどなく零れていく。
その海から直接水が零れるように。

小さな嗚咽が漏れ、肩が震えていた。
何も言うなと言われるままに抱き着かれた体勢のままでいるが、僕はどうするべきなのだろう。
ヨルの泣く姿は、まるで小さな子供だ。
容姿も、泣き方も、僕に縋りつく手も。

僕が少し体勢を直そうと身じろぎすると、嗚咽が少しだけ止む。

「…………」

それに少し目を細めてから、僕はその背中を軽く叩く。
あまり力を込めず、ゆっくりと、痛くはないだろうかと心配になりながら。

お互いに慣れないことをしているなと思ってしまう。

自分のことを棚に上げるわけではないけれど、特にヨルは…とそう思う。

でも、良いことだと思う。
涙の理由が例え、姉からの裏切りの告白だとしても。
その中に解り合おうという意志がある限りは。
きっと今までずっと泣けなかったのだろうから。

これは成長ではないのか。
ずっと留まって来た、ヨルが「大嫌い」で「愛している」場所から出るための。
そこから抜け出すことが罪悪だと信じて、頑張って踏み止まっていたのだろう。

震える背中を叩く。

もう頑張らなくていい、と。

もう大丈夫だ、と。

ヨルが泣き止むまでの時間、お互いが見えなくなっていく暗闇の中、ただずっとそうしていた。



「………………ごめん」

鼻を啜りながら、ヨルはそう言って顔を上げた。
暗闇の中でも未だに瞳が潤んでいるのがよくわかる。

「服、汚した。ごめん」

その言葉の通り、服に触ると涙や鼻水で湿っていた。

「洗えば問題ない」

「………洗ってどうにかなるのかな…」

まあ、問題ないだろう。
心配そうにするヨルの頭を一撫でしてから、夕食にしようと切り出す。
作るのは彼女だったり時折僕だったりするものの、基本的に夕食は僕の部屋で取るようにしている。
僕が玄関に向かおうと背を向けると、服の裾を掴まれる。
何かあったのかと訊こうとして首だけ少し後ろを向くように傾けると、何故かヨルと視線が合わない。

本人からすれば複雑そうな…僕からすれば面白い顔を横に向け、視線を合わせないようにしているのだ。

「あ……」

「?」

「…あ……り、がとう…。何…も言わないで、くれて。
………ありがとう。ジン」

そう途切れ途切れに僕に言った後、もう一回だけ鼻を啜る。
ヨルはこれ以上振り向かせまいと言うかのように、控えめに僕の背中を押し続ける。

「ああ」

僕は短くそう答えた。
背中を押す手やその温もりが少しくすぐったかった。



ヨルの涙を見た日から数日。
僕と彼女は空港にいた。
出発ロビーのベンチに二人で座っていると、ヨルが口を開く。

「……前にも来たけど、迷いそう」

「ここで迷子になっても、僕と真野さんとじいやでは捜し切れないからやめてくれ」

「うん。わかってる」

「冗談だよ」と彼女は続けた。

そうしていると、カウンターの方から真野さんとじいやがやってくるのが見える。
僕にはじいやがA国に同行してくれるが、彼女には向こうの空港まで真野さんが付いて行ってくれることになった。
そこから先はあちらの親戚の人に任せることになっている。
一度会っているからか、境遇が似ているからか、そのことに不安はないらしい。
イオの時とは打って変わって人見知りが激しいように感じる彼女に関して、心配事が減ったのは素直に良いことだと思う。

「あたしらの方が時間が早いね。
ぼちぼち準備しな。ヨル」

「あ、はい」

ヨルはその言葉通り、鞄を開き、忘れ物はないかを確認する。
とはいえ、彼女の荷物はほとんどないので確認はすぐに済んでしまう。
イギリスに送った荷物もそれほど苦労せずに纏められたのを思い出す。
元々彼女の持ち物は少ない。ほとんどが処分されてしまっていて、家から持ち出したものがそれほどなかったからだ。

「パスポート、財布、CCM、ティンカー・ベルもある。
……うん。大丈夫」

立ち上がり、座った時に付いた服の皺を伸ばす。
同じ時間に来たものの、僕のフライトまでには時間がある。
ゲートの前まで見送ろうと僕も立ち上がった。

「準備は出来たかい?」

「はい」

「じゃあ、一足先に行きますかね。
執事さん。お先に失礼しますよ」

そう言った真野さんにヨルは何事か耳打ちをする。
真野さんは「ほー」とか「わかった」とか言いながら、先にゲートの方に向かう。
追わないのかと訊くと、ヨルは「ちょっとね」と言ってからじいやに向かって頭を下げる。

「執事さん。
色々とお世話になりました」

「いいえ。
ヨル様の努力あってこそです。
よく頑張られました。
イギリスでも元気にお過ごしください。
ただし、定期連絡は忘れないようにお願いします」

ヨルはあちらに引き取られる際、じいやや拓也さんたちといくつか取り決めをしている。
その一つが定期連絡。
問題があれば、すぐに気付けるように。
それで完全に防ぎきれるとは限らないが予防策にはなるだろう。

じいやの言葉にヨルは頷く。

「はい。本当にありがとうございました」

深々と再び頭を下げる。
それから、彼女は僕へと向き直った。

「ジン」

落ち着いた、涼しげな声で僕の名前を呼んだ。
青い瞳が柔らかく揺れている。
そして、ぎこちなく…それでも今までよりもずっと良い笑顔で微笑んだ。

「え、と……ありがとう」

「?
この前のことか?」

「そ、それは……忘れなくてもいいけど、あんまり人前では…」

「そういうものなのか」

「うん。…お願いします」

別に恥ずかしがるようなことではないと思うが、本人が恥ずかしいと言うならあまり言わないようにしよう。

「それもだけど……。その…助けてくれて、ありがとう」

「僕はそれほどのことはしていない。
結局、ヨルを傷つけた。
僕の方こそ、すまない」

彼女の渇いた笑いが記憶から引きずり出される。
必死に腕を掴む小さな手を思い出す。
彼女をあんなふうにしたのは、間違いなく僕だ。
それを忘れてはいけない。
僕は結果的にはヨルを助けた形になったかもしれないが、半分以上は彼女自身の力だ。

「………あれは必要なことだったんじゃないかって、今なら思えるから、いいよ。
それに元は私がジンに持ちかけたんだよ。
挑発的な態度取って、ごめん」

「いや…今から考えれば、それほど悪くはなかった。
君にはそうではないかもしれなかったが……」

「うん。そうだね。
でも…苦しかったけど、楽しかったよ、私。
私でいられた。
イオは本当の私でもなかったけど、お姉ちゃんでもなかった。
二つの間をゆらゆらしてるあの感じ、気持ち悪かったけど、嫌いじゃなかったよ。

それに…今はちゃんと、雨宮ヨルだから」

まっすぐな眼差しが僕へと向けられる。
濁り淀んだ青はそこにはもうない。
澄んだ色をしている。

「だから、ありがとう。ジン。
助けてくれて、ありがとう。

私を見つけてくれて……ありがとう」

そう言って、深く深く頭を下げる。
そして、もう一度ぎこちなく笑った。

「僕もヨルを見つけられて、良かった。
だから、僕も礼を言う。
ヨル。ありがとう」

僕は自然にそう言っていた。
それにヨルは目を丸くしたが、すぐに「ふふっ」と楽しそうに笑う。
それに釣られて、僕も少し笑ってしまった。

さて、そろそろ彼女にとってはギリギリの時間だろう。
別れの言葉をかけるのもなんだか違う気がするが、ここはどうするべきだろうか。

そう思い、僕は少し考えてから彼女に手を差し出す。
その動作を不思議に思ったのか、彼女は首を傾げた。

「?」

「握手をしてくれないかと思ったんだ。
君が良ければだが」

僕がそう言うと、ヨルはしばらく差し出している手を見つめてから、おずおずと右手を伸ばす。
伸ばした手が僕の手に一瞬触れると、少しだけ手を引っ込めてしまう。

それでも、彼女はゆっくりと僕の手を握る。

「ええ、と……これで、もう友達?」

「………今まではそうではなかったのか?」

僕が訊くと、ヨルは途端に慌てだす。
握った手を何回も離しそうになっては握り直すのを繰り返すので、正直くすぐったい。

「いや、その…そうじゃなくて…!
友達の証明みたいな、不思議な感じがするんだ。
私、あんまり友達いなかったから」

「それはあまり誇らしいことじゃない」

「うん。そうだね。
でも、素直に嬉しい。
ジンは私の最初の友達、かな」

「ああ。そうだな」

透明な嬉しそうな声がする。
青い瞳は優しく揺蕩う。

その色を見ていると、僕はあの時の僕の選択は正しかったんじゃないかと思えた。
僕の主観でしかないけれど。
この先、その答えは正しくなくなるのではないかという恐怖は今もあるけれど。
助けられて、良かったと今はそう思える。

「イギリスでも元気で。
ヨル。
…まあ、何かあったらいつでも連絡してくれ。
世間話でも構わない」

僕のその言葉にヨルはまた目を丸くした。
僕らしくない言葉だと感じたのかもしれない。

しかし、それは一瞬だった。
彼女は僕の手を強く握り返すと、青い目でしっかりと僕を見据える。

「ありがとう。
ご好意に甘えて、時々手紙も書くかもしれない。
電話も……する、かな。

……それじゃあ、私はもう行きます。
着いたら、連絡する。

ジンも元気で」

その言葉を最後に、お互いに手を離す。

最後にじいやや僕にもう一度頭を下げてから、ゲートへと向かう。
長い亜麻色が翻り、その背中は自信に満ちている気さえする。

僕はその背中がゲートの奥に消えるまで見送った。

「………もう、大丈夫だな」

彼女の背中に呟く。

大丈夫。

その言葉は軽くはないはずだ。
しかし、以前ほどの陰鬱さを感じることはない。

僕も、ヨルも……もう大丈夫だ。

視線を上げて、時計を確認する。
僕の搭乗時間までは随分と間があった。
展望台のカフェでコーヒーでも飲もうと思い立ち、僕はゲートに背を向ける。

知らず、僕は笑っていた。
おそらくは不敵に、かつてのヨルのように自信ありげに。

彼女もいつかのような笑みを浮かべられるようになるだろうか。
いつでも良い。そうなればいいと思う。

そして、僕はただ一つだけ心から願う。

君がこの先ずっと、永らく、幸福でいてくれることを、ただ祈る。




ヨル。君に、幸あれ。




prev


- ナノ -