74.最愛の人へ (75/76)


室内は黄金色の光で満たされている。

そこで静かにゆっくりと呼吸をしながら、手の中のCCMと目の前のティンカー・ベルをじっと見つめていた。
頭からすっぽりとブランケットを被り、水色のカーペットの上でそうしている姿は自分でも滑稽だと思う。

視線の先のティンカー・ベルの中には、あの日ユイから受け取ったお姉ちゃんからというデータが入っている。
調べた限りでは音声データ。
データ量はそう多くはない。
多分、お姉ちゃんの声が録音されている。
そう考えればユイの声が事前に登録されていたのは頷ける。
お父さんはここからサンプリングしたのだろう。
お姉ちゃんの遺品は私ではなくお父さんが整理していたし、その時にメモリーか何かを見つけていたと考えるのが妥当か。

再生すれば、お姉ちゃんの声が聴ける。

ずっとずっと……聴きたかった声が、聴ける。
優しくて甘いはずの声がそこにある。

でも…どうしても再生ボタンが押せなくて、聴けないままに、ここまで来てしまった。
眠気や疲れを理由にして逃げていた。
お姉ちゃんから。

「今日こそは……」

聴かなければ。

拓也さんや里奈さん、八神さんや執事さんたちがすごく頑張ってくれて、私を引き取ってくれる人を見つけてくれた。
お父さんの遠い親戚の人。
イギリスで遺伝子工学の研究をしているというその人が私を引き取ってくれるという。
その人も両親がもう亡くなっていて、兄弟もいないらしい。
この前、里奈さんと一緒にイギリスに行って会って来た。
優しい人だった。
優しくて、どこか抜けていて、寂しい人だなと思った。
私の親戚の中では見たことがない翠色の瞳を寂しげに揺らしている、そんな人。
彼はイギリスから動く気はないらしいので、私は向こうに行って彼と住むことになる。

もう少しで私は日本を離れる。
別に向こうでこれを聴いたって問題はない。
問題はないけれども、それは許されない気がした。
本来彼女がこれを伝えたかったのは、当時の私だったのだろうから。
遅くなってしまったけれど私には聴く義務があると、私は思う。

内容がどんなものだって、私は多分何も変わらないと思う。
戸籍を、名前を取り戻しても全部が全部、すぐに取り戻せるわけじゃない。
まだ感情が少しだけ遠い。
だから、でも……まだ色々と欠けているから…もしもお姉ちゃんの声で罵詈雑言を言われるのではないかと思うと、怖い。

大好きだけど憎い。
憎くて仕方がない。
それが溢れてくるのも怖くて仕方がない。

「…………」

それでも、と。
私は再生ボタンに指を掛ける。

全て飲み込もう。
深呼吸する。
震える指を必死で抑えて、私は再生ボタンを押した。

ティンカー・ベルの小型スピーカーからノイズが少しだけして、それから、あの懐かしい声が黄金色の室内に響いた。


■■■


《えー…ちゃんと録音、出来てますかー?
あんまり性能良くないマイクを使っているので、お姉ちゃんはちょっと心配です。
聞き取りづらい部分があったら、ごめんね》

「………っ」

息を呑む。
久々に聴いたお姉ちゃんの声。本物の声。
私が真似て出していたものでもない、ユイが使っていた声でもない、私やお父さんが求めて止まなかった声。

《とにかく!
始めに、ヨルちゃん。お誕生日おめでとう!
もう十一歳だね!》

「ん?」

思わず首を傾げるが、そうだ。双子なんだから、誕生日が変わるはずないか。
あの日は私の誕生日でもあったのだ。
長く祝ってもらったことがないので忘れていた。
お姉ちゃんの誕生日という意識が強すぎて、自分のものでもあるという意識がなかった。

《…と言っても、ヨルちゃんはあまり誕生日に頓着しない子なので、実感ないかなあ。
うん。だから、さっさと本題に入ろう。
時間とデータ容量は無限じゃないしね。
誕生日ということで、お姉ちゃんは貴女に告白したいことがあるのでボイスメッセージを贈ることにしました。
まあ、誕生日は口実で言いたいこと……これなら言えるかなと思った結果です。
ヨルを目の前にしたら、言えなくなりそうで怖いから。でも、言わなければいけないと思ったから。
ちょっと長くなるけど、聞いてくれると嬉しいです》

そう言った後、少しだけ沈黙が訪れる。

どんな言葉が来るのか。私への文句か、恨み言か。
そんな言葉は聴きたくないと思って、停止ボタンを探そうとする手を必死で止める。

《ヨル。
私はね、正直に言ってしまうと貴女が……》

深呼吸が一つ入る。


《貴女がこの歳まで生きられるとは思ってなかったんだ》


「………っ」

予想外の言葉に思考が停止する。
それで全て遮れればいいのに、彼女の妙に冷静な声がどんどんと私の中に入ってくる。
慣れ過ぎた声がこういうときに疎ましい。

《姉として、こういう考えがおかしいのはわかってるんだけど、そう思わずにはいられませんでした。
薄情だとは思うけれど、お父さんの考えもお母さんの態度も親として不適格なのはわかっていたし……特にお母さんは。
あれが親の態度とはほど遠かったから……もっと早い段階で貴女は私の目の前から消えてしまうんだろうと、思っていました。
……ひどい話だよね。我ながら酷いにもほどがある。

そんなこと、思っちゃいけなかったのに》

彼女はそう自嘲する。
お姉ちゃんの聡明な瞳が脳裏に蘇る。
同時に胡乱な瞳も蘇った。
あの時、私が考えてしまったことが脳を揺さぶった。

お姉ちゃんの居場所が欲しいと思ってはいけなかったのに。

《ヨルは弱い人間でお母さんやお父さんに耐えられなくなるだろうって、勝手に想像していました。
生きて逃げるだけが逃げるための手段じゃない。
違う方を自分で選ぶか、あるいは誰かがそうすると思いながら、貴女に接していました。
ずっと小さい頃から…大切だと思いながら、守らなけれなと思いながら、子供の私ではどうしようもないんだと思い込んでた。
言い訳をしてしまうとお父さんもどう考えても普通じゃなかったから、どう言ってもわかってはもらえなくて、諦めが身に付いてた。言い訳だけどね。
いや、これにも言い訳があるかな》

「ねえ…ちょっと待って。……お姉ちゃん」

頭が付いていかない。

お姉ちゃんは頭が良くて、みんなが思っているよりも冷静で、どこまでも先を見ているような人だった。
その彼女は今、何を言っているんだろう。
体が重くなる。
泥が溜まっていくこの感覚は何度も経験している。
それでも、これが来るたびに息が出来ない。目の前がチカチカしてから、視界が一気に暗くなる。

吐きそうになったとき、不意に背後でガタっと小さな物音がした。

「?」

気持ちの悪い感覚が逸れて、少しだけ視界が明るくなる。
お姉ちゃんはまだ言葉を止めてはくれない。

《私は…多分、ずっと前からヨルを見下してたんだよ。

お父さんに束縛されているのが嫌だった。
良い子にしているのが堪らなく嫌だった。
それでも、私にはお父さんとヨルしかいなくて…お父さんを蔑ろにすることは、出来なくて……。
私を楽にしたくて、貴女を蔑ろにする方を選んだ。

私よりも辛いはずのヨルを見て、自分はどれだけマシなのかを想像したんだ。
自分の愚痴を言って、ヨルの言葉を押し込めた。
比べたの。比べたんだ。
双子の妹と自分の差を。どちらが不幸かを天秤にかけ続けた。
それで辛いのが誰かを知っていながら、私は私を優先した。

本当、最低だよね》

お姉ちゃんが呆れたように呟いた。
それはきっと自分に対してのもので、彼女はどんな顔をしてそう言ったのか。
いつか見た酷い顔をした鏡の中の私を思い出す。
あんな顔を彼女もしていたのだろうか。

《ヨル。
貴女は私に私になりたいって言ったよね?》

「……言った」

忘れるはずがない。
あれは言ってはいけないことだったのだから。

《そのとき、私ね、ぞっとしたんだ。
ヨルに対してじゃない。
私がしたことにぞっとしたの。
自分のしていたことを思い知った。

私が本当は言うべきだったんだよ。
お母さんの愛はおかしいって、お父さんの態度は親としても人間としてもおかしいって。
私はヨルが思うような姉じゃないって。
血を分けても、例え姿形が似ようとも……言うべきことは言わなければいけなかったんだって。
ヨルにあんなことを言わせてしまう前に、言うべきだった》

「何、言ってるの……」

悪寒が止まらない。
ブランケットの端を掴んで深く被ってみるけれど、納まる気配はない。
次に彼女はどんな言葉を私に向けるのか。

《ヨル。
貴女は自分で言うほど馬鹿じゃない。
察しはいいし、人の感情にちゃんと同調できる子だった。
それを「私になりたい」なんて言わせて、まるで私が……――

私が貴女の憧れみたいに、扱わせていた。

家族しか見えないようにした。
当たり前だって思い込ませた。
私の幸せと、私が幸せだと信じたヨルの幸せを守るために。

貴女を雁字搦めに縛りつけた。

弱い私を助けて欲しくて……ううん、弱い私を守りたくて…》

衣擦れの音が少しだけ聴こえてくる。
それが何をしたからこその動作なのかは私にわかるはずもない。
私はただ音声を止めることも忘れ、彼女の声を待つ。

《貴女は私よりもずっと強い。
心は誰よりも、強い。

ずっと羨ましかった。その強さが…私にも欲しかった。
ヨルが私の目や髪の色を欲しいって思っていたように、貴女の強さが欲しかった。

守られていたのは私。

弱かったのは……私。

貴女をそんなふうにしてしまったのも私……いや、私たちと言うべきかなあ。

素直さや一途さを妹だから、家族だから、私よりも子供だから、……お父さんを愛するのには邪魔だから、……自分にとって必要のないものだから…って…したのは、

私たち、家族。お母さんとお父さんと、そして……私》

「……違う」

私は強くなんてない。
最初におかしくなったのは私で、お姉ちゃんが羨むようなものを何一つ持ってなくて…。

そう言うのなら、本当に私が信じて来たものはなんだったのだろうか。
気づかなくて、気づいて……今まで長い時間をかけて、この前漸く大丈夫だと思えたのに。
家族を受け入れようとしたのに。
あの家族を。お母さんとお父さんを。
お姉ちゃんの記憶と一緒に。
自分勝手な問い掛けが頭をちらつく。

お姉ちゃんという支えをもう少しだけ持っていたかった私を、貴女はどうしたいの?

そんなこと、もういない人に……ただの記録に問うたところでただ滑稽なだけ。
結局後悔が音もなく、体の末端まで広がっていくだけなのだ。

《ごめんなさい。
謝って許されることじゃないけれど……ごめんなさい。

嘘を吐いていて、ごめんなさい。

本当に……ごめんね。
………卑怯で、ごめん。

こういう形で謝ろうと思いつくことこそ、何よりも卑怯だよね。
でも……そう、ヨルの青い目を見てると、どうしても言えなくなりそうで怖いんだ。
予防線を張るみたいに、私と同じ色にさせたのも卑怯》

そして、続ける。
声が震えているのは、多分気のせいじゃない。

《でも、言いたかったの。自己満足でもいいから。
そうしたら……今度こそちゃんと向き合って、私の本当に思っていたことも全て話して、ヨルの話をゆっくり聴こうって思ったんだ。

貴女から見たお母さんもお父さんも、私も…全部聞いてみようって思いました。

それから、私から見た貴女も。
ヨル。
私は貴女が羨ましい。
ずっと貴女みたいになりたかった》

最後の言葉に、私は泣きそうになった。
随分と遠ざかっていた感覚が蘇ってくる。

お姉ちゃんの声が聴けて嬉しい?
たった一人愛されていると思える人に「ごめんなさい」と言われて、悲しい?

違う。そうじゃない。

私はお姉ちゃんになりたかったのに。
なんで彼女が私みたいになりたいと言ってしまうのだろう。

それは私の否定だ。
私のなりたかったものが私の全てを否定している。

《それを妬んで、自分の弱さを肯定した。

そんなことは、もう止めるよ。

私はヨルを支えにし過ぎた。
ヨル、私はちゃんと貴女の隣を歩きたい。
貴女は一人でも歩ける。
貴女は強い。
その強さに見合うように私はなりたい。

………えーと、ヨルちゃんへのメッセージではなくなってしまいましたね。
これは私のただの我儘でした。
ヨルちゃんには違う誕生日プレゼント、ちゃんと用意したから!
これは……渡しません。
怖いけど、ヨルちゃんに直接言います。

それで嫌われても、最後まで伝えようと思います。
双子でなんとなく感覚で全てわかっちゃうかもしれないけど、言葉で言わなきゃわからないから、時間がかかっても聞いてください。

聴いてくれて、ありがとう。

それから……もう一回、お誕生日おめでとう。

私は貴女が生まれて来てくれて、本当に嬉しいです。
一緒に入れて本当に良かったと思います。

では! また明日。

鳥海ユイでした》

音声はそこで途切れる。
CCMを確認するけれども、これ以上はない。

ここで終わりなの。本当に…これで……。

何回も画面を確認するけれども、そうそう変わるはずもない。
私の手からCCMが音もなく落ちる。

「こんなの……嘘」

でも、嘘じゃない。

お姉ちゃんの言ったことは真実で本当に思っていたことで、私にはそれを確認することも、これを聴いてお姉ちゃんともう一度手を取り合うことも、もう出来ない。

お姉ちゃんはその先も考えて、これを言おうと決めた。
でもそれは全て、もう出来ない。出来るわけがない。

私は永遠に彼女と本当に解り合う機会を失ってしまった。

お姉ちゃんの笑顔には嘘があって、それは確かに悲しい。虚しい。
怒りたい。目の前で叫んで、彼女を責めてやりたい。

大嫌い……って、言ってやりたい。

「大嫌い…大嫌い、大嫌い大嫌い…大嫌い」

でも、強くなりたいって言ったお姉ちゃんもまた嘘じゃない。

大丈夫という言葉に嘘はなかった。
私の頭を撫でてくれたあの手の温度も、嘘なんかじゃなかった。

「………大好き」

そう言える。言えてしまう。
それが堪らなく悲しくて、でも真実で、これからも変わらない。

「……っ……」

堪えていたはずなのに、涙が一粒だけ零れた。
ぽたぽたと、あと数滴。
それ以上は零れてこなかった。

自分の涙を久しぶりに見た。

「……しょっぱい…」

ブランケットで涙を拭って、立ち上がる。
時計を確認するともういい時間で、ジンが私を呼びに来るはずだ。

泣いていたら、きっと心配する。
「どうしたんだ?」と訊かれる。
そうしたら、答えなければいけない。
お姉ちゃんからの言葉を話さなければならないのは避けたい。
訊かれたら、言ってしまいそうだから。

間違っていたのは誰か。

答えはもう出ているのだろうけれど、それに気づきたくない。

落ちたCCMとティンカー・ベルを拾い上げた。
もう一度ブランケットで顔を拭いてから、ドアノブに手を掛ける。

手を掛けたところで、私は思い出すべきだった。
そういえば、扉の外で何か物音がしたな、と。

「あっ……」

聞き知った声。
扉を開けた先、そこには驚いたような顔をしたジンが立っていた。
お互いにその場を動けない。

「……どうして?」

どうしてなんて、時計を見れば夕食の時間になるということはわかるし、私が部屋で寝ていると思って入って来たのだろう。
ここはジンの用意した部屋で隣にはジンも住んでいて、食事は一緒に食べることはここに住む時にした取り決めの一つだ。
何も不思議なことはない。

聴かれた。

あの音量なら確実に聴かれた。

「……すまない。
返事がないから寝ているんだと思って…勝手に入ってしまった」

それは、つまり聴いたことを告白したことになる。

赤い瞳が悲しげに揺れている。
その眼の中には私の青色も見るに堪えない酷い顔もどちらも映っていて、それが私を責めているようにも感じてしまう。
思わず、私の方から視線を逸らした。

「ヨル。あれは…」

「っ!
言わないで!」

ジンが何か言うよりも先に叫んでいた。
叫んで、それから逃げるように駆け出そうとして、でもジンはどいてはくれなかった。
彼にぶつかり、そのまま胸に飛び込む形になってしまう。

「大丈夫か? ヨル?」

心配そうな声が降ってくる。
肩に手が置かれ、その温度が伝わってくる。

さっき思い出したユイのぬくもりがそこにあるかのように錯覚してしまう。

その声に、温度に泣きたくなった。
いや、既に泣いていた。

ぼろぼろと、大粒の涙が目から零れてくる。
止めたくても止まらない。
自分のブラウスやジンの服がどんどんと濡れていく。

「ヨル?」

「………何も、言わないで」

顔を覗き込まれるのが嫌で、彼の服を掴んで私の顔をより胸に押し付けた。

ジンが戸惑っているのがわかる。
私だってどうすればいいのかわからない。

そのうち嗚咽が漏れてきて、肩も震える。

こんなふうに泣くのはいつぶりだろう。
もう思い出せない。
止め方がわからない。
さっきはどうやって止めたんだっけ。

「…………」

ジンが身じろぐのを感じた。
引き剥がされるんじゃないかと思っていると、その手が私の背をゆっくりと宥めるように叩く。
優しい、慈しむような音がする。

「……大嫌い」

ぽつりと呟く。
漸く出て来た言葉は悪意を帯びていた。

「…っ…大嫌い、大嫌い大嫌い、ユイ…なんて、お姉ちゃんなんて…」

「………ヨル」

間違っていたのは、最初に間違ってしまったのは…

「大嫌い…大嫌い……でも、」

本当に間違っていたのは、きっと……――






「愛してる」






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